先般、出窓についてのわたし自身のノスタルジー空間記憶を書いたのですが、
そうしたところ、ブログ読者の方からコメントがあり、同時に
住宅関連の「専門家」2名の方からも反応が寄せられた。
専門家の1人は北海道内の住宅研究者であり、もう1人は東京の専門家。
どちらも古建築から現代建築まで幅広い知見をお持ちの方。
最初のブログ読者の方からコメントは以下のよう。
「どうも出窓は、縁側と雨戸を意匠としてレリック的に残したのかとも思います」
という直感的印象、ご意見をいただいたのですね。
<注)レリックとは、①遺物②残存種という意味。>
わたし自身はそのような印象は強く持ってはいなかったのですが、
しかし、そう言われてみると確かに2番目写真の出窓には、
日本建築の粋ともいえる「縁側」のミニチュア的な雰囲気が見て取れる。
見ているうちにそのご意見に、身体的に奥深く刺激されるモノがあった。
「そうか、出窓の意匠は縁側と景色の切り取りをワンセット化させたもの・・・」
という強い形態記憶がその根本にあるのではないかというもの。
まことに魅力的な推論で、深くとらわれてしまった次第。
明治の開拓期、防寒に優れた洋式建築の導入が一貫して追及されたけれど、
洋式建築での「出窓」はいわゆる「ボウ・ウインドウ」的なものであり、
1枚目の写真の明治帝迎賓施設「清華亭」の写真のようなタイプが主流。
札幌に残る同時期の洋式建築・時計台にも豊平館にも開拓使本庁舎にもない。
明治初期の開拓使建築では、この清華亭で唯一建築されている。
しかし、これはその後の「出窓」とはデザインの系統が異なっていると思われる。
床まで窓の下の壁面が届いており、床が「張り出している」というタイプ。
どちらかといえばバルコニーの室内版とでもいえるもの。
それに対して、その後の北海道で特徴的な「出窓」写真である2枚目では
かなり「出自の違い」が直感できるのです。窓は腰までくらいしか開口せず、
その窓の張り出し部分平面にはまるで「縁側の踏み板」状デザイン。
わが家でもこのようだったのですが、他家ではここに刀を納める例もあったという。
これは感覚的には、縁側を中空に浮かせることでレリック的に残したに近い。
そう考えると、寒冷地木造建築で「和」のデザインが独自に変容した、
という寒冷地ニッポンでの民族DNA的とも考えられるのです。
3枚目の写真は清華亭の和室外周の「縁」ですが、
このような和風住宅の縁側空間は、北海道の寒冷気候では採用できなかった。
しかしそういったデザインへの民族的ノスタルジーは根深くて止みがたく、
作り手の大工棟梁たちが、ガラスを嵌め込んだ窓に対して、
それを見立て上の「景色を切り取る縁〜出窓」という空間創造力を発揮し
いかにも、和の住空間を象徴するデザインとして形象化させたのでは・・・。
そして、寒冷地でのニッポン的「中間領域」継承を創意工夫した。
こうしたひとつの可能性が浮かんできて、それについて、
いろいろ意見交換を始めている次第です。まだプロセスではあるのですが、
もしそのような経緯で出窓が独自進化したものであれば、
北海道住宅はいきなりニッポンを放棄して無国籍化したのではなく、
その過程で、出窓というもので和のデザインを
変容させて取り込ませようとした痕跡といえるのではないか。
本州地区の専門家からも、同時代に本州地区建築での「出窓」は
その存在をほとんど記憶していないという意見もいただきました。
ただ、戦後の一時期の住宅面積規制時に出窓は面積参入されないことで
ブーム化し、メーカーは全国市場に大量出荷した経緯もあったとされる。
出窓の出自について、ひとつの大きな可能性が膨らんできた次第。
ちょっと北海道住宅建築探偵団(笑)を緊急出動させたいと思い始めております。