八尾からは三味線と胡弓の音とともに、おわら風の盆が聞こえてくる。立春から数えてニヒャクトウカの日に、9月1日2日3日と毎年、唄って踊る
「懺悔の値打ちもない」で世に出た北原ミレイがいた。今は無き、銀巴里にも出演していたと。1975年、「石狩挽歌」でヒット曲を出している。その北原ミレイに1987年(昭和62年)作の「風の盆」がある
その前、1985年(昭和60年)に高橋治は「風の盆恋歌」を発表していた。そして日本放送協会からこの原作を基にしてドラマが作られたと
この頃から越中八尾は脚光を浴び出した。八尾町は平成の合併により2005年(平成17年)4月に富山市に合併された。合併された町の多くがそうであるように、富山市八尾町何某のままである。また和紙の産地でもある
昨今の祭りや踊りは元気が良い。音楽とはサウンドであるかのように、元気が良いだけである。それに反し、おわら風の盆は静寂さが漂ってくる。静謐さの中に情緒がある。男は若者がメリハリのある切れの良い踊り、女は編笠を被っているため、年齢は定かでないが優雅そのもの。それに胡弓の響き
終戦後、15年戦争の後、朝鮮動乱がおこった。その最中に浅間山麓や妙義山一帯に米軍の演習地計画が持ち上がった。1953年(昭和28年)軽井沢町では「軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)が成立し、委員長に田部井健次を選出し、2ヶ月余りの反対闘争で終結した
その闘争では、分裂が起きず、優れた指導者の元で町民が結集して成功した。成功した因として闘争期間が短かったため、一気に集中できたこともあろう
しかし、群馬県恩賀集落ではその後反対闘争が1955年(昭和30年)3月に終結するまで、2年近くの長き期間に継続せざるを得なかった。その間厳しい冬季の期間もあったが、1955年(昭和30年)3月1日政府の調達庁は妙義基地接収解除の通告で、住民の反対闘争は成功裏に終結した
その間の事情は、軽井沢町の全町協議会であった田部井健次委員長の「軽井沢を守った人々」に記載してある。この本は、当時の指導者であった田部井健次が、葉山町に移住した後に、移住後20年ぶりに軽井沢を訪れた際、1984年(昭和59年)の夏に語った内容を基にし軽井沢文化協会が1986年(昭和61年)に発行したものである
軽井沢町を離れた、軽井沢町の柵から放たれた田部井健次の記憶を元に、語った内容であるが、真実味があろう。軽井澤町報でも1953年(昭和28年)5月15日号では米軍演習地に対して基本的に反対、6月15日号では教育の見地から反対している。7月16日に外務省から使用取り消しの公式発表があった後の8月15日号では全町協議会からの脱退を各団体が表明していた
その中にあって、妙義恩賀地区では一時分裂の危機もあったが、最終的に勝利を収めた。その記念碑が建っていると聞いて尋ねてみた。場所は上信越自動車道の碓氷軽井沢インタ-チェンジから2Km弱である
小生は高崎からの国道18号線を横川を越え軽井沢方向に碓氷バイパスを登って、恩賀方向の県道92号線(松井田軽井沢線)を左折した。この県道は入山川に沿って舗装されているが、舗装状態は良くなく、所々道路敷設をしていた。山道であるが、途中、集落は散在していた。時として正面に妙義の山々が見えていた。曲りくねった坂を登りきると右に右折する道があり、高岩山登山口の標識がたっていた
右折して、墓地を過ぎると人家が左手に見えた。道端で品の良さそうな婆さんが草取りをしていたので、記念碑を訪ねた。戻って、高岩山登山入口の下だと。道端に朽ちかけた「基地闘争碑入口」と書かれた木造が建っていた。登っていくと、鎖で塞がれていたが、彼方に碑が見えた。
夏であるため、草は伸びきっていたが、碑は石碑で文字はくっきりと見えた。正面に「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」と描かれていた
1953年(昭和28年)3月 米軍側から恩賀八風平に山岳訓練学校を設置し、妙義・浅間の一帯の広範囲にわたる地域を米軍基地とすることを示してきた。当然、中心である恩賀、そして県全体に反対運動がひろがっていった。保守革新を問わず県行政も加わっての反対運動となった。しかし時間がたつにつれて妙義軍事基地反対共同闘争委員会並びに同右恩賀同志会に結集する県民の闘いとなっていった。分裂攻撃に負けず2年間熾烈な闘いが展開されていった。そして日本の米軍事基地反対闘争に例を見ない勝利の結果を得たのである。
この闘いは基地闘争のあり方にいろいろな教訓を与えるほど極めて重要な典型的なものであった。いま三十有余年を経てこの地に記念碑を建立し、これらの歴史をふりかえるよすがとするものである 1987年(昭和62年)9月 菊地定則
裏には建設した寄付者の氏名、50音別に個人名110余名、日本社会党群馬県本部、日本共産党群馬県委員会、群馬県高等学校教職員組合、群馬県平和委員会、劇団群馬中芸、新日本婦人の会群馬県本部、日本共産党松井田町委員会、日本国民救援会群馬県本部、他区名数名数団体、施工㈱石のサンポウと記してあった
菊池定則は高教組の委員長だったとか、「基地ハイラナイ、妙義米軍基地反対闘争勝利50周年集いの記録」の外多くの著作もあると、山形県の出身であり、戦前は南満州鉄道に就職し、陸軍に属したが、肺結核を患い、1943年(昭和18年)暮れに帰還したと
樹木や草が伸びない季節には正面に朝鮮の金鋼山に似た「高岩」が眺望できるとか
闘争誌を紐解いてみると、1954年(昭和29年)1月4日恩賀22戸中5戸が条件派に転向、1955年(昭和30年)1月20日測量隊、武装警官50名に守られ、強制測量との記述も見受けられる。どのように闘ったかは分からないが、熾烈な闘いであったことは想像できる
上信越自動車道が出来る前は、高崎から軽井沢への道は国道18号線であった。旧中山道や信越線と平行して走っていたが、碓氷峠の難所をかかえていた。碓氷峠は曲がりくねって高崎側からは一気に登りとなる。箱根峠にも匹敵する急坂であったため、また高崎からは一本道であったため、渋滞を招いた。1971年(昭和46年)それを解消すべく碓井バイパスが作られた。
1993年(平成5年)上信越自動車道の藤岡IC~佐久ICの開通に伴い、碓氷軽井沢インタ-チェンジや松井田妙義インタ-チェンジも開設された。
また、鉄道では、長野新幹線が1997年(平成9年)10月1日東京~長野の開通に伴い、信越線については、横川駅~軽井沢駅が廃止されている
軽井沢町や恩賀地区に米軍基地が出来ていたならば上信越自動車道も新幹線も現在の路線ではなく、大幅に変更されたかと思われる。因みに碓氷軽井沢インタ-チェンジの所在地は群馬県安中市松井田町西野牧17083となっている。また、上信越自動車道は軽井沢町を通過していない
東京の山手線の目黒駅が品川区であるように、上信越自動車道では軽井沢町は関係ない。ただ評判だけで名前を借りただけである。碓氷峠は18号線に存在するが、明治時代には群馬県(上野国)碓氷郡はあったとか
時代は令和に入ったとか。昭和、平成を経過して令和になったが、その礎は昭和にあるとも言える