風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

テレビ

2015-12-30 14:14:30 | 世評
箱根に十国峠がある。源実朝が伊豆山権現や箱根権現に参詣する折にこの峠を越えたと

十国峠とは、十国五島を俯瞰できることから、この峠の名ができたと。天気の良い日には、十国五島を見渡すことができると。相模(神奈川県)、武蔵(神奈川県と東京都)・安房・上総・・下総(千葉県)、遠江・駿河・伊豆(静岡県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)が見えると

この場合の国とは地方行政区分の一種で律令国だな。その国の元に藩があった

長野県に「信濃の国」という県歌がある。冒頭が、信濃の国は十州にと。信濃国が接している国は十カ国であると。越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵、上野と

遠江とは都が京都にあった頃、近江から遠かったから名づけられた。昔は粋だったな。因みに琵琶湖とは琵琶に似ている。昔は天文学の知識も豊かだった

昔は出身地のことをお国(オクニ)と言っていた。オクニ言葉とかオクニ訛りとか言っていた。松本清張の作に砂の器がある。あれなどは訛りから紐解いていった物語である

この国の総理に美しい国を目指した男がいた。あの国とは日本の国家なのだな。オクニのことでは無い。美しい国の国とは思想、信条だな。それに比べ、オクニとは気候、風景、風土なんだな。言葉としては同じだが、意味合いが全然違う

江戸は近江の出身の高島屋の前に美国屋という鰻屋がある。江戸の鰻屋の飯は柔らかいのが多いが、美国屋の飯は硬めで旨い。そこの主人に、美しい国とは流行りだなと言ったら、おかげさまでと言っていた

オクニとは言ってみれば地方だな。地方の土地には大字(オオアザ)、小字(コアザ)が残っている。今の若いものには、このアザが分からない。どう言う字を書くかと聞くからジだよと答えても。ナニジですかとジの話になってしまう

イボ痔や切れ痔の痔は、もともとはヂであったが、今じゃジになっているようだな。明治前の教育では、例えば土佐あたりでは、じとぢ は明確に区別されていたと。また ずとづ も発音が違っていたと

明治以降の中央集権化国家によって、簡潔になったな。藩も無くなり、廃藩置県になったな


この国に、ここで言う国とは、オクニで無く国家であるがノ-ベル平和賞を受賞したA作と言う男がいた。長く総理大臣のお努めをしていたが、辞任の記者会見で私は新聞は嫌いだ、テレビだけにしてくれと、テレビカメラに向かって話したな

新聞でもA新聞は駄目ではなく、A新聞も、B新聞もC新聞も駄目だったな。新聞の名誉だったろうな。さすがノ-ベル賞受賞者、すべての新聞だったな。もしもA新聞だけを記者会見に立ち合わせたら、A新聞は形無しだったろうな

今と違って、新聞魂があったな。テレビは謂わば突込みが足らないからな。まあどこの国家も似たようなものだろうが

最近、地方でのテレビを見ていて気が付くんだな。ニュ-スにしても県知事の顔を結構拝見する。顔は認識していないが字幕で県知事と出ている。どこの県でも同じであろうかなと疑問になっている

地方テレビ自体、東京資本の系列化に入っている。だから東京での番組が地方に流れてくる。ただ宣伝だけは地元企業なんだな。

テレビの出演者は似たような者、あれもプロダクションを通すから流行廃れがある。しかし、如何に宣伝マンとしても、カメラの前で大口をあけて食う場面が多い。飲み食いの映像が多いし、コマ-シャルの時間も多い

昔の役者はカメラの前で食えなかった。大島渚がカメラの前で食う場面で、役者を探したらガッツ石松しか居なかったと

それほど昔の役者は食う場面を嫌った。いや食えなかった。今じゃカメラの前で大きな口を開けて食えなければ、宣伝マンになれないな。しかしテレビの宣伝効果は大きい。カメラを抱えていくと、人が集まってくる。面白い対象が変わったな

地上波とBSと比べると、BSの方が宣伝時間は長いのではないかな。確かテレビの場合には宣伝時間は決まっている筈である。政府の認可事業であるから、1時間の内に宣伝時間は何分までと決められている筈である

そして、番組の中では宣伝はしない決まりであろうな。だから番組かコマ-シャルか疑問の場合には、わざわざこの場面は宣伝ですと字幕が出る

BSではコマ-シャルが3分を超えているのではないかな。そして同じ宣伝を何回も何回も流す。しかも30分以内に注文したら、大幅な値引きをする

テレビとは見る方は無料であるので、文句を言えないが、それだけテレビ事業とは宣伝効果は大であり、商売とすれば大きな利潤を産み、かつ大衆操作になろうかな

テレビとは量だな。量を流せば自然に付いてくる。一頃の郵政と言えば民営化だな


バカまるだし

2015-12-23 12:58:27 | 文藝
近年にない面白い本である。面白いと言うか痛快だな。テレビやラジオは広告主で成り立っている。新聞も多くはスポンサ-の意向に反することはできない。出版ならではだろうな。出版しかなし得ないだろうな。

 2007年(平成19年)に講談社から刊行された。現在は講談社文庫に収められている。

冒頭に、永六輔が語っている。

役者バカ・藤山寛美。
版画バカ・棟方志功。
野球バカ・長嶋茂雄。
こういったバカたちは実は尊敬されている。
同じバカがついても、改革バカ・小泉純一郎となると・・・・・・。
そして、この本で対談している二人は・・・・・。
ラジオバカ・永六輔。
編集バカ・矢崎泰久

ハッキリ言って、バカまるだしである。
バカといっても「馬鹿」と「莫迦」。
サンスクリット語のあて字が「莫迦」、さらに馬と鹿の力を借りている。

この対談のテ-マはひとつ。戦争反対だ。
平和バカもいれば戦争バカもいる日本。
「美しい国バカ」にこの本を捧げたい。
永六輔

冒頭から面白い。昔「面白半分」という雑誌があった。編集長は色々変わったが、「四畳半襖の下張」で名を馳せた。

もう一つ「話の特集」という雑誌があった。こちらは矢崎泰久が編集長であった。編集長であったから、作家や漫画家や挿絵家を数多く発掘した。著書の「あの人をみよ」では深沢七郎と少年の頃近所に過ごしていて、その頃のペンネ-ムは桃原青二であった。その後本名の深沢七郎になったが、日劇ミュ-ジックホ-ルで出演したり、後の「風流夢譚」の件も描いていた。中央公論も出版社としての矜持のカケラすらなかったな。

 この対談では、永六輔は一応マスコミの人であるので、抑えている。矢崎泰久は随所に言いたい放題であろうな。それも活字にのせるほどであるが。永六輔も最初に矢崎泰久と会ったときは、「怪しいヤツだ」と思ったが、やっと最近になって心が許せるようになったとか

テレビで顔が売れると、いつのまにか「善」になっちゃうと。テレビが悪人を善人に変えてしまうと。そう言う面がある。朝から晩まで電波を流されればそうなっちゃうな

「国のお褒めを辞退する会」っていいじゃない。杉村春子は文化功労者には選ばれているけど、その後の文化勲章は辞退している。岸田今日子はたしか、文化功労者も辞退しているはずだ。

矢崎泰久が「話の特集」をやっている頃、篠田正浩に紀元節復活反対の原稿をかいてもらって、イラストレ-ションに横尾忠則。若い女性が菊の紋章にオシッコをかけていたと。案の定、刀を持った右翼が乗り込んできたと。「編集長はいるか」と、そしたら皆、一斉に矢崎泰久の顔を見たと。恐ろしかったと。

とっさに思い出したのが、ガキの頃に叩き込まれた歴代天皇の名前だと。神武、緌靖、安寧、懿徳、考昭、考安・・・と124代全部言ったと。ついでに、難しい漢字も書いて、「私はあなたよりも皇室のことに詳しい、そうじゃありませんか」と言ったら、右翼が「恐れ入りました」って。でもほんとに怖かったと。

五木寛之も、かって語っていたな。飲み屋で旧軍人に絡まれて、キサマ軍人勅語を言ってみろと言われたと。五木寛之は一つ 軍人はと滔々と話したと。旧軍人は舌をまいたと。

教育とは恐ろしい。昔の教育は暗証だな。そして一度覚えたら忘れようとしても忘れられない。教育の恐ろしさだな。そして教育とは国家が握っている。

こないだ相撲部屋の稽古風景を若い女の子と見ていたら、「鉄砲注意」って張り紙が写っていたと、それを見た彼女が、「九州場所だから鉄砲を持って来る人がいるんですか?」と、

モンゴルへ行ったとき、朝青龍が土俵入りするときに、縄を締めているのはなぜだっていう質問。つまり、横綱の注連縄が不思議だと

あの注連縄って、神道では「標 しめ」といって、神様のいる場所とそうじゃない場所とを分けるものだと。つまり、神棚と同じで、あの向こう側に神様がいるわけだと。

横綱の場合は、オチンチンだと。昔からある男根信仰からきていると。

戦時中の遥拝(明治神宮前を通ると臨時停車して、全員直立不動でお辞儀をする)の話でも、若いヤツに「チンチン電車に乗って・・・・」なんて話しても、そのチンチン電車が通じない。

昔、ビニ本を作っていた時代があった。取締りは厳しいけど、飛ぶように売れたと。ところが、取締りがゆるくなると、全然売れないと

矢崎泰久が、田中角栄の秘書の早坂茂三にすごく褒められたと。彼に日本のジャ-ナリストで、こいつだけはすごいと思ったヤツが一人いる、矢崎泰久だと

ある日、早坂を通じて、田中角栄が会いたいと、田中角栄は嫌いだったけど、ジャ-ナリストだから会った方が良いと思って、会ったと。魅力的な男だったと。ここで親しくなったら危ないと思ったと。

しかし、自分でもダメなヤツだと思ったけど、ご馳走になった。帰りに、お車代って包まれた。ズシリと重い。見ていいかと聞いたら、どうぞと早坂が言ったと。見たら百万円くらい入っていたと

今から考えれば惜しい事をしたと思うけど、きっぱり断った。そしたら、早坂が雑誌の座談会かなんかで、そのことをしゃべったの。「矢崎はすごいヤツだ。他のジャ-ナリストはみんなもらった」と

算盤の五つ玉は、博奕ばくちと深い関係がある。博奕の理屈でいうと、「張った、張った、丁目半目揃いました、ハイ、できました、どうぞ」とやるでしょう。あれは算盤の上と下の玉と同じ理屈ですよ

胴元は半目丁目に合わせる。つまり、客が張るでしょ。丁に張った客と半に張った客と、どっちか足りないときがある。そこで胴元が足りない方につくか、誰かを誘って数を合わせるか、乗せるか、それが胴元の腕なんです。

いまはどうか知らないけど、昔は、新聞では使いものにならないヤツがテレビジャ-ナリズムの世界に入ってきた。要するにレベルが低いんですよ

憲法の本来の正しい形は、聖徳太子の17条憲法だと。三波春夫に聞いたが、17条憲法は国民宛じゃない。大和政府の役人宛てなんです。役人の規範を書いている。市民は関係ない。本来、一般市民は憲法なんて気にしなくてもいい。憲法はあくまでも国の舵取りをする政治家や役人、つまり為政者を縛るための法律なんであって、国民は憲法に縁がなくても、幸せならそれでいいんですよ。

マッカ-サ-は相当の日本通だった。彼は若い時に日本に来ているし、新婚旅行も日本だった。マッカ-サ-のお父さんが、日露戦争の観戦武官だった。その後、二度目に結婚した奥さんと、新婚旅行で横浜のホテルニュ-グランドに泊まっている。

マッカ-サ-は10回も天皇と会っているが、日本側の通訳が残した会見録というのは3回分しか公開されていない。それ以外は、マッカ-サ-と何を話したかは、全部秘密なんだ。戦後の「菊のカ-テン」はそこから始まっていると

「旅行」ってもともと、旅に出る「行ぎょう」です。つまり、「リョギョウ」なんです。旅がなんで「行」かというと、「旅」という字は、旗の下に多くの人が集まるって意味、つまり軍隊のことだからね。軍隊の編成で「旅団」ってあるじゃないですか。あれは、そこからきているわけです。

だから、「ひとり旅行」とは言わない。あくまで「行」のつかない、気楽な「旅」で良い

最後に矢崎泰久が記している

 私はこの本のタイトルが嫌いである。なにしろ「バカまるだし」では自分に突き刺さってかなわない。その通りだからだ。
 何をしても、何を言っても、「ああ、オレは何てバカなのか」と、しみじみ思いながら齢70余になった。その点、永六輔は利口そのものである。読んでいただければわかるが、私というバカを相手にノビノビとしている。悔しいが事実だから仕方がない。

この本は、「本音まるだし」とすべきだった。日本社会の仕組みは「タテマエ」だらけであって、「ホンネ」は通用しにくい。嘘ではないかと思われるほどに、本音でものを言っている。いっそ、「嘘ばっかり」というタイトルにするべきだった。
正反対の位置に鎮座ましましているのが、この国の権力者たちである。腹が立つがどうにもならない。

庁を省に格上げした人が、憲法を変えようと主張する。はっきりと「9条廃止」となぜ言わないのか。衣の下に刃を隠して再び戦争への道を進もうとしている。世界平和を求めるならば、核だけでなく、あらゆる武器を捨てよ、と言いたい。
                                                      矢崎泰久


師走

2015-12-17 17:20:53 | 世評
もう12月も半ば。年の瀬である。埼玉県川口市に十二月田中学校がある。シワスダ中学校とか。謂われは分からない。

師走とは師匠が走るとか馳せるとか。師匠の師とは本来は坊主のことだったが。奈良以来の仏教とは、坊主が国家公務員だった。僧になるには、国家の免許が必要であった。

今でも、僧とは宗派の修業があるし、免許もある。男の坊主が修業している様は異様だったな。もっとも僧とは男、女は尼だな。武田泰淳が戦後、異形の者を描いた。そこには坊主たちの有り様が描かれていた。

武田泰淳も僧だった。まあ風貌からして異様にも感じていたが。戦後太陽族とか言われていた「太陽の季節」にも男根で障子を破く様が描かれていたそうであったが、それはお遊び。原型は異形の者であろうな。

もっとも、僧の修行の際には、男根は一種の遊び。水上勉も幼少の頃、寺に預けられたが男色もあるんだな。まあ、男だけの世界だから外の世界からは分からない。

軍隊も昔は男の世界。原子力潜水艦などは、何ヶ月も海の中、始終公務ではないだろう。私的には様々な遊びもあるだろうな。昔の男は飲む、打つ、買う、果ては釣りだな。中国などは高尚な趣味として、釣りがあった。

日本の江戸幕府なども、下級武士などは、登城するのはせいぜい週に1回ぐらいであろう。その間やることもないので、釣りに興じる者もいた。

釣りと言っても、岡釣りでなく、魚を釣るんだな。人は食うためでなく、釣るんだな。下手をすると釣って逃がすこともある。動物では獣には考えられないな。

武田泰淳には「ひかりごけ」もある。人が人の肉を食う。人の肉を食った人を人が裁けるかな。ひかりごけとは美しい苔なんだな。南信州の駒ヶ根の光前寺には「ひかりごけ」が生えている。

まあ、ひかりごけに描かれている事は実際にあったし、裁判にもなった。それを題材として武田泰淳が描いた。

今年もあと二週間、半月である。過ぎ去った日々は早く感じる。2015年はどうであったろうかな。

最高裁は、女性にだけ離婚後6ヶ月間の再婚禁止を定めた規定については、憲法に違反すると。少なくても100日間で良いと。確かに男女同権ではないであろうな

外国には戸籍はあるだろうか。無いようにも聞いているが、分からない。英語では男はMr.ミスタ-、独身女性はMissミス、既婚女性はMrs.ミセスと言う。何ゆえ男と女と分けるか、女だけ婚姻により差をつけるか分からない。フランスでは名詞も男性名詞、女性名詞と別れていると。マスコミでは肝心のことは不明である。夫婦別姓も、結局は戸籍の問題であろうな。戸籍が無くなれば、夫婦別姓も相続も関係なくなる。

天皇、裕仁や明仁には、戸籍がないとも聞く。どうだろうか。しかし系図はあるんだな。戦前は神武ジンム、綏靖スイゼイ、安寧アンネイと小学校、中学校と官立の学校では暗記されられた。

もっとも、この暗記のおかげで、命を救われた者もいた。右翼から襲われたらこの歴代天皇の名を挙げると許される。文字で書くと崇拝されるんだな。

氏素性は難しいし、慣れもあるだろうな。いや慣れじゃなく、根源的な問いかもしれない。神武ジンム以来、皇室は続いている。日本の家でこんなに長く続いているのは、今一つは薩摩の島津家と言われる

最高裁は民法とかは意外と憲法違反の判決を出す。最高裁大法廷も多数決で決めるようだな。何にしても民主主義とは多数決だと。それは政治の世界だけではない。所詮、法律も突き詰めると多数決かも知れないな

まさにパソコンやインタ-ネットの世界だな。二進法の電子計算機ではイエスかノ-と選択する、中間が無いんだな。白か黒かだな。政治の世界での小選挙制度にも似ている。

最高裁は、前にも相続で、非嫡出子の相続分は、嫡出子の半分は憲法違反であると。これも戸籍に関わっている。根は戸籍である。戸籍が無ければ、こう言う問題は起こらない。

司法は、民法については大胆に憲法違反と判決もする。しかし、こと軍備に関しては高度に政治的なものに関しては判断しない、判断出来ない。三権分立の司法の独立を放棄している

昨日、テレビを眺めていたら、浜口蔵之助をやっていた。神戸出身、あの軽快なメロディ-は関西系統であろうな。昭和35年60年安保の時に、有難や節を作ったと、デモはデモでもあの娘のデモは いつもはがゆいじれったい 守屋浩が歌ってヒットした

埴谷雄高は思考に関して物事を深く掘り下げる「求心的」と外に向かう「遠心的」と旨い表現を用いたが、関東と関西では思考方法が違う

大阪で、橋の下が人気であるのは、大阪の風土であろうな。関西以外では考えられないかな。もっとも衆参同時選挙をやれば、2/3は取れると。この国も遠心的な風土になってきたようだ


幇間

2015-12-05 18:26:15 | 文藝
最近は本屋が少なくなった。小さな本屋が少なくなった。本屋も大型化の時代かな。しかも本屋には新刊本ばかり。受けなくなったらすぐ返品。もっとも出版社とは返品が多い商売だが。面白い本は古本屋にある。売れなかった本に、面白みが詰まっている。しかも安い

集英社から「幇間の遺言」を手に取った。今から20年以上前に刷って、定価が1,600円のところ400円。書いた者は堪まらんだろうな。語ったのは悠玄亭玉介。それを小田豊二が聞き取って書いたものである。

幇間だから、自らが書く事はいない。喋り、語りなんだな。これが読んでも面白い。聞けばもっと面白いだろうが、文で読んでも面白いんだな。よく売れずに残っていた。

芸人は売れなければ、廃れていくが、本は売れなくても残る。ブックオフではないが20数年前にしては、綺麗なんだな。古本で綺麗で、文字も大きく、値段が安ければ言う事ない。

しかも面白いときたら、まさに旅に行ったようだな。こんな本ばかりだと、旅することも無くなってしまうわ

因みに、ブックオフとは画期的な商売を編み出した。本の中身は問わない。商品が綺麗か、それとも売れるかである。市場の読者や購買者に判定を委ねている。良く骨董屋は玄人は騙してよい、素人を騙すなと言われるが、古本屋もある意味では特殊な、目利きを要する商売であった。

ところがブックオフは売れなければ、段々売価を落としていく。そして買う時には定価の何割とかで設定すると。そして売れなければ徐々に段階を踏んで落としていく。中古不動産の売買と同じなんだな。

もっとも、料理の世界でも、マニュアル化して、誰でも作品を大量に作れるようにしていくと。それはもう個人でなく、組織の成せる業だな。


幇間とは誰が言いだしたか、太鼓持ち。幇間とは酒間をたすけるんだな。幇間の幇とは訓読みだとタスケル。昔の男たちは粋だったな

幇間とは芸達者。しかし、他者よりも芸を上手くしてはダメなんだな。人より上手くては駄目。人様より教養をひけらかしては駄目。あくまでも控え目、他を喜ばすのが商売だな

文は残る。しかし言葉は、口から出まかせと言う言葉もあるように、口から出て消える事もある。文のように残らない。しかし、余韻は残る。間をとると耳に残るんだな

間が空きすぎると、間が抜けることになってしまうが。言葉は文にはないものがある。お経もそうだな。同じ事を繰り返し、繰り返し使う事もある。文とは構成が違ってくる

 
人の顔には口よりも耳の方が上にある。何故だか分かるかな。まあ禅問答のようだが

「幇間の遺言」には、耳が口よりも上にあるのは人の話を聞くようにだと。しかも良く聞けるように二つもあると。まず、聴いてから口にすると

まいっちゃうな

驚き桃の木山椒の木だわ

年寄りを見ると、見渡してみると、もっとも小生も爺さんが板についてきたが、自己中心になりがちである。どうしても自己をひけらかすんだな

その点、「幇間の遺言」には得るものがある。個性もほどほどに。大阪ではボチボチと言うそうな


昨今は、テレビ、マスコミなどの報道機関は、松本のオウムを忘れたようだが、いつの世でもタレ流しが止まらない。下痢を長く続けると中の物が全部排出されるが、マスコミのタレ流しは止まらない

もっとも政治そのものがお笑いを通り越している。テレビのお笑い番組に現職の政治家が出演している。もっとも落語家も出演しているがのう

昔はテレビに出るようになっちゃ、お終いだと言われたが、昨今ではテレビは金の成る木だな。

山田風太郎の遺作は「これでお終い」だったかな