世を挙げてお盆の時期
お盆になると、何故か五木の子守唄を口ずさむ
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる
山深い熊本県五木村に伝わる子守唄である。急流である球磨川の支流である川辺川が中央に流れる山間の山村である。人口は1000余人。球磨川と言えば、呑兵衛には球磨焼酎を連想さす。焼酎とは南が多いな。北は米を原料とした日本酒、南は米、麦、芋などの多彩な穀類。まあ、腹に入れば同じであるが
酒を選ぶ人種もいる。酒ならなんでもという人種もいる。今は亡き吉行淳之介と開高健との対談は面白かった。酒と女。どの国へ行ってもあると。寅さんなどは女なら誰でも、選ばないとのたまっていたが、ああいうのが良い、こういうのが良いと話が進んでいく。酒も同じかも知れない
前置きとか書置きは長くなると本題が薄れる。永六輔は余談が好きだと。司馬遼太郎は余禄と言った。落語ではまくらである。柳家小三治などは、まくらで本にしちゃった。丸谷才一の笹まくらは絶品であったが。まくらは本題でないので、どことなく人格が出てくるな
この2、3日、ふとしたことで盆のさなかに読んだ本があった。軽井沢町で戦後、朝鮮動乱の最中に米軍演習地反対運動があったと。戦後アメリカとソ連の冷戦を契機として、解放軍であったアメリカが占領軍になった頃、日本各地に米軍基地を計画した。そのほとんどは沖縄を筆頭にして基地化された。
1952年(昭和27年)の内灘(1957年アメリカ軍撤収で終息)、1955年の砂川基地拡張反対闘争。砂川などあれほど大規模な闘争であったにも関わらず、当時では無残な結果であった。しかし戦後何十年も経つと、立川の町ではモノレ-ルも出来、昭和記念公園も出来て平和な町に変貌したかな
内灘闘争を舞台にした作品は、相生湾は子宮に似ていると語った寡作であった浦山桐郎監督の非行少女がある。60年安保の頃は早熟な地方の高校生では学校の旗を掲げて上京したが、当時は百姓が多く、ムシロ旗を立てて反対闘争を行っていたと
インタ-ネットとは時には宝物にぶつかることもある。ネットという言葉のように未知の事を導いてくれる。大島博光は信州松代出身の詩人で、記念館のブログで軽井沢町における基地反対闘争が存在したことを知った次第である
軽井沢におけるアメリカ軍演習地反対闘争についての民から描かれた書籍は、1953年(昭和28年)長野県浅間山米軍演習地化反対期成同盟発行の「二百万人の勝利」と1986年(昭和61年)軽井沢文化協会発行の田部井健次著作の「軽井沢を守った人々」と2014年(平成26年)かもがわ出版発行の荒井輝允が描いた「青年が軽井沢を守った」の3冊である
「二百万人の勝利」は日本労働組合長野地方評議会が闘争後いち早く出版したが、小生は読んでいない
「軽井沢を守った人々」は1984年(昭和59年)の夏に、当時運動の中心的な存在であり、軽井沢文化協会の初代幹事長であった田部井健次が、移転先の葉山から久しぶりに来軽してひと夏を過ごした折に、4時間との長時間に渡って反対運動の思い出を語った。88歳の旺盛な記憶力で話され、その際に出席者の一人がテ-プに録音して、これを原稿として翌々年に軽井沢別荘開発100周年記念事業として出版されたと
因みに軽井沢文化協会は、米軍の浅間山演習地反対運動を契機として、町民と別荘人により1953年(昭和28年)8月に創立された。名称は当初、軽井沢文化人協会であったが、「人」を削除して軽井沢文化協会と命名したのは三笠宮と聞いている。草案の2項のこの会は軽井沢を愛する学者、芸術家、宗教家、教育者等の文化関係の仕事にたずさわるもので構成するとの規約は削られているようだ。
また、米軍演習地反対運動を発端としたので、運動の指導的役割を果たした田部井健次や一條重美らの呼びかけによったが、両氏は発起人には入っていない。しかし田部井健次は幹事長を受諾している。因みに発起人には青木誠四郎、阿部知二、板垣与一、出井盛之、井上秀子、沖野岩三郎、加藤与五郎、金沢常雄、菅円吉、芹沢光治良、鶴見俊輔、中西悟堂、中山久四郎、野村胡堂、羽仁五郎、星野嘉助、松本重治、松本タマ、山内義雄、山本直文、横田喜三郎、吉川英治、吉村正、蝋山政道、我妻栄の25名であった。
いわゆる文化人とは難しいものである。文化人が民主主義とは分かっていても、民主的な人とは限らない。芸術とは、絵にしても、詩歌にしても、演劇にしても、集団もあろうが、個の力が創意工夫、想像力に負うところが大きい。例えば、映画を作るうえでは監督は絶対であり、オ-ケストラの指揮者も絶対的で助言はあるにしても逆らえない。それは人事から始まり創作過程でも絶対的な権力である。そこには民主主義などあろう筈が無い
「青年が軽井沢を守った」は著者である荒井輝允が2013年(平成25年)10月に信濃毎日新聞の取材を契機として、翌年出版された。
闘争は1953年(昭和28年)4月2日のアメリカ軍人マレ-参謀と外務省役人が軽井沢町役場に来訪して、佐藤恒雄軽井沢町長に「米軍山岳冬季戦学校に関する覚書」(浅間山に米軍の山岳及び冬季戦学校の演習地を設定したい)との覚書を手渡したことを発端とした
すぐさま4月29日に24集落の区長会議を経て、5月6日に軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)が成立し、7月16日に外務省から使用取り消しの公式発表まで2ヶ月足らずで全面勝利であった。当時としても、画期的なことであった
その原因は全町一致に近い形で、分裂が無かったことであろう。今ひとつの要因は田部井健次という並外れた優れた指導者がいたことであったろう。通常為政者に対する戦いには必ず反対闘争の反対者が結束する。軽井沢の場合には演習地反対運動が顕在したが、それに反対する勢力もいたが、表立って現れなかったことは賞賛に値する
現に町長であった佐藤恒雄は前年の1952年(昭和27年)2月22日には町会議長や総務部長や供の者を引き連れて、軽井沢を米軍駐屯地として指定して下さいとの陳情書を携えて、外務省国際協力局長に伺っている
その後の為政者は反対運動に転じ、全町協議会の構成員になっている。全町協議会でも為政者の反旗を翻すことを恐れ、深くは追求しないこととした
因みに、軽井沢町誌刊行委員会によると、昭和21年(1945年)5月28日に土屋源一郎が町長を辞職した。土屋源一郎町長は昭和12年2月の6代から8代まで3期9年間にわたって町政を担当しただけに、その職責上積極的に戦争に協力せざるを得ない立場にあり、公職追放は避けられなかった。町長辞任の後、5月29日には助役であった佐藤恒雄が新町長に就任した。
その後の町長は佐藤恒雄が9代(昭和21年5月~22年4月)、10代(昭和22年4月~26年4月)、11代(昭和26年4月~30年4月)まで9年間勤めた。因みに佐藤不二男が12代(昭和30年5月~34年4月)、13代(昭和34年4月~38年4月)、14代(昭和38年4月~40年3月)まで10年間勤めたと。面白いことに、町長とは3期間継続するようである。
女性にも選挙権が戦後、昭和20年(1945年)から与えられ、完全普通選挙制度になったが、軽井沢では選挙が投票が行われたかは知らない。
海の向こうから、この国に民主主義がもたされた。民主主義とは手間がかかり、面倒くさく、合理的でない面もある。この国では、面倒な民主主義の根幹は抜きにして、手続き、民主主義の手続きだけは、アメリカから学んだようである
田部井健次は民主主義とはどういうものか分かっていた。稀有な人物であった。著書の「はしがき」にも次のように書いてある
軽井沢が未曾有の危機に直面したとき、軽井沢を守ったのは、軽井沢の町民であって、町長でもなければ町議会でもありません。自分たち自身の手で町民大会を開いて実行委員会(演習地反対全町協議会)を作っている。その全町協議会は、軽井沢24の住民と軽井沢に存在するすべての重要団体を基礎とした甚だ民主的な協議会であって、演習地反対に関するすべての方針が、先ずそこで討議決定され、直ちに実行に移されている
そして、実質的には、長野県全体の演習地反対運動の作戦本部的役割も果たしている。例えば、長野の県評(日本労働組合長野地方評議会)と提携して、長野県の71の有力団体に招待状を出して、長野市で代表者会議を開くことも、それを直ちに全県的な演習地反対同盟に発展させることも、或いは、軽井沢で強力な県民大会を開くことも、最初に、先ず軽井沢の全町協議会で討議され、決定されていることなのです
以上のように記載されている。、また、部落長会というのは、軽井沢の全部落(当時は24のがありました)の部落長が集まって重要な問題を討議する会のことですが、他の一般都市には、ちょっと見られない軽井沢独特の協議会であって、普通の都市に於ける「町内会」といったような町の下部組織ではないのです。本来は、各の代表者が集まって、いろいろの問題を討議するための、純然たる民間の協議機関なのです。なぜ、そんな協議機関が出来たかと言うに、軽井沢という町が、明治時代に、三つの宿場(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)とその周辺の多数の農村とを集めて、新たに作られた小さな連邦的な町なのだ、ということに由来しているのです
現在では、行政区が30あるが、統計によると、町の2018年(平成30年)4月現在9,716世帯の内、行政区の加入は5,190世帯で53%の組織率である。田部井健次が住居とした千ヶ滝西区においても、世帯数212に対し、120世帯の加入で57%の組織率である。本来が自治組織なら全ての住民が加入すべきであるが、50%余の組織率では自治組織なり得ないじゃないかと危惧している
朝鮮動乱は1950年6月25日の北朝鮮軍の北緯38度線を越えての砲撃により起こった。当初は北朝鮮軍が優勢であったが、国連安保理で国連軍を結成しアメリカ軍(国連軍)が反撃した。中国軍の参戦により北側が反撃し、国連軍が巻き返し、38度線付近で膠直状態となった。1953年に入り、アメリカではアイゼンハワ-大統領が就任し、ソ連ではスタ-リンが死亡して7月27日板門店で休戦協定を締結した
アメリカは朝鮮での山岳戦での苦戦、及び冬季戦を経て、占領地である日本で訓練地を探していた。群馬県坂本町への覚書では、妙義・浅間を選んだ理由として、米軍は朝鮮戦争の経験からどうしても山岳訓練をする必要に迫られ、一年前から適地を物色し、北海道から九州まで飛行機などを使って調査し、山岳の形態、気候、交通、降雪、水質なども詳しく調べた上で、「山岳訓練上最適地と判断した」と書かれていたと
アメリカの情報収集は恐ろしく的確であろうな。浅間山荘事件が1972年(昭和47年)に起こったが、妙義山、浅間山麓は軍事訓練には適しているかも知れない
1953年(昭和28年)5月3日町民大会が開催され、1,500人の参加者であったと。軽井沢町15,000人の人口の内、子供も入れての15,000人の内、1,500人の参加である。それもムシロ旗を立てての参加者もいたと。為政者も従わざるを得なかったであろう。
引き継いで、軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)が成立し、委員長に田部井健次、副委員長に一條重美、飯島喜文太、寺島乾三を選出した。事務所は役場内に置き、委員長、副委員長ならびに2名の書記は、原則として毎日事務所に出勤したと
委員長の活動には、第一に軽井沢の各を廻って地元の人たちと懇意になること。第二に演習地反対運動を長野県全体の運動に拡大することに努力することであったと。田部井健次は役割を弁えていたが、その能力も兼ね備えていた。指導者は大衆から信頼されなけば成功しないことは鉄則であり、農村は農繁期にさしかかっていあので、懇談会を開くのは大抵は晩の8時頃から12時過ぎまでだったので、1里か2里の道を同朋と青年たちと歩いて帰ったと
7月16日に外務省から使用取り消しの公式発表があり、軽井沢町での反対闘争は成功した。しかし、軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)の名の通り、群馬県の恩賀の演習地計画がそのまま残っていた。全町協議会としては、「恩賀の問題が解決されるまでは反対運動は継続する」ということを決議して、全町協議会の幹部も、毎日役場の事務所へ出勤したと。しかし町の幹部は終息したい意向であったと
その後、恩賀では1954年(昭和29年)1月14日に恩賀22戸中、5戸が条件派に転向し、翌年1月20日に強制測量し、負傷者が出たが、3月1日に調達庁山田不動産部長が妙義基地接収解除を県に通告して反対闘争は全面勝利した。
田部井健次の闘争後の軽井沢について辛辣な意見を述べている。自らは軽井沢から葉山に移転したため、自由に語ることが出来たのであろう
いずれにしても、今から考えると軽井沢町での米軍演習地反対闘争が成功したのは奇跡に近い。当時の町民もさることながら、優れた指導者に恵まれたことが要因であろう。あるいは指導者を盛り立てたことが成功の要因であったろう
軽井沢とは今では観光観光と何が観光であるか分からないが、人が押し寄せてくる。人口20,000余人、世帯数10,000余世帯であるが、別荘は10,000棟を超えると。従って夏は人口が10倍にも膨らむと
観光とは光を観るのであるが、風景は美しいとは言えない。ただ標高の高さにより、高原である。高原と森だけである。人によっては森の中に町があると称したが、森だけでは獣は天国であるが、人にはどうかな。良寛などは山に住んでも人恋しく人里に出ると
まあ、観光でなく、人によっては保養地なんだろうな。従って休養を必要としない子供には適さないかな
田部井健次や荒井輝允は軽井沢の成り立ちも述べている。ことに荒井輝允は追分育ちであるので詳しいし、良く認識している。軽井沢とは宿場街であったと。江戸時代、中でも追分宿は中山道と北国街道との分岐点に当たり、越後からは北前船で運ばれた北海道や越前からの珍品、中山道からは名古屋や江戸からの珍品と、様々な物品が集まり、それらの取引がおこなわれていました。商売が成立すると芸子をあげて宴会となります。その頃が最も繁盛したようでしたと
幕府は遊郭(吉原)だけを黙認して、他の宿場女郎は厳しく取り締まったようです。法の網の目をくぐった「めしもり女」を減らすことはできなかったと。追分の諏訪神社には遊郭吉原から寄進された神輿が奉納されていましたと
為政者が公認したのは赤線である。それに未公認で青線を民間が作ったが、民間ゆえ幕府と吊るんだ二足の草鞋が出てくる。今も昔もさほど変わらないとも言える。脇本陣であった油屋でも飯盛女がいたと
後藤明生に吉野大夫の作があるが、宿場には飯盛女がいて、飯盛女で繁盛したと言える。明治26年に信越線に汽車が走るようになって決定的に寂れたと。借金で首が回らなくなった一家が、夜中にこっそりと夜逃げをしたと
追分の三五郎や長谷川伸の描いた沓掛時次郎があるが、宿場街の宿命であろうな。従って町の幹部は夢よもう一度の感があったと。加えて別荘地の増加により固定資産税が入る。町税収入の中で平成28年度では、総額90億円の内、固定資産税・都市計画税で68億、実に76%を占めている。固定資産税とは景気の変動に作用されなく、まるで打ち出の小槌である。恐れ入谷の鬼子母神である。従って町財政の運営は楽で、余り苦労しないと
軽井沢町商工会女性部が平成29年9月発行の「ふきのとう」を眼にした。馬鹿も利口も命は一つと。その中に現在伝えたい先人の念いで、浅間山米軍演習地反対運動の足跡を記載してあった。荒井輝允著作の「青年が軽井沢を守った」の文章を引用して、当時を振り返っていた。
忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ
忘れてしまいたい事や どうしょうもない寂しさに
今は亡き、河島英五の「酒と泪と男と女」が聞こえてくる
忘れ去ることも出来ないことはあるな
お盆になると、何故か五木の子守唄を口ずさむ
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる
山深い熊本県五木村に伝わる子守唄である。急流である球磨川の支流である川辺川が中央に流れる山間の山村である。人口は1000余人。球磨川と言えば、呑兵衛には球磨焼酎を連想さす。焼酎とは南が多いな。北は米を原料とした日本酒、南は米、麦、芋などの多彩な穀類。まあ、腹に入れば同じであるが
酒を選ぶ人種もいる。酒ならなんでもという人種もいる。今は亡き吉行淳之介と開高健との対談は面白かった。酒と女。どの国へ行ってもあると。寅さんなどは女なら誰でも、選ばないとのたまっていたが、ああいうのが良い、こういうのが良いと話が進んでいく。酒も同じかも知れない
前置きとか書置きは長くなると本題が薄れる。永六輔は余談が好きだと。司馬遼太郎は余禄と言った。落語ではまくらである。柳家小三治などは、まくらで本にしちゃった。丸谷才一の笹まくらは絶品であったが。まくらは本題でないので、どことなく人格が出てくるな
この2、3日、ふとしたことで盆のさなかに読んだ本があった。軽井沢町で戦後、朝鮮動乱の最中に米軍演習地反対運動があったと。戦後アメリカとソ連の冷戦を契機として、解放軍であったアメリカが占領軍になった頃、日本各地に米軍基地を計画した。そのほとんどは沖縄を筆頭にして基地化された。
1952年(昭和27年)の内灘(1957年アメリカ軍撤収で終息)、1955年の砂川基地拡張反対闘争。砂川などあれほど大規模な闘争であったにも関わらず、当時では無残な結果であった。しかし戦後何十年も経つと、立川の町ではモノレ-ルも出来、昭和記念公園も出来て平和な町に変貌したかな
内灘闘争を舞台にした作品は、相生湾は子宮に似ていると語った寡作であった浦山桐郎監督の非行少女がある。60年安保の頃は早熟な地方の高校生では学校の旗を掲げて上京したが、当時は百姓が多く、ムシロ旗を立てて反対闘争を行っていたと
インタ-ネットとは時には宝物にぶつかることもある。ネットという言葉のように未知の事を導いてくれる。大島博光は信州松代出身の詩人で、記念館のブログで軽井沢町における基地反対闘争が存在したことを知った次第である
軽井沢におけるアメリカ軍演習地反対闘争についての民から描かれた書籍は、1953年(昭和28年)長野県浅間山米軍演習地化反対期成同盟発行の「二百万人の勝利」と1986年(昭和61年)軽井沢文化協会発行の田部井健次著作の「軽井沢を守った人々」と2014年(平成26年)かもがわ出版発行の荒井輝允が描いた「青年が軽井沢を守った」の3冊である
「二百万人の勝利」は日本労働組合長野地方評議会が闘争後いち早く出版したが、小生は読んでいない
「軽井沢を守った人々」は1984年(昭和59年)の夏に、当時運動の中心的な存在であり、軽井沢文化協会の初代幹事長であった田部井健次が、移転先の葉山から久しぶりに来軽してひと夏を過ごした折に、4時間との長時間に渡って反対運動の思い出を語った。88歳の旺盛な記憶力で話され、その際に出席者の一人がテ-プに録音して、これを原稿として翌々年に軽井沢別荘開発100周年記念事業として出版されたと
因みに軽井沢文化協会は、米軍の浅間山演習地反対運動を契機として、町民と別荘人により1953年(昭和28年)8月に創立された。名称は当初、軽井沢文化人協会であったが、「人」を削除して軽井沢文化協会と命名したのは三笠宮と聞いている。草案の2項のこの会は軽井沢を愛する学者、芸術家、宗教家、教育者等の文化関係の仕事にたずさわるもので構成するとの規約は削られているようだ。
また、米軍演習地反対運動を発端としたので、運動の指導的役割を果たした田部井健次や一條重美らの呼びかけによったが、両氏は発起人には入っていない。しかし田部井健次は幹事長を受諾している。因みに発起人には青木誠四郎、阿部知二、板垣与一、出井盛之、井上秀子、沖野岩三郎、加藤与五郎、金沢常雄、菅円吉、芹沢光治良、鶴見俊輔、中西悟堂、中山久四郎、野村胡堂、羽仁五郎、星野嘉助、松本重治、松本タマ、山内義雄、山本直文、横田喜三郎、吉川英治、吉村正、蝋山政道、我妻栄の25名であった。
いわゆる文化人とは難しいものである。文化人が民主主義とは分かっていても、民主的な人とは限らない。芸術とは、絵にしても、詩歌にしても、演劇にしても、集団もあろうが、個の力が創意工夫、想像力に負うところが大きい。例えば、映画を作るうえでは監督は絶対であり、オ-ケストラの指揮者も絶対的で助言はあるにしても逆らえない。それは人事から始まり創作過程でも絶対的な権力である。そこには民主主義などあろう筈が無い
「青年が軽井沢を守った」は著者である荒井輝允が2013年(平成25年)10月に信濃毎日新聞の取材を契機として、翌年出版された。
闘争は1953年(昭和28年)4月2日のアメリカ軍人マレ-参謀と外務省役人が軽井沢町役場に来訪して、佐藤恒雄軽井沢町長に「米軍山岳冬季戦学校に関する覚書」(浅間山に米軍の山岳及び冬季戦学校の演習地を設定したい)との覚書を手渡したことを発端とした
すぐさま4月29日に24集落の区長会議を経て、5月6日に軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)が成立し、7月16日に外務省から使用取り消しの公式発表まで2ヶ月足らずで全面勝利であった。当時としても、画期的なことであった
その原因は全町一致に近い形で、分裂が無かったことであろう。今ひとつの要因は田部井健次という並外れた優れた指導者がいたことであったろう。通常為政者に対する戦いには必ず反対闘争の反対者が結束する。軽井沢の場合には演習地反対運動が顕在したが、それに反対する勢力もいたが、表立って現れなかったことは賞賛に値する
現に町長であった佐藤恒雄は前年の1952年(昭和27年)2月22日には町会議長や総務部長や供の者を引き連れて、軽井沢を米軍駐屯地として指定して下さいとの陳情書を携えて、外務省国際協力局長に伺っている
その後の為政者は反対運動に転じ、全町協議会の構成員になっている。全町協議会でも為政者の反旗を翻すことを恐れ、深くは追求しないこととした
因みに、軽井沢町誌刊行委員会によると、昭和21年(1945年)5月28日に土屋源一郎が町長を辞職した。土屋源一郎町長は昭和12年2月の6代から8代まで3期9年間にわたって町政を担当しただけに、その職責上積極的に戦争に協力せざるを得ない立場にあり、公職追放は避けられなかった。町長辞任の後、5月29日には助役であった佐藤恒雄が新町長に就任した。
その後の町長は佐藤恒雄が9代(昭和21年5月~22年4月)、10代(昭和22年4月~26年4月)、11代(昭和26年4月~30年4月)まで9年間勤めた。因みに佐藤不二男が12代(昭和30年5月~34年4月)、13代(昭和34年4月~38年4月)、14代(昭和38年4月~40年3月)まで10年間勤めたと。面白いことに、町長とは3期間継続するようである。
女性にも選挙権が戦後、昭和20年(1945年)から与えられ、完全普通選挙制度になったが、軽井沢では選挙が投票が行われたかは知らない。
海の向こうから、この国に民主主義がもたされた。民主主義とは手間がかかり、面倒くさく、合理的でない面もある。この国では、面倒な民主主義の根幹は抜きにして、手続き、民主主義の手続きだけは、アメリカから学んだようである
田部井健次は民主主義とはどういうものか分かっていた。稀有な人物であった。著書の「はしがき」にも次のように書いてある
軽井沢が未曾有の危機に直面したとき、軽井沢を守ったのは、軽井沢の町民であって、町長でもなければ町議会でもありません。自分たち自身の手で町民大会を開いて実行委員会(演習地反対全町協議会)を作っている。その全町協議会は、軽井沢24の住民と軽井沢に存在するすべての重要団体を基礎とした甚だ民主的な協議会であって、演習地反対に関するすべての方針が、先ずそこで討議決定され、直ちに実行に移されている
そして、実質的には、長野県全体の演習地反対運動の作戦本部的役割も果たしている。例えば、長野の県評(日本労働組合長野地方評議会)と提携して、長野県の71の有力団体に招待状を出して、長野市で代表者会議を開くことも、それを直ちに全県的な演習地反対同盟に発展させることも、或いは、軽井沢で強力な県民大会を開くことも、最初に、先ず軽井沢の全町協議会で討議され、決定されていることなのです
以上のように記載されている。、また、部落長会というのは、軽井沢の全部落(当時は24のがありました)の部落長が集まって重要な問題を討議する会のことですが、他の一般都市には、ちょっと見られない軽井沢独特の協議会であって、普通の都市に於ける「町内会」といったような町の下部組織ではないのです。本来は、各の代表者が集まって、いろいろの問題を討議するための、純然たる民間の協議機関なのです。なぜ、そんな協議機関が出来たかと言うに、軽井沢という町が、明治時代に、三つの宿場(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)とその周辺の多数の農村とを集めて、新たに作られた小さな連邦的な町なのだ、ということに由来しているのです
現在では、行政区が30あるが、統計によると、町の2018年(平成30年)4月現在9,716世帯の内、行政区の加入は5,190世帯で53%の組織率である。田部井健次が住居とした千ヶ滝西区においても、世帯数212に対し、120世帯の加入で57%の組織率である。本来が自治組織なら全ての住民が加入すべきであるが、50%余の組織率では自治組織なり得ないじゃないかと危惧している
朝鮮動乱は1950年6月25日の北朝鮮軍の北緯38度線を越えての砲撃により起こった。当初は北朝鮮軍が優勢であったが、国連安保理で国連軍を結成しアメリカ軍(国連軍)が反撃した。中国軍の参戦により北側が反撃し、国連軍が巻き返し、38度線付近で膠直状態となった。1953年に入り、アメリカではアイゼンハワ-大統領が就任し、ソ連ではスタ-リンが死亡して7月27日板門店で休戦協定を締結した
アメリカは朝鮮での山岳戦での苦戦、及び冬季戦を経て、占領地である日本で訓練地を探していた。群馬県坂本町への覚書では、妙義・浅間を選んだ理由として、米軍は朝鮮戦争の経験からどうしても山岳訓練をする必要に迫られ、一年前から適地を物色し、北海道から九州まで飛行機などを使って調査し、山岳の形態、気候、交通、降雪、水質なども詳しく調べた上で、「山岳訓練上最適地と判断した」と書かれていたと
アメリカの情報収集は恐ろしく的確であろうな。浅間山荘事件が1972年(昭和47年)に起こったが、妙義山、浅間山麓は軍事訓練には適しているかも知れない
1953年(昭和28年)5月3日町民大会が開催され、1,500人の参加者であったと。軽井沢町15,000人の人口の内、子供も入れての15,000人の内、1,500人の参加である。それもムシロ旗を立てての参加者もいたと。為政者も従わざるを得なかったであろう。
引き継いで、軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)が成立し、委員長に田部井健次、副委員長に一條重美、飯島喜文太、寺島乾三を選出した。事務所は役場内に置き、委員長、副委員長ならびに2名の書記は、原則として毎日事務所に出勤したと
委員長の活動には、第一に軽井沢の各を廻って地元の人たちと懇意になること。第二に演習地反対運動を長野県全体の運動に拡大することに努力することであったと。田部井健次は役割を弁えていたが、その能力も兼ね備えていた。指導者は大衆から信頼されなけば成功しないことは鉄則であり、農村は農繁期にさしかかっていあので、懇談会を開くのは大抵は晩の8時頃から12時過ぎまでだったので、1里か2里の道を同朋と青年たちと歩いて帰ったと
7月16日に外務省から使用取り消しの公式発表があり、軽井沢町での反対闘争は成功した。しかし、軽井沢町浅間山及び軽井沢周辺演習地設置反対対策委員会(全町協議会)の名の通り、群馬県の恩賀の演習地計画がそのまま残っていた。全町協議会としては、「恩賀の問題が解決されるまでは反対運動は継続する」ということを決議して、全町協議会の幹部も、毎日役場の事務所へ出勤したと。しかし町の幹部は終息したい意向であったと
その後、恩賀では1954年(昭和29年)1月14日に恩賀22戸中、5戸が条件派に転向し、翌年1月20日に強制測量し、負傷者が出たが、3月1日に調達庁山田不動産部長が妙義基地接収解除を県に通告して反対闘争は全面勝利した。
田部井健次の闘争後の軽井沢について辛辣な意見を述べている。自らは軽井沢から葉山に移転したため、自由に語ることが出来たのであろう
いずれにしても、今から考えると軽井沢町での米軍演習地反対闘争が成功したのは奇跡に近い。当時の町民もさることながら、優れた指導者に恵まれたことが要因であろう。あるいは指導者を盛り立てたことが成功の要因であったろう
軽井沢とは今では観光観光と何が観光であるか分からないが、人が押し寄せてくる。人口20,000余人、世帯数10,000余世帯であるが、別荘は10,000棟を超えると。従って夏は人口が10倍にも膨らむと
観光とは光を観るのであるが、風景は美しいとは言えない。ただ標高の高さにより、高原である。高原と森だけである。人によっては森の中に町があると称したが、森だけでは獣は天国であるが、人にはどうかな。良寛などは山に住んでも人恋しく人里に出ると
まあ、観光でなく、人によっては保養地なんだろうな。従って休養を必要としない子供には適さないかな
田部井健次や荒井輝允は軽井沢の成り立ちも述べている。ことに荒井輝允は追分育ちであるので詳しいし、良く認識している。軽井沢とは宿場街であったと。江戸時代、中でも追分宿は中山道と北国街道との分岐点に当たり、越後からは北前船で運ばれた北海道や越前からの珍品、中山道からは名古屋や江戸からの珍品と、様々な物品が集まり、それらの取引がおこなわれていました。商売が成立すると芸子をあげて宴会となります。その頃が最も繁盛したようでしたと
幕府は遊郭(吉原)だけを黙認して、他の宿場女郎は厳しく取り締まったようです。法の網の目をくぐった「めしもり女」を減らすことはできなかったと。追分の諏訪神社には遊郭吉原から寄進された神輿が奉納されていましたと
為政者が公認したのは赤線である。それに未公認で青線を民間が作ったが、民間ゆえ幕府と吊るんだ二足の草鞋が出てくる。今も昔もさほど変わらないとも言える。脇本陣であった油屋でも飯盛女がいたと
後藤明生に吉野大夫の作があるが、宿場には飯盛女がいて、飯盛女で繁盛したと言える。明治26年に信越線に汽車が走るようになって決定的に寂れたと。借金で首が回らなくなった一家が、夜中にこっそりと夜逃げをしたと
追分の三五郎や長谷川伸の描いた沓掛時次郎があるが、宿場街の宿命であろうな。従って町の幹部は夢よもう一度の感があったと。加えて別荘地の増加により固定資産税が入る。町税収入の中で平成28年度では、総額90億円の内、固定資産税・都市計画税で68億、実に76%を占めている。固定資産税とは景気の変動に作用されなく、まるで打ち出の小槌である。恐れ入谷の鬼子母神である。従って町財政の運営は楽で、余り苦労しないと
軽井沢町商工会女性部が平成29年9月発行の「ふきのとう」を眼にした。馬鹿も利口も命は一つと。その中に現在伝えたい先人の念いで、浅間山米軍演習地反対運動の足跡を記載してあった。荒井輝允著作の「青年が軽井沢を守った」の文章を引用して、当時を振り返っていた。
忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ
忘れてしまいたい事や どうしょうもない寂しさに
今は亡き、河島英五の「酒と泪と男と女」が聞こえてくる
忘れ去ることも出来ないことはあるな