三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【460年前頃・越前一乗谷武家屋敷/日本人のいい家⑦】

2020-10-30 06:03:51 | 日記



さて久しぶりに「日本人のいい家」シリーズに復帰です。
このシリーズは、歴史的な過去建築・遺跡から日本人の住空間を考えるもの。
自分自身、こういう探索がいちばん本然ではないかと思っています。
もうこの世にはいないけれど、同じ日本人としてDNA的な取材対話が成立する。
・・・と思える瞬間を経験できると無上の歓びが湧いてくる(笑)。

で、ことしのNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。新型コロナで放送予定の
大幅中断があって、オモシロいと同時に同じ苦難を共有するドラマとして
まことに国民的な感情移入が深いように思えております。
で、物語はまだ中盤程度ですが、ドラマで越前朝倉家の「一乗谷」都市が
明智光秀家族が一時期身を寄せていた場所としてクローズアップ。
重要な背景風景になっている。今週以降、信長の越前攻めなども予測される。
わたしは2014年にこの一乗谷都市遺跡を訪問していた。
その一部を写真にも収めていたので感情移入がハンパない(笑)。
一乗谷は戦国大名の中世都市として奇跡的に遺跡保全されている。
まぁもちろん建築などは消失しているけれど、建築土木痕跡などは残存し、
また、後世の土木的改変が少ない「都市痕跡」だということ。
その写真類から「復元武家屋敷」を紹介。本日は敷地内での「配置」から。
朝倉氏家臣団の上級武家のための住宅地割り土木痕跡に基づく復元。
屋敷の敷地は約30m四方というもので、約273坪ほどの広さ。
おおむね300坪という敷地で、150年前の原札幌の街割りも住宅地は同様規格。
友人の札幌市中央区内の原札幌の地割りのままの敷地も同じ広さ。
これくらいの敷地であれば、野菜などの菜園を敷地内で確保できるので、
人間居住のための土地割としては人類普遍合理的だと聞いた記憶がある。
その敷地内に主のための「主殿」6間×4間・24坪の広さの平屋建物がある。
上の写真は主殿を門の方向から右方向に見た外観写真。
主殿は敷地の南西側端に配置。隠居老人用と思われる「離れ」も隣接。
門を入って右側には仕切土壁があって、その内側には庭空間がある。
写真右手の土壁の中が庭。で、画面左手には便所が建てられている。
敷地のほぼ中心に厠が建てられているのはどういった理由か?
通常は使用人が敷地内で作業していて、かれらの利用が考えられていたか。
あるいは肥をそのまま敷地内の「菜園」に施肥しやすいと考えたものか。
敷地の北半分には井戸、使用人の居住する「納屋」や「蔵」が配置されている。

主殿入口は東入りで北側に台所土間が配置され、南側が畳敷きの座敷。
座敷は南側に開いていて、広い「縁側」が南面している。
家具などはすべて納戸収納として室内設計仕様で復元されている。
このあたり中世的な暮らしようが推定されて興味深い。
入口の表門は西に向いており四周を囲む土壁の塀に開口している。
武家として防御性の高い土塀が必需的建築装置。社会ニーズが高かった。
入口に対して主殿の配置は奥に位置することになるのは、
やはり武家として、万が一外敵が門を破って襲ってきたとしても
一定の防御態勢が可能なように工夫されたものかと想像できる。
敷地のサイズが現代まで連綿と続く300坪程度で、中世都市と現代都市の
共通建築言語が確認できて、武家屋敷とはいえ人間同質性を感じさせられる。
「麒麟がくる」を見る楽しみの補助線情報としてお役に立てれば幸い(笑)。
あ、光秀はこういう「武家屋敷」には住んでいなかったハズ。かれは
朝倉家では「仕官」が叶わなかったとされているので、あす以降で
紹介の一乗谷「町家」区画で生活していたのではと思われます。
あしたはこの主殿の内部空間と間取りほかを紹介します。


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