さて、いよいよ信長の「住感覚」に迫るために図面で考えてみたい。
安土城の図面について、個人利用として撮影して持っていたのですが、
図面画像はWEBで公開しているサイトも多数。こちらから引用させていただきました。
http://www.bisaikou.com/azuchi_nobunaga/nobunaga3.htm
<元図面は、安土城復元者 名古屋工業大学名誉教授 故 内藤昌氏
設計 株式会社 文化環境計画研究所
製作 京都大学 画像:安土城郭資料館撮影>
地下を含めて7層の建築だけれど、主要な居室配置は1−3階。
一番目は1階の間取り図面。
安土城の入口、玄関は右下の方に図面配置されている。
柱の間隔は1間ごとになっていて明白。で、タタミの枚数も見れば広さは想定できる。
きのうも書いたけれどこの図面は加賀藩のお抱え大工が保存していた。
図面整理は内藤昌先生を中心に行われたということ。
そういう時間経過的な翻訳作業はあったのだろうけれど、構造として
柱配置は基本的に現代と同様の作法になっているので、わかりやすい。
430年近い年月の違いがあるけれど、空間認識が共有できることは
日本在来工法というものの普遍性が強く認識される。すばらしい。
1階なので玄関の3間幅の「縁」に耐震性も考えて柱がしっかり入っている。
7層構造の1階ということで加重負担を考えて柱はきわめて密。
玄関間口が3間というのは、この巨大天主にしては狭いかもと思わされるが、さて。
玄関入ってすぐ右側に台所8畳がある。奥には収納部屋もあるので食品庫はそちらか。
水くみや食品の出入りが日常的だっただろうから、玄関に近い位置は自然。
「勝手口」のようなものがないのは天主として生活よりも象徴建築の性格か。
軍事政治の中心施設であり生活の調理より来客のための応接調理用と推定。
そうすると魚肉野菜類は城下の業者から都度、仕入れていたと思われる。
政治軍事と身近な城下町経済が結びついていただろうことも明瞭。
信長は「楽市楽座」として税負担を軽くして、流通経済を活性化させたといわれる。
城下町形成に相当の関心を持っていたと推測できる。吉法師と呼ばれた少年期、
市井を遊び歩いていたという逸話があるけれど、繁華街が大好きだったとしのばれる。
茶などを通じて堺衆などの経済人との交流も活発だった。
おっと、間取り。座敷と納戸がほぼ同数の配置になっている。
また、数カ所に「門」があるのは、軍事施設としての緊急対応なのか。
平面中央には「宝塔」のスペースのある吹き抜け空間。
収納のスペースが多いのは、活発な軍事装備品の購入備蓄の用途だろうか。
織田家は兵農を分離して、年中戦争に従事する専門職化させた嚆矢とされる。
指揮官たち以外の戦争要員の武具の類に一部はここに備えただろうか。
万が一の「立て籠もり戦」に備える必要もあったかも知れない。
続いて2階の様子であります。
こちらは中央の吹き抜け空間に向かって座敷が「桟敷」のように配置されている。
1階の「用」の間取りに対して、応接や「会議」のための空間と思われる。
吹き抜けに向かって「舞台」があるので、能などの芸能が演じられて
桟敷に迎えられた来客が鑑賞するような間取りになっている。
あす掲載しようかと考えているのですが、徳川家康を1582年5月15日に
信長は「接待」している。普通に考えて場所は新装なった安土城天主だろう。
きっと長年の同盟者に自慢もしたかった。料理メニューも豪華そのものなのだけれど、
たぶんこの舞台で能とか狂言が演じられたことは確実のように思われる。
司馬遼太郎さんの小説では信長自身が家康に「据え膳」したという。
たぶん、能舞台との対角線の最高格式の座敷に家康は着座し、
信長はその対面に着座して会食、観劇していたに違いない。
その座敷に対して1階の「台所」から膳がいそがしく配膳されたのだろうか。
同盟者とはいえ、なにも不満がないわけではないだろうから、
ある緊張状態は保ちつつ、しかし常識的「外交」として円満な会食観劇が想定できる。
「しかし信長殿、あの宝塔はみごとですな」
「おお、あれは五重塔の心柱のようにせよと命じたのじゃが・・・」
・・・というような会話が交わされていたか、いやもっと生々しい話題だったか。
「上様、武田の次は北条ですな。小田原はなかなか難攻不落ですぞ・・・」
「甲州や上州から攻め入る当方よりも、駿河のそちが先鋒役と心得られよ」
みたいな戦争計画、北条殲滅作戦を練っていたのだろうか?
続いて3階。こちらは信長の「私邸」的な空間とされている。
吹き抜け空間に面して「縁」が回っていて、しかも真ん中には「橋」が渡されている。
たくさんの座敷が個室的に区分けされている。
この時代、子どもは「乳母」がついてそれぞれ別居して育てられるので、
この私邸は完全に信長個人の用途で使われていたのだろう。
信長には子どもが十数人いたとされ手つきの女性も多く、ここは「大奥」だったのかも。
ただ、天主なので一応公的スペース、そういった場所は天主ではなく別建築と思う。
どのような用途であったか、いろいろ想像力が湧いてくるところ。
あ、2階平面には右下隅角部に「厠」とみなせる1坪スペースがある。
1階については外で用を足していたのかと思える。
通常のReplanとしての住宅取材と同様の間取りと暮らし方の関係性、
信長の息づかいもぐんと身近になって、想像力が膨らんでくる。