風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

88歳の秋 若月俊一の語る老いと青春

2016-03-21 13:17:48 | 文藝
「あとがき」で、次の一作こそが生涯の最高傑作になるはずだと思って書き続けるのは、文豪に限らず、作家という人種の習性であろう。だから、多くの作家はすでに書いてしまった作品には興味を示さなくなる。私の尊敬する亡き開高健さんは自分の著書が出版されると一度も読まずに押し入れの奥深く蔵したそうである。

一理あるな

南木佳士の南木(なぎ)とは、同じ医者である加賀乙彦との文学界での対談で、浅間山麓の嬬恋村の出身で、南木という名前も、あのへん一帯を指す地元の言葉なんですね。土地の人たちは南木山と言う言い方をします。と

因みに、佳士とは長男の名前である

この本は、勤務先の佐久総合病院の若月俊一との対談・聞き取りである。岩波書店からの刊行である。岩波書店の創始者、岩波茂男は長野県諏訪の出身。信州出身の出版社はみすずかる信濃の「みすず書房」や「筑摩書房」など硬派の出版社が多い

ある作家が、社員の後姿を見て、出版社の名前が分かると言っていたが、それほど昔の出版社は個性を持っていた

若者たちと過去を共有できなくなったとき、人は老いるのであろう。最近の研修医が悪いのではなく、私が老いただけなのだ。と 南木佳士は言っている

南木佳士はダイヤモンドダストで芥川賞を受賞した。現実に、南木佳士は軽井沢病院に執行されていて、軽井沢に居住していた時期があった。その時の経験を基にしてダイヤモンドダストを描いた

ダイヤモンドダストには、「人の作る機械は、その速度が速くなればなるほど大きな罪を造るようです。乗るなら罪の少ない乗り物に越したことはないのです」

「(軽井沢に)帰ってくるたびに、この町は下品になっていくみたいな気がするわね」

「私の家のような百姓と別荘の客たちがお互いの分をわきまえていた時代が、この町のいちばんいい頃だったわね。差別じゃなくて、区別がはっきりしていたのよね」との記述もある

88歳の秋 若月俊一の語る老いと青春には、「不思議なんですけれども、そういうふうに腹の据わったことをおっしゃる老人患者さんは、なぜかみんなおばあさんなんですよね。おじいさんはなかなか悟らないんです。おばあさんがしっかりしています」

「たとえば、独りで暮らしているおばあさんで夜中に体の具合が悪いときは全部戸を開け放って寝ているというんです。それは、朝死んでいたら隣の人がすぐ見つけてくれるように」、そういうことを淡々と外来でおっしゃいますよね

「これも独り暮らしのおばあさんですが、自分の葬式に呼ぶべき人の名前をノ-トに書き出して、ちゃんとしまっておくというような人もいるんですね」

坂口安吾が42歳のときに書いたエッセイですが、ここに「闘っていれば負けないのです。決して勝てないのです。人間は決して勝ちはしません。ただ負けないために闘っているのです」とありますが

信州は農協が強い。農協の組織が強い。JA長野厚生連で経営している病院が多い。全国的にもネ珍しいのではないかな

酒屋の作った町、小布施の高速道路に小布施SAがある。当初は農協に運営をお願いしたが承諾しなかったので、地元農民が結束してSAに店を出した。そして活気が出てくると農協が入ってきたと

JA農協は商売もうまいか、利に聡い面もある

永六輔が以前に若い取材者に向かって、取材に来るならその対象者のことを調べてから来いと言っていた。南木佳士は若月俊一のことを調べた

太宰治は、1909年(明治42年)に誕生して1948年(昭和23年)に亡くなった。若月俊一は1910年生まれ。因みに松本清張は1909年(明治42年)に誕生して、1992年(平成4年)に亡くなった

ほぼ同じ時代に生まれたが、若月俊一は生命力があった。そして前口上で、若月は雄弁である反面、口よりも態度で示す方が有効だと判断したときは優れたパフォ-マ-になり、それによって職員の気持ちを一気に引き寄せてしまう指導者であった。こういう資質が生得のものなのか、訓練によって身に付けられたのかは不明だが、私も一度だけこの若月マジックを見せてもらったことがある。

平成元年の冬、私が第百回芥川賞を受賞したとき、故郷の村が祝賀会を開いてくれた。若月にも来賓として出席してもらったのだが、会場の控え室の和室で若月と私と妻の三人が座布団に座って雑談しているところに村長をはじめとする村役場の幹部たちが挨拶に来た。すると、若月は目にも止まらぬ速さで自分の座布団を村長に差し出し、
「このたびはお招きにあずかりましてありがとうございます。私が若月でございます」と畳に正座して深々と頭を下げた。
村長以下の恐縮する様に、私と妻は声も出ず、亜然としていた。ああ、若月はこうやって保守的な村の権力者たちの懐に入り、革新的な医療事業を展開して来たのだな、と気づいたのはしばらく時間が経ってからだった。

戦後、吉行淳之介は「軽薄のすすめ」を描いた。軽薄とは軽薄になるんだな、あるいは軽薄を身に付けていく、あるいは軽薄さを武器にしていくものなんだ。生来の軽薄とは難しい。いや生来の軽薄ならそれで充分財産になるな

吉行淳之介も生命力は強かった

司馬遼太郎さんは、「思想というものは酒と同じで、酔える人と酔えない人がいる。だから思想に酔えないものにとっては、思想に酔っている人たちの言うことがよく分からないことがある」というのですが、・・・・・・

宗教もそうだな

起訴されて、裁判で有罪が確定した人の入るのが刑務所なんですね。それまでの人が入っているのが留置場なので、先生の場合は、あのころの悪法といわれた治安維持法にてらしてみても裁判を維持できるほどの証拠がなかったということですね。

そのチェルノブイリ事故による病気の治療をやっている先生が、やっぱり自分は外科医でよかったと書いています。外科医だから困っている人を前にして具体的になにかしてやれたんだということをいっています。先生もそうですね、外科医だから。
そう、僕も外科医だからよかった。
そのへんは内科医ではちょっとだめだったということがありますよね。
私がカンボジア難民支援の医療団にいたときも、ああいうところではやっぱり外科医たちが活躍するんですね。内科医はあまり出番がない。

それを象徴する出来事として出てくるのは、嵐山光三郎さんの「桃仙人」(ちくま文庫)という深沢七郎さんのことを書いた本です。先生とあれだけ仲良くしていた深沢七郎さんなのですが、あるとき佐久病院の前を車で通り過ぎちゃうですって。「なんで佐久病院に寄らないんですか」と嵐山さんが聞いたら、「先生が銅像を建てちゃったから、それが気に入らない」っていう、そういうことが書いてありまして。

いまになれば、それが先生が現実と折り合ったということの象徴だと思うんですよ。

太宰治も若月俊一も松本清張も明治の終わりに生まれた。太宰は、芥川に憧れて芥川賞の受賞は無かったが、戦後あっという間に亡くなった。

世代を表すのに、終戦.敗戦を境にして戦前、戦中、戦後と言われた。また60年安保を境にして安前派、安中派、安後派と言われもした。同じ年、同じ日に生まれても、例えば五木寛之と石原慎太郎とはまるっきり違うが、やはり世代の時代の影はあろうな

安中派、安前派は少なくなった。ましてや戦中派、戦前派は少なくなった。先日とある蕎麦屋に入った。司馬遼太郎の「街道を行く」が額になっていた。司馬さんが来たのと聞いたら来たと

無駄話をして、食事をして外に出たら爺さんがにこにこして立っていた。よい顔なんだな。この店の店主とか。木場からかみさんの実家であるこの地に流れてきたと。その日は3月10日、東京大空襲の日だったな。ちゃんと覚えているんだな。もっとも忘れることは無いだろうが。この地に来て50年以上過ぎたが、まだ余所者だと

街道を行くにも書いてあったが、司馬さんが来た日、テレビはつけっぱなしで、田中角栄のロッキ-ド疑獄で逮捕されたと

ドメスティックを家庭と訳したが、家庭とはかみさんで持っている。山の神とも言うが、山の神に従っていれば間違いないかな
風流夢譚は1960年の作だったな


父 水上勉

2016-03-12 19:07:02 | 文藝
水上勉が平成16年(2004年)に亡くなった時に、民放テレビはミナカミ ツトムと伝えたがNHKはミズカミ ツトムと言っていた。さすがNHKと妙に感心したことを覚えている。

 天下のNHKは思想や主義主張に疑問符があるが、言語、日本語に関しては訓練と言おうか基本がしっかりとされている。民放は広告主次第、スポンサ-が了解すれば良い。片や日本放送協会は国家が了解すれば良い。

 水上勉は85歳でこの世を去った。病を抱えた割には長生きした。いわゆる芸術家は、去る落語家が言ったように、長生きするのも芸の内だろうな。長生きするのも一つ、短命なのも一つだな。息子の窪島誠一郎は画商。夭折した画家を追っている。いわゆる夭折画家の作品を収集している。

 夭折した画家は、名が知れた画家だと、作品が少ない。従って、需要と供給の関係で、高価で取引される。窪島誠一郎は居酒屋で財をなした。従って名も無い名が出ない低廉な画家の作品を集めたのだろうな。

 父 水上勉は白水社から、平成25年(2013年)に出版された。著者 窪島誠一郎は上田市に昭和54年(1979年)信濃デッサン館、平成9年(1997年)に無言館を設立した。

 その前、昭和52年(1977年)父が水上勉であったことで、朝日新聞が特ダネとして提供した。戦争を境にして、生き別れた父と子と言うことで、片や直木賞作家、今をときめく流行作家の生き別れた父と子、マスコミは飛びつくわな。

 小生は、その当時の新聞を読んでいない。当時とすれば戦後30余年、まだまだ戦争の影を引きずっていた時代である。

 父 水上勉は父と子を超えて、良く水上勉の作品を読んで、水上勉の事を調べている。かって札幌の生命保険会社の社員だったかな、その男が山口瞳のことを調べて本を出した。その時も山口瞳の作品から経歴まで調べて良く調べ上げたなと思ったが、窪島誠一郎の父 水上勉も、良いにつけ悪しきにつけ、なかなかの作品である。


 冒頭に、「虚と実」の中で、ただ、これはわたしの持論なのだが、人間というものは一面において潔癖無垢であっても、もういっぽうでは不純であったり、不正直であったり、ときに卑怯であったりするのが自然なのではなかろうか。それが、人間というものなのではなかろうか。
 わたしが専門にしている絵の世界でもそうで、世間からいくら人間的にすぐれていると人望を評価されている画家であっても、描く作品を好きになれるとはかぎらない。聖人君子のような曲がったことが大嫌いな人格者の画家が、万人の心を奪う名作を描けるとはかぎらない。
 逆に、とんでもない女たらしでカネにも汚なく、ズル賢く、およそ近寄りたくないと思うような絵描きが、たまらなく心を惹きつける魅力的な作品を描くことがある。
いや、わたしの体験からいうと、むしろ絵描きの世界では、そっちのほうが多い気さえする。しかし、それが人間であり、画家であり、作家であるといわれれば仕方ない。

と記している。

芸術家が生み出す作品と、その作者の人格、思想、信条とは一致しない。あるいは無関係のような感がするな。芸術とはある意味、狂気をもったものであろうな。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、かな。

小生は、水上勉の作品は晩年の随筆を少々と、飢餓海峡の映画だな。飢餓海峡は標題も良く、内容も良いな。舞台設定は戦後の一時期、監督は内田吐夢、役者は三國連太郎、左幸子、伴淳三郎だな。松本清張のゼロの焦点も舞台は戦後の一時期

段々、戦争の影あるいは傷跡あるいは痛みの感覚が日と共に薄くなってくるな。60年安保を境にしても安前派、安中派、安後派と叫ばれたが、闘争とは痛みが伴なってくる。その影は喪われつつあるな

無言館は、小高い丘にある。小生が訪れた頃は入場料は500円から1,000円だったかな。入場者の意思に任されていた。小生は500円を投入して、気が引けるので、本を購入した記憶がある。あのあたりは水溜りと言おうか池と言おうか貯水池が多い。地元の人に聞くと、雨が少ないので農業用水としてため池があると。

窪島誠一郎と水上勉 親子を読んでみたが、品性は窪島誠一郎の方が上かな。もっとも著者だからな。

最後に母のことも記している。母は自殺したと。窪島誠一郎にとっては一人だけの母であったが、水上勉にとっては、妻でありが数多くの女の一人だったかも知れない。


古典芸能はお茶にしても舞踊にしても、能にしてもまず身体を動かして、身体で覚えていく。理論は後からついてくる。

しかし、電子計算機とは機能が違うな。習い事には様々ある。しかし、パソコンは丁か半だな。二者択一しかない。その思考方法が身についてしまったら、手で、身体で覚えてしまったら、もう後戻りはできない。

社会、経済、政治、言論界でさえも戦争の影を喪って、イエスかノ-の世になってきた。ことに政界では端的には小泉純一郎からだろな。簡潔な言葉でイエスかノ-と。それは橋の下も踏襲している。

戦後はあるいは戦争の影は、恩讐の彼方にかな