「あとがき」で、次の一作こそが生涯の最高傑作になるはずだと思って書き続けるのは、文豪に限らず、作家という人種の習性であろう。だから、多くの作家はすでに書いてしまった作品には興味を示さなくなる。私の尊敬する亡き開高健さんは自分の著書が出版されると一度も読まずに押し入れの奥深く蔵したそうである。
一理あるな
南木佳士の南木(なぎ)とは、同じ医者である加賀乙彦との文学界での対談で、浅間山麓の嬬恋村の出身で、南木という名前も、あのへん一帯を指す地元の言葉なんですね。土地の人たちは南木山と言う言い方をします。と
因みに、佳士とは長男の名前である
この本は、勤務先の佐久総合病院の若月俊一との対談・聞き取りである。岩波書店からの刊行である。岩波書店の創始者、岩波茂男は長野県諏訪の出身。信州出身の出版社はみすずかる信濃の「みすず書房」や「筑摩書房」など硬派の出版社が多い
ある作家が、社員の後姿を見て、出版社の名前が分かると言っていたが、それほど昔の出版社は個性を持っていた
若者たちと過去を共有できなくなったとき、人は老いるのであろう。最近の研修医が悪いのではなく、私が老いただけなのだ。と 南木佳士は言っている
南木佳士はダイヤモンドダストで芥川賞を受賞した。現実に、南木佳士は軽井沢病院に執行されていて、軽井沢に居住していた時期があった。その時の経験を基にしてダイヤモンドダストを描いた
ダイヤモンドダストには、「人の作る機械は、その速度が速くなればなるほど大きな罪を造るようです。乗るなら罪の少ない乗り物に越したことはないのです」
「(軽井沢に)帰ってくるたびに、この町は下品になっていくみたいな気がするわね」
「私の家のような百姓と別荘の客たちがお互いの分をわきまえていた時代が、この町のいちばんいい頃だったわね。差別じゃなくて、区別がはっきりしていたのよね」との記述もある
88歳の秋 若月俊一の語る老いと青春には、「不思議なんですけれども、そういうふうに腹の据わったことをおっしゃる老人患者さんは、なぜかみんなおばあさんなんですよね。おじいさんはなかなか悟らないんです。おばあさんがしっかりしています」
「たとえば、独りで暮らしているおばあさんで夜中に体の具合が悪いときは全部戸を開け放って寝ているというんです。それは、朝死んでいたら隣の人がすぐ見つけてくれるように」、そういうことを淡々と外来でおっしゃいますよね
「これも独り暮らしのおばあさんですが、自分の葬式に呼ぶべき人の名前をノ-トに書き出して、ちゃんとしまっておくというような人もいるんですね」
坂口安吾が42歳のときに書いたエッセイですが、ここに「闘っていれば負けないのです。決して勝てないのです。人間は決して勝ちはしません。ただ負けないために闘っているのです」とありますが
信州は農協が強い。農協の組織が強い。JA長野厚生連で経営している病院が多い。全国的にもネ珍しいのではないかな
酒屋の作った町、小布施の高速道路に小布施SAがある。当初は農協に運営をお願いしたが承諾しなかったので、地元農民が結束してSAに店を出した。そして活気が出てくると農協が入ってきたと
JA農協は商売もうまいか、利に聡い面もある
永六輔が以前に若い取材者に向かって、取材に来るならその対象者のことを調べてから来いと言っていた。南木佳士は若月俊一のことを調べた
太宰治は、1909年(明治42年)に誕生して1948年(昭和23年)に亡くなった。若月俊一は1910年生まれ。因みに松本清張は1909年(明治42年)に誕生して、1992年(平成4年)に亡くなった
ほぼ同じ時代に生まれたが、若月俊一は生命力があった。そして前口上で、若月は雄弁である反面、口よりも態度で示す方が有効だと判断したときは優れたパフォ-マ-になり、それによって職員の気持ちを一気に引き寄せてしまう指導者であった。こういう資質が生得のものなのか、訓練によって身に付けられたのかは不明だが、私も一度だけこの若月マジックを見せてもらったことがある。
平成元年の冬、私が第百回芥川賞を受賞したとき、故郷の村が祝賀会を開いてくれた。若月にも来賓として出席してもらったのだが、会場の控え室の和室で若月と私と妻の三人が座布団に座って雑談しているところに村長をはじめとする村役場の幹部たちが挨拶に来た。すると、若月は目にも止まらぬ速さで自分の座布団を村長に差し出し、
「このたびはお招きにあずかりましてありがとうございます。私が若月でございます」と畳に正座して深々と頭を下げた。
村長以下の恐縮する様に、私と妻は声も出ず、亜然としていた。ああ、若月はこうやって保守的な村の権力者たちの懐に入り、革新的な医療事業を展開して来たのだな、と気づいたのはしばらく時間が経ってからだった。
戦後、吉行淳之介は「軽薄のすすめ」を描いた。軽薄とは軽薄になるんだな、あるいは軽薄を身に付けていく、あるいは軽薄さを武器にしていくものなんだ。生来の軽薄とは難しい。いや生来の軽薄ならそれで充分財産になるな
吉行淳之介も生命力は強かった
司馬遼太郎さんは、「思想というものは酒と同じで、酔える人と酔えない人がいる。だから思想に酔えないものにとっては、思想に酔っている人たちの言うことがよく分からないことがある」というのですが、・・・・・・
宗教もそうだな
起訴されて、裁判で有罪が確定した人の入るのが刑務所なんですね。それまでの人が入っているのが留置場なので、先生の場合は、あのころの悪法といわれた治安維持法にてらしてみても裁判を維持できるほどの証拠がなかったということですね。
そのチェルノブイリ事故による病気の治療をやっている先生が、やっぱり自分は外科医でよかったと書いています。外科医だから困っている人を前にして具体的になにかしてやれたんだということをいっています。先生もそうですね、外科医だから。
そう、僕も外科医だからよかった。
そのへんは内科医ではちょっとだめだったということがありますよね。
私がカンボジア難民支援の医療団にいたときも、ああいうところではやっぱり外科医たちが活躍するんですね。内科医はあまり出番がない。
それを象徴する出来事として出てくるのは、嵐山光三郎さんの「桃仙人」(ちくま文庫)という深沢七郎さんのことを書いた本です。先生とあれだけ仲良くしていた深沢七郎さんなのですが、あるとき佐久病院の前を車で通り過ぎちゃうですって。「なんで佐久病院に寄らないんですか」と嵐山さんが聞いたら、「先生が銅像を建てちゃったから、それが気に入らない」っていう、そういうことが書いてありまして。
いまになれば、それが先生が現実と折り合ったということの象徴だと思うんですよ。
太宰治も若月俊一も松本清張も明治の終わりに生まれた。太宰は、芥川に憧れて芥川賞の受賞は無かったが、戦後あっという間に亡くなった。
世代を表すのに、終戦.敗戦を境にして戦前、戦中、戦後と言われた。また60年安保を境にして安前派、安中派、安後派と言われもした。同じ年、同じ日に生まれても、例えば五木寛之と石原慎太郎とはまるっきり違うが、やはり世代の時代の影はあろうな
安中派、安前派は少なくなった。ましてや戦中派、戦前派は少なくなった。先日とある蕎麦屋に入った。司馬遼太郎の「街道を行く」が額になっていた。司馬さんが来たのと聞いたら来たと
無駄話をして、食事をして外に出たら爺さんがにこにこして立っていた。よい顔なんだな。この店の店主とか。木場からかみさんの実家であるこの地に流れてきたと。その日は3月10日、東京大空襲の日だったな。ちゃんと覚えているんだな。もっとも忘れることは無いだろうが。この地に来て50年以上過ぎたが、まだ余所者だと
街道を行くにも書いてあったが、司馬さんが来た日、テレビはつけっぱなしで、田中角栄のロッキ-ド疑獄で逮捕されたと
ドメスティックを家庭と訳したが、家庭とはかみさんで持っている。山の神とも言うが、山の神に従っていれば間違いないかな
風流夢譚は1960年の作だったな
一理あるな
南木佳士の南木(なぎ)とは、同じ医者である加賀乙彦との文学界での対談で、浅間山麓の嬬恋村の出身で、南木という名前も、あのへん一帯を指す地元の言葉なんですね。土地の人たちは南木山と言う言い方をします。と
因みに、佳士とは長男の名前である
この本は、勤務先の佐久総合病院の若月俊一との対談・聞き取りである。岩波書店からの刊行である。岩波書店の創始者、岩波茂男は長野県諏訪の出身。信州出身の出版社はみすずかる信濃の「みすず書房」や「筑摩書房」など硬派の出版社が多い
ある作家が、社員の後姿を見て、出版社の名前が分かると言っていたが、それほど昔の出版社は個性を持っていた
若者たちと過去を共有できなくなったとき、人は老いるのであろう。最近の研修医が悪いのではなく、私が老いただけなのだ。と 南木佳士は言っている
南木佳士はダイヤモンドダストで芥川賞を受賞した。現実に、南木佳士は軽井沢病院に執行されていて、軽井沢に居住していた時期があった。その時の経験を基にしてダイヤモンドダストを描いた
ダイヤモンドダストには、「人の作る機械は、その速度が速くなればなるほど大きな罪を造るようです。乗るなら罪の少ない乗り物に越したことはないのです」
「(軽井沢に)帰ってくるたびに、この町は下品になっていくみたいな気がするわね」
「私の家のような百姓と別荘の客たちがお互いの分をわきまえていた時代が、この町のいちばんいい頃だったわね。差別じゃなくて、区別がはっきりしていたのよね」との記述もある
88歳の秋 若月俊一の語る老いと青春には、「不思議なんですけれども、そういうふうに腹の据わったことをおっしゃる老人患者さんは、なぜかみんなおばあさんなんですよね。おじいさんはなかなか悟らないんです。おばあさんがしっかりしています」
「たとえば、独りで暮らしているおばあさんで夜中に体の具合が悪いときは全部戸を開け放って寝ているというんです。それは、朝死んでいたら隣の人がすぐ見つけてくれるように」、そういうことを淡々と外来でおっしゃいますよね
「これも独り暮らしのおばあさんですが、自分の葬式に呼ぶべき人の名前をノ-トに書き出して、ちゃんとしまっておくというような人もいるんですね」
坂口安吾が42歳のときに書いたエッセイですが、ここに「闘っていれば負けないのです。決して勝てないのです。人間は決して勝ちはしません。ただ負けないために闘っているのです」とありますが
信州は農協が強い。農協の組織が強い。JA長野厚生連で経営している病院が多い。全国的にもネ珍しいのではないかな
酒屋の作った町、小布施の高速道路に小布施SAがある。当初は農協に運営をお願いしたが承諾しなかったので、地元農民が結束してSAに店を出した。そして活気が出てくると農協が入ってきたと
JA農協は商売もうまいか、利に聡い面もある
永六輔が以前に若い取材者に向かって、取材に来るならその対象者のことを調べてから来いと言っていた。南木佳士は若月俊一のことを調べた
太宰治は、1909年(明治42年)に誕生して1948年(昭和23年)に亡くなった。若月俊一は1910年生まれ。因みに松本清張は1909年(明治42年)に誕生して、1992年(平成4年)に亡くなった
ほぼ同じ時代に生まれたが、若月俊一は生命力があった。そして前口上で、若月は雄弁である反面、口よりも態度で示す方が有効だと判断したときは優れたパフォ-マ-になり、それによって職員の気持ちを一気に引き寄せてしまう指導者であった。こういう資質が生得のものなのか、訓練によって身に付けられたのかは不明だが、私も一度だけこの若月マジックを見せてもらったことがある。
平成元年の冬、私が第百回芥川賞を受賞したとき、故郷の村が祝賀会を開いてくれた。若月にも来賓として出席してもらったのだが、会場の控え室の和室で若月と私と妻の三人が座布団に座って雑談しているところに村長をはじめとする村役場の幹部たちが挨拶に来た。すると、若月は目にも止まらぬ速さで自分の座布団を村長に差し出し、
「このたびはお招きにあずかりましてありがとうございます。私が若月でございます」と畳に正座して深々と頭を下げた。
村長以下の恐縮する様に、私と妻は声も出ず、亜然としていた。ああ、若月はこうやって保守的な村の権力者たちの懐に入り、革新的な医療事業を展開して来たのだな、と気づいたのはしばらく時間が経ってからだった。
戦後、吉行淳之介は「軽薄のすすめ」を描いた。軽薄とは軽薄になるんだな、あるいは軽薄を身に付けていく、あるいは軽薄さを武器にしていくものなんだ。生来の軽薄とは難しい。いや生来の軽薄ならそれで充分財産になるな
吉行淳之介も生命力は強かった
司馬遼太郎さんは、「思想というものは酒と同じで、酔える人と酔えない人がいる。だから思想に酔えないものにとっては、思想に酔っている人たちの言うことがよく分からないことがある」というのですが、・・・・・・
宗教もそうだな
起訴されて、裁判で有罪が確定した人の入るのが刑務所なんですね。それまでの人が入っているのが留置場なので、先生の場合は、あのころの悪法といわれた治安維持法にてらしてみても裁判を維持できるほどの証拠がなかったということですね。
そのチェルノブイリ事故による病気の治療をやっている先生が、やっぱり自分は外科医でよかったと書いています。外科医だから困っている人を前にして具体的になにかしてやれたんだということをいっています。先生もそうですね、外科医だから。
そう、僕も外科医だからよかった。
そのへんは内科医ではちょっとだめだったということがありますよね。
私がカンボジア難民支援の医療団にいたときも、ああいうところではやっぱり外科医たちが活躍するんですね。内科医はあまり出番がない。
それを象徴する出来事として出てくるのは、嵐山光三郎さんの「桃仙人」(ちくま文庫)という深沢七郎さんのことを書いた本です。先生とあれだけ仲良くしていた深沢七郎さんなのですが、あるとき佐久病院の前を車で通り過ぎちゃうですって。「なんで佐久病院に寄らないんですか」と嵐山さんが聞いたら、「先生が銅像を建てちゃったから、それが気に入らない」っていう、そういうことが書いてありまして。
いまになれば、それが先生が現実と折り合ったということの象徴だと思うんですよ。
太宰治も若月俊一も松本清張も明治の終わりに生まれた。太宰は、芥川に憧れて芥川賞の受賞は無かったが、戦後あっという間に亡くなった。
世代を表すのに、終戦.敗戦を境にして戦前、戦中、戦後と言われた。また60年安保を境にして安前派、安中派、安後派と言われもした。同じ年、同じ日に生まれても、例えば五木寛之と石原慎太郎とはまるっきり違うが、やはり世代の時代の影はあろうな
安中派、安前派は少なくなった。ましてや戦中派、戦前派は少なくなった。先日とある蕎麦屋に入った。司馬遼太郎の「街道を行く」が額になっていた。司馬さんが来たのと聞いたら来たと
無駄話をして、食事をして外に出たら爺さんがにこにこして立っていた。よい顔なんだな。この店の店主とか。木場からかみさんの実家であるこの地に流れてきたと。その日は3月10日、東京大空襲の日だったな。ちゃんと覚えているんだな。もっとも忘れることは無いだろうが。この地に来て50年以上過ぎたが、まだ余所者だと
街道を行くにも書いてあったが、司馬さんが来た日、テレビはつけっぱなしで、田中角栄のロッキ-ド疑獄で逮捕されたと
ドメスティックを家庭と訳したが、家庭とはかみさんで持っている。山の神とも言うが、山の神に従っていれば間違いないかな
風流夢譚は1960年の作だったな