三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【峠の茶屋 日本人のDNA的旅風景】

2020-09-08 05:41:20 | 日記

きのうの続篇なんですが、どうも道というヤツの歴史は奥深い。
律令政府が成立した奈良朝前後の段階で、中国の「官道」をまねて導入したのが
日本の本格的な「道」の起源ではないかと思います。
まぁもちろん慣用的な道路はあったでしょうが、国家によって整備された道。
国家という概念、租庸調の税を都に送り届けるシステムの基本インフラとして
「まずはこれ」というカタチで整備されたとされる。
それまでの日本、いや、その後の日本でももっとも合理的な物流手段は
海運水運であったことは明らかだと思いますが、
世界標準の律令システムでは「まっすぐな官道」というものが、
基本のキと認識されていたことは疑いがない。
奈良の計画首都建設でも、街区が中国的に碁盤の目に区画されたけれど、
その「大路」が延長していって、日本各地に道が延びていく。
そのことが、中央政権の威令が全国に行き渡ることと同義とされた。
東海道とか南海道、なんとか道という地方呼称概念も「道」が宛てられた。

そのような国土計画がほんの150年ほど前にようやく着手、経営された北海道では
こういう「国家の基本」の記録がスチール写真で残されている。
いちばん遅れたことが、むしろそのような歴史記録の痕跡を残すことになる。
道は歩行者やウマに乗った人、租庸調などのモノが往来する。
そうすると、今の時代の「高速パーキング」のような停留所機能が求められる。
人間歩けば必ず疲れて休みたくなる。
時代劇ではまことに馴染み深い「峠の茶屋」がそれに相当する。
峠道なのでどちら方向からも上り勾配を頑張って歩いてきて
いかにも「お疲れさま」という建築デザインが旅人を迎える。
ここではいかにも鄙びた茅葺き屋根で、屋根もいかにも「誘う」ような
微妙な姿カタチで、疲れた心理に語りかけてくれる。
「よくきたな、まぁ一杯寛いでいけや」というセリフが聞こえてくるようだ。
やはり立派な店構えというよりもややくたびれた茶屋建築が「ほどよい」。
元気が良くてチャーミングな茶屋娘が声を掛けてくれるのがウレシイ(笑)。
写真は明治5年の撮影で、函館から出ていまは「大沼トンネル」貫通するのが
国道ルートだけれど、そのトンネル貫通前には迂回する峠道があり、
大沼や駒ヶ岳の眺望が得られたという「無沢峠」の記録写真。
明治14年の明治帝の「北海道行幸」の帰り道では、この近くに「立ち寄り」された。

これがその「記録プレート」板。
明治帝は函館方面に向かわれた途中で、このあたりに立ち寄られた。
ずっと馬上から駒ヶ岳や大沼小沼を眺望されてきて、
ここが最後のビューポイントとして、振り返り小休止されたものでしょう。
基本的には乗馬で行程を消化されていたそうです。
この明治14年の北海道行幸は開拓使の使命が一区切りつけられた段階での
「天覧」要素の大きな行幸だったようで、ここは最後の旅程・函館にほど近い。
この時代の陸の旅路に思いが募ってきます。



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