「南京!南京!」 2009年 製作 中国
監督 陸川
主演 中泉英雄
南京事件を描いた中国映画「南京!南京!」は、筆者の予想に反し、堂々とした名作だった。もちろんこの映画は、中国の国策が要求する愛国反日路線の王道にいる。しかし陸川監督は、この映画を単なる憎悪増幅映画に終わらせたくなかったようである。最終的にこの映画は、愛国反日の枠を超えた反戦映画に仕上がっている。一般的に反戦映画には、自国の仕掛けた戦争を題材にするという縛りがある。そのように題材を選ばないと、加害者を責め立てる愛国映画にしか出来上がらないためである。したがってアメリカ映画ならアメリカ原住民虐殺やベトナム戦争、日本映画なら日中戦争や沖縄戦が反戦映画の題材にされてきた。したがって中国で反戦映画を作るなら、チベットやウイグルを題材に選ぶべきはずであった。しかし現中国政府には、そのような題材を許容できない。その限りで陸川監督が、反戦映画の題材に南京事件の日本軍を使ったのは、妥協とも受け取れる。結果的に上記の反戦映画の定石を満たそうとする限り、映画の主人公が日本人になるのは不可避となった。もしこの映画の主人公を中国人にしていたら、ただ残虐で悪趣味なだけの愛国反日映画に終わっていたはずである。
映画評を続ける前に、ここで先に筆者の日中戦争および南京虐殺の見解を示す。日中戦争は日本の中国侵略戦争である。そして南京事件での虐殺規模を1~5万の範囲で捉えている。つまり中国の言う30万人虐殺はもちろん、アメリカの教科書にある40万人虐殺を信じていないし、小林よしのりの言う虐殺幻説も信じていない。とはいえ事件後、最終的に日本軍はこの数十倍か数百倍の中国人を殺すわけで、南京虐殺の規模が小さくなったところで日本の戦争責任が減じるわけではない。鬼畜の所業と言える南京事件でも、まだ鬼畜の序の口でしかなかったのである。
日本における日中戦争についての一般的な解釈は、日中戦争すなわち蒋介石討伐である。つまり日本軍侵攻の目的を、中国大陸の帝国主義的支配と捉えていない。ただし右派言論陣は、そのことをもって日中戦争は侵略戦争ではないという奇妙な理屈を立てる。残念ながら主権国家に対して軍事侵攻を行えば、それは既に十分に侵略戦争である。そもそも日本の満州支配を免罪して、蒋介石非難を述べるのは許されない。つまり日中戦争とは、被害者中国に対する加害者日本の逆ギレにすぎない。ただし筆者も日本軍の目的は、中国大陸の帝国主義的支配ではなかったと見ている。しかし一般的解釈と違い、日中戦争の目的は、蒋介石討伐ではなく、蒋介石に対する抗日路線の転換圧力だったと見ている。したがって、南京陥落後の蒋介石の南京脱出も、日本軍の予定のシナリオだったと見ている。
一方で、最終目的として支配を目指さない軍事侵攻は可能なのか?という疑問も当然ある。支配を目指さない軍事侵攻は、第二次大戦前の世界に存在していない。このことから、右派言論陣と真逆に、日中戦争をあたかも物取り目当ての侵略戦争に扱う俗物も存在する。しかし戦国時代のような領土略奪を目的とする戦争の場合、支配に対抗しない領民を殺戮するのは、先行支配者を滅ぼした後を考えるなら、あまり効果的では無い。むしろ逆効果である。ところが上海から南京を目指した日本軍は、視界に入る中国人を可能な限り殺し、陵辱し、略奪を繰り返しながら一路南京に向かっている。この日本軍の行動は、日中戦争以前の日清戦争や日露戦争、あるいは直近の満州事変などでの日本軍の行動と明らかに異なっている。このことは、日本軍の目的が大陸支配などになかったという先の想定を裏づけるものである。
筆者は、日本軍の目的がもともと殺戮と陵辱の地獄絵の再現にあったと見ている。もちろんそれは、日本軍がそのような悪行を欲していたという想定ではない。日本軍が殺戮と陵辱と略奪を義務として自らに課したものと想定している。とはいえ、当たり前だが、南京侵攻にあたり日本の軍指導部は、公式に鬼畜行動を取るよう各部隊に命令を出していない。また全部隊が一丸となって鬼畜行動をとったわけでもない。つまり日本軍の鬼畜行動は、部隊が異なれば発生していないという偏差を持っている。このことから筆者は、公式の命令系統と別の命令系統が存在し、そこから可能な限りの殺戮と陵辱と略奪の実現の指示が出されたと見ている。つまり部隊ごとの鬼畜行動の偏差を、その各部隊に対する命令系統からの距離から説明するわけである。日本における南京事件についての一般的な解釈は、上海事変の偶発的産物に扱うような右派言論陣の論調が主流である。しかし日本軍は上海の日本人保護を名目に上陸するが、実際には上海だけでなく、上海のはるか遠方の杭州湾沿岸一帯に上陸し、各部隊は上海を目指すわけでもなく、一路南京を目指して集結する。この段階で既に先の偶発説は破綻している。つまり日本軍は最初から蒋介石が待つ南京を目指しており、日本の軍指導部は、偶発を装って南京を攻略したと考えるべきである。公式には、日本軍は戦線不拡大方針に基づき撤収を予定していたが、一部部隊が暴走して南京攻略に至ったとされている。しかしこの理屈は、日本軍の侵入経路を説明する上で明らかに筋が通らない。むしろ一部部隊の暴走は、日本軍の予定のシナリオだったと見るべきである。そしてそのこともやはり、公式の命令系統と別の、日本軍の影の司令塔が存在したという先の想定に結果する。
なお蒋介石は、南京事件の1年以上前から、日本軍が自らが陣取る南京まで来ると予想して、対日戦の準備を南京で進めていた。そして蒋介石の予想通りに、日本軍は南京に来た。しかしここで蒋介石の予想が的中したと驚く必要は無い。当たり前なのである。蒋介石はそのために満州の国民党軍に対し日本人に対する地獄絵巻のような挑発行動を繰り返させたのである。そして日本軍も、それを承知で、敢えて挑発に乗ったのである。日本軍は、自ら鬼畜になり下がることを賭けて、蒋介石の抗日路線の転換を得ようとした。しかし日本軍は、賭けに負けた。南京における自らの挑発行動の拡大再現を前にしても、蒋介石は抗日路線の転換をしなかった。そして日本軍もこの事件を境にして鬼畜体質に埋没し、蒋介石を求めてゲルニカを模した無差別爆撃を繰り返し、中国各地で止め処も無く殺戮を繰り返す地獄の住人になったのである。
映画評に戻るが、「南京!南京!」では日本軍がなぜわざわざ南京まで来て虐殺を繰り広げたのかの説明を一切していない。この点では、同じく戯画化された南京虐殺を描いたカンヌ受賞作映画「鬼が来た!」と一線を画している。可能性を言えば、そこに映画が言及すれば、「鬼が来た!」と同様に、反愛国映画のレッテルを貼られて中国国内で上映禁止になるのを、陸川監督が怖れたのかもしれない。結果的に映画の前半は、説明のつかない虐殺を悪玉日本人が繰り広げ、善玉中国人がひたすらその日本軍に対抗する愛国反日映画の一般的展開を踏襲している。映画の中半に至っても、悪玉日本人がひたすら悪行を行い、善玉中国人がひたすら善行を行うという平板な進行となっている。もしそのままで終わるなら、この映画は虐殺や陵辱の描写で客を引き付けるだけの、香港731部隊映画と似た無内容な愛国反日映画だったはずである。しかし映画は後半に進むにつれて、加害者の日本軍の中に芽生える虚無感と良心の呵責、消すことの出来ない心の中の暗闇の描写へ一気に力点を変える。
先に南京事件を題材に反戦映画を作ったことを妥協と受け取るのも可能だと記述した。実を言うとこの妥協が逆に、この映画の価値を高めている。なぜなら反戦映画は、加害者の自虐性と常に一体化しており、その自虐性が高いほど映画は見苦しい仕上がりになる。もしかすると、それほど反省するくらいなら、なぜ先に気づかなかったのかと被害者側の怒りを誘う可能性まである。そのような反戦映画の常識を、この「南京!南京!」という映画は覆した。被害者側が加害者側の懺悔を描いたという事実が、つまりこの映画の存在自体が、被害者と加害者の間の越えがたい壁もいつか融解するという希望を体現したからである。
新中国建国以来、反日は中国の国是である。例え中国映画に出演したにせよ、中国人にとって日本人は擁護する価値の無い鬼畜であった。小平時代に少しはそれも軟化したが、小平が逝去した後の江沢民政権は、再び血道を挙げて反日を推し進めて現在に至っている。この映画の中国初上映時でも、やはり舞台挨拶に立った日本人俳優に対して激しい罵声が浴びせられた。ところが大多数の中国人観客は、日本人俳優の擁護に回ったそうである。中国人観客のこの反応は、日本人にとって当たり前の反応かもしれない。しかしその反応は、かつての中国人における歪んだ対日行動の変化を示している。いかに中国人が理不尽でも日本人を擁護するのは許されなかったのが、かつての中国だったからである。この話は、またはこの映画は、戦後60年続いてきた日本からの一方通行の懺悔が無駄では無かったという、日本人にとっての朗報なのだとすればありがたい話である。
なおこの映画の主人公のような平和ボケ善人の日本軍兵士は、残念ながら絵空事である。南京に送り込まれた兵士全員は、生きて日本に帰れないと覚悟を決めて出兵している。またそのような極限状況だからこそ、南京事件という悪夢が可能となったのである。
(2011/10/29)
(2014/03/16 追記)
上記記事を書いてからの2年半の間に、日中関係が大きな後退を示した。日本政府による尖閣諸島の土地購入に対して中国反日暴動が発生し、中国政府による尖閣諸島への領土的主張は短期に繰り返して行なわれるようになり、中国軍による自衛隊への軍事的挑発が続いたあげくに、中国が尖閣諸島を含む東シナ海に防空識別圏の設定を行なうに至っている。もともと中国人の日本人嫌悪は常態的に高水準だったのだが、日本人の中国人嫌悪もかなりの短期間でそれと同水準にまで悪化した。このような情勢変化に伴い、上記記事を書いた段階で度外視した「南京!南京!」の欠陥について、追記しておく必要を筆者も感じることになった。もちろんそれは、中国による尖閣問題の竹島化を目指す動き、とくに尖閣諸島と無関係な日帝大陸政策批判を通じて、尖閣諸島中国領土説の自己正当化を図る動きが活発化しているためである。「南京!南京!」の作品的欠陥は、事実と虚偽を混在させたままに放置し、観客に対して虚偽を事実と誤認させるデマゴギー性に極限できる。この点に限っての「南京!南京!」の作品水準は、「鬼が来た!」に比べると格段に低いと言わざるを得ない。しかしこのような作品的欠陥は、この映画や映画世界に限られた出来事ではない。いわゆる日中戦争における歴史問題の多くに、事実と虚偽を混在させたままに放置し、大衆に対して虚偽を事実と誤認させるデマゴギー性が隠れているからである。とくに「南京!南京!」の場合、個々の日本軍の蛮行事実を丁寧に描写する努力をする一方で、無邪気に30万人虐殺の数字を一人歩きさせたこと、虐殺を規定すべき日本軍の南京侵攻の目的について無頓着な姿勢、偽証行為を愛国無罪として無反省に済ませようとしている甘さに、作家としての偽善性を指摘されて然るべきである。
もともと当時の首都南京を日中決戦の舞台に選んだのは、蒋介石である。南京決戦を睨んで、周到に蒋介石は満州での挑発策動を進めており、南京国民党軍の武器の充実を図っている。もちろん蒋介石の狙いは、首都南京に陣取る世界中の大使館および新聞記者に日本軍の蛮行を見せつけ、世界に日帝の巨悪を知らしめることである。当時の南京には、欧米先進国の外国大使館が数多くあり、また新聞記者をはじめ多くの外国人報道官が南京に駐在していたからである。ちなみに「南京!南京!」に日本軍が毒ガスを使用している場面が登場するが、実際には日本軍は毒ガスを使用していない。確かに日本軍は毒ガス使用を検討したのだが、その使用は不可能であった。とは言えその判断は、日本軍の倫理性に従ったものではない。南京に常駐する多くの外国人の存在が、日本軍による毒ガス使用を不可能にしたのである。なお南京事件当時の南京市街の総人口は107万人である。ただし日本軍による空爆開始に伴なって南京市民の流出が始まっており、当時の南京国際委員会の推計では、日本軍の南京侵攻時の南京人口は20万人程度である。むしろ南京陥落後の南京人口は、流出人口の復帰に伴なった25万人に増加している。ちなみに南京事件当時に日本軍が占拠したのは南京全体ではなく、南方1/5程度の限られた区域であった。したがって仮に日本軍が占拠区域の中国人を一人残らず殺しても、30万人の虐殺は不可能である。なお南京侵攻時の国民党軍の戦死者は8万人であるが、一般にこの人数を日本側は南京虐殺の死者に数えないが、中国側は南京虐殺の死者数に含めている。「南京!南京!」では、なぜか広場だか川岸だか不明な場所に大量の市民が集められ、重機関銃掃射ののちに広がる死体の山を背景にして、重々しく30万人虐殺の文字が浮かび出る。しかし実際の南京虐殺の頂点は、脱走事件を演出して中国人捕虜の一斉虐殺を行なった幕府山事件のはずである。なぜ日帝を非難できる確実な事件が歴然と存在するのに、正体不明な川岸虐殺場面をもって30万人虐殺を訴えるのか、筆者には理解に苦しむ。もともと日本軍歩兵部隊の標準装備は、銃剣つきの単発銃である。単発銃を用いた映像で30万人虐殺を描くのは無理がある。だからこそ重機関銃掃射の映像が必要となると見込まれる。ところが幕府山事件で重機関銃掃射を可能にしたのは、体力を喪失して塹壕に嵌っていた中国人捕虜の状態である。幕府山事件の虐殺数は1万5千人ほどだが、平地の川岸に人を集めて重機関銃掃射をしても、幕府山事件同等に1万5千人を殺すのは不可能である。
日帝の犯罪を暴くのは、正しい行動である。しかし求められているのは犯した罪を責め立てることであり、犯してもいない罪を責め立てることではない。わざわざ30万人虐殺という虚像を利用せずとも、日帝の犯罪を暴くことができるはずなのに、なぜ中国がその虚像に執着するのか、筆者には理解ができない。戦後すぐの日本は、謙虚に日帝の犯罪を直視していた。それどころか謙虚過ぎて、正体不明な都市伝説の多くを自らの犯罪だと鵜呑みにしていた。しかし犯してもいない罪を責め立てる行為は、責め立てられた側に悪の権利を与えるものである。だからと言ってそれにより日本が不良少年になるわけではないが、結果的に日本が持っていた自らの犯罪を反省する健全で旺盛な意欲は、次第に自らについて懐疑的になり、最後には自らの反省を誤りとみなすにさえ至っているように見える。または日帝を罵る面々が日帝以上の悪にまみれた自らの姿に無反省なのを見て、日帝の犯罪に目をつぶるのを良しとし始めているように見える。現在の日本のそこかしこで現われているこの現象が、いわゆる自虐史観の放棄への誘いである。しかし自虐史観の喪失は、日本自らにとっての歴史的損失である。それは、第二次大戦で日本が自ら得た唯一の世界に誇れる資産だからである。このようなことができる国は、ドイツを含めても世界のどこにも無い。民主主義の王者アメリカであっても、先住民虐殺と黒人奴隷売買と言った自国史の闇に切り込むのが関の山であり、他国および他国民に対して行なった人権蹂躙や破壊活動、さらには詐欺行為について国家的な反省を行なう能力を持っていない。世界の良心は、日本の自虐史観が健全に保全されることに尽力する義務を持っている。逆にこれらの点に無頓着な安っぽい正義感は、実際には悪である。「南京!南京!」の欠陥とは、まさしくこの安っぽい正義感なのである。
(2014/06/10 追記)
インターネットに中国メディアの『旧日本軍が焼却できなかった機密文書を公開 南京、2ヶ月半で約80万人減の記述も』というタイトルの記事が2014年4月26日付で出ているのを見た。記事タイトルがセンセーショナルに報じた南京人口減少の事実は、日本軍の南京侵攻により南京の人口が113万人から34万5千人に減った軍資料を単純に指しているようである。すぐわかるようにそれは、日本軍による空爆開始から南京侵攻に至る過程で、首都住民の脱出で南京人口が減少したと言う戦前から知られている事実を、あたかも日本軍の機密文書として新発見したかのように報じただけの代物である。つまりそれは、既知事実の新事実への偽装である。ちなみに日本軍の南京侵攻後の南京人口は、南京国際委員会が公表した数字では20万人である。中国メディアが南京事件についてセンセーショナルなタイトルをつけたいのであれば、よほど両者の数字を組み合わせて113万人から20万人と報じた方が、人口減少規模をより大きく見せられたはずである。もったいない話である。さらに2014年6月10日付で韓国メディアから、上記記事の情報源を中国が世界遺産申請したと言う『慰安婦・南京事件の史料、中国が世界遺産申請へ』というタイトルの記事が報じられている。もし中国による世界遺産申請が認可されるなら、南京国際委員会による南京人口動態報告についても日本発で世界遺産申請を出すべきであろう。
(2015/06/10 追記)
南京に侵攻した日本軍がガスマスクを装着していたのは、自軍の毒ガスへの対策ではない。中国国民党が使用した毒ガスへの対策である。
(2015/10/11 追記)
ユネスコが中国側の提示した南京事件資料を世界記憶遺産に認定した。これで南京事件の30万人虐殺の数字は、ユネスコの公認を受けたものとしてユネスコの権威のもとで世界に流布されることとなった。日本政府はこのことを世界記憶遺産の政治利用としてユネスコに抗議する方針だそうである。しかしこの問題は、単にユネスコが政治利用されただけの水準に留まっていない。ユネスコの行為は、合理的な事実認識を要求する理性の命令に敵対するものであり、人間の尊厳でもある人間理性そのものに対抗しているからである。この点では、ユネスコとイスラム国の両者の間に差異は無く、いずれも人間における合理的認識の敵対者として排斥すべき対象となっている。ただしこのユネスコの誤認識は、単に中国側のデマゴギーだけで生まれたものではない。アメリカ国内の歴史教科書では南京事件の虐殺数を40万人として記載しており、ユネスコを問題にする以前に日本は、アメリカの歴史認識に対して問題にする必要があったからである。そしてアメリカにおけるこの歴史認識もまた、政治的意図において仕組まれたデマゴギーである。つまり米中の利害一致により世界化した虐殺規模の認識がユネスコにまで波及している。とは言えそれでも問題なのは、ユネスコの歴史認識には世界的権威がまとわりついていることである。日本はユネスコ分担金として昨年度に37億円を拠出しているそうである。この問題に抗議するために日本は、過去のユネスコ認定の日本関連の世界遺産全ての認定解除を前提にして、今後のユネスコに対する資金分担を一切取りやめるべきである。可能であるなら、過去の負担金も返還要求すべきである。人間は、人間理性の敵に資金援助するべきではないからである。またこのことで資金の一部を喪失するユネスコのことを心配する必要も無い。37億円程度の穴埋めなら、中国が今後肩代わりするであろう。中国にしても日本から毎年受け取る300億円のうちの一部をユネスコに振り分けるだけで良いだけであろう。この展開は、状態としては戦前の日本が国際連盟を離脱した経緯を彷彿させるものになってしまう。しかしそれは、仕方の無い話である。この孤立は、民族的正義の実現ではなく、人間的正義の実現のための余儀ない選択である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます