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建物というのはあらゆる人に分け隔てなく素性をさらす。
その姿カタチで、本然を伝えてくれるものだと思います。
同時に、その内部には「機能」を実現する空間を持っている。
その両方でわたしたちのために役立つものでしょう。
写真はよく見学に訪れている日本民家園に収められている
「蚕影山祠堂」(コカゲサンシドウ)であります。
わたし的にこのお堂、ひと目見たときからときめかせていただいている(笑)。
不思議な感じで、まるで「ひとめぼれ」そのもの。
祠堂という名付けの通り、蚕の紡ぎ出すふしぎにリスペクトした建築。
ということで建築の「施主」はいのちのありがたさ、そのものであるのかも。
そういった由縁が見る者のなにかを刺激するのかも知れません。
しかし造形する立場からして見て、巧みに丸、三角、四角が絶妙バランス。
そして造形素材は自然に帰る木、萱だけで構成されて
まるでいのちそのままで訴えかけてくる。
この建物は「入れ子」構造で内部にも、本体の小型建築が仕舞い込まれている。
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川崎市教育委員会の簡要な説明が公開されています。
〜養蚕の神「蚕影大権現」を祀る宮殿と、それを安置する覆殿より構成される。
もと川崎市麻生区岡上の東光院境内に祀られ、人々の信仰を集めていたが、
養蚕の衰退とともにお堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より
昭和44年に川崎市に寄贈された。翌45年、祠堂を日本民家園に移築し、
それを機に覆殿は復原修理された。〜というのが来歴。
〜棟札によると、宮殿は文久3年(1863)に再興されたことが判明し、
造営には岡上村講中のもの38人が助力した。大工(番匠)の名は
字が掠れて読めないが、4字のうち2字目は「海」であり、
岡上の大工鳥海氏の先祖ではないかと推察される。〜
この建築年代は横浜の開港による外国交易の活発化で
日本は「生糸」の生産輸出で盛り上がった時期に相当し、
横浜にいちばん近い川崎市の当該地域では、盛んに生産されたとされる。
その経緯を伝えるように養蚕講中(女人講中)38人が助力して造立された。
蚕を飼って糸を生産するのは、女性たち主体の経済行為。
祀られているのが蚕の精霊とでもいえる金色姫という女神なので、
わたしのひとめぼれには大いにワケがあるのかも知れない(笑)。
ちなみに金色姫というのは、インドの女神で4度の苦難を乗り越えて
蚕となって女神になったとされる養蚕のシンボル。
したがって、そのような来歴、施主たちの思いを踏まえて大工鳥海氏は
命がけで、美神を建築表現したに違いない。
●入れ子の中身の宮殿は、間口2尺、奥行3.28尺、隅木入りの春日造形式の
小規模な社殿で、向拝の正面に軒唐破風を付ける。総欅の素木造り。
両側面の板壁と腰壁に嵌め込まれた立体的な浮き彫り彫刻では
蚕神である金色姫の物語を表わしている。
●覆<サヤ>殿は桁行15尺、梁間9尺で、正面に入母屋造・茅葺の妻をみせた
妻入建物であり、背面を寄棟造にする。簡素な建物のなかにも
意匠を凝らしているのが窺える。建立年代は宮殿とほぼ同時期と推定。
建物の絶妙なプロポーションに強く惹かれて
その素性にも探究を迫って見たけれど、時間を越えて
はるかに魅了されるような小建築だと思い続けている次第です。