松江市教育委員会が中沢啓治の「はだしのゲン」に閲覧制限を求めたそうである。理由は原爆被害の描写が生々しく残酷だということらしい。この説明は、PTAが白土三平や水木しげるの貸本劇画に対して悪書追放キャンペーンを張った60年代の論理を彷彿とさせる。白土三平の戦国漫画では、剣劇の随所ですぐに手がちぎれ、首が飛ぶ。しかし殺し合いの現実とは、そのようなものであり、だからこそ封建支配による人間隷属が成立した。現実世界の残虐は、漫画表現を凌駕しているわけである。このことは「はだしのゲン」にも該当している。しかもこの作品の狙いは、いかに原爆が残酷な兵器であるのか、なぜそれを廃絶すべきなのかを世界に知らしめることである。当然ながら、この作品から原爆被害の残酷描写を切り離すのは不可能である。またこの作品は、その残虐描写をことさら過大に描いているわけではない。それは、爆心地で人間に何が起きたのかを部分的に再現しただけである。ただしこの作品は、絵も稚拙でストーリーも良くない。唯一の優位点は、作者が被爆者だと言う事実だけである。原爆のもたらした惨劇を知るには、よほど被爆者の体験談を聞いた方が良い。筆者には、原爆投下直後に救護隊メンバーとして爆心地に入った叔母がいた。原爆の恐怖は、彼女から聞いている。ちなみに作品の中で、焼け落ちた体皮をひきずりながら手を前に出して、幽霊のように爆心地から逃げてくる被爆者たちの姿が登場するが、彼女の話ではひきずられている体皮は干乾びており、水気の無いものだったそうである。漫画の絵では、その感覚は伝わって来ない。そもそも筆者には、実際に起きた残虐を、その一部でも表現することに対して抵抗する感覚を理解できない。鶏、豚、牛の肉は、全て場で殺され解体され、肉屋を経由して都市生活者の食卓に並べられる。農村部で当たり前のこの事実は、都市生活者に対して衝撃を与える残酷な事実と映るかもしれない。しかしその事実を知らしめるのは、残酷を趣味するものではない。むしろ食肉の起源に対して嫌悪を示すという上品な感性の方が、筆者にとって不気味である。
原水爆禁止運動は、広島・長崎の原爆体験を起源にする。この原爆体験は、いかなる理由があろうとも核兵器の使用を許さないという理念に結実している。それは原爆に生き残った被爆者の願いであり、爆心地で消えた人たちの怨念でもある。素直にその理念に従うなら、日本が再び核兵器による攻撃を受けようとも、日本から核兵器を使用することはできない。そして原水爆禁止運動は、それを良しとするものである。この考え方は、好戦論からすれば、諦めに似たお人好しの理屈に見える。しかしこの被爆者のお人好しを裏付けているのは、自らの原爆体験である。戦争の理屈が何であれ、自らの受けた苦しみ、そして眼にした地獄が、この世界に二度と起きるべきではないと、被爆者は考えている。それにより、自らが今度こそ原爆死するとしてでもである。ガンジーの非暴力運動は、善行に対する宗教信仰を根拠にしていた。しかし被爆者による原水爆禁止運動には、そのような背景は無く、ただ単純に原爆が持つ非人間性だけを根拠にする。原爆体験とは、それ程の地獄体験だったわけである。昭和30年代に原水爆禁止運動が国民的運動となったのも、この被爆者の感情を自然に共有できるような国内の戦争忌避感情および反戦意識を背景にしていた。イスラエルの元高官が、原爆投下が侵略戦争の当然の報いだとして、広島・長崎の原爆式典を独善的と非難したそうである。その論旨は、悪い奴を懲らしめるためなら、原爆を使って良いと言う内容と思われる。この元高官は、原水爆禁止運動の理念を理解しておらず、そもそも被爆者の苦悩や原爆の非人間性を理解していない。
松江市教委による「はだしのゲン」閲覧禁止化の動きは、実際には日本の政治的右傾化および再軍国化を背景にするのではないかという見方が多い。過激な残酷表現に満ちた近年のメディア文化を考えるなら、むしろこの見方の方が妥当に思える。戦後70年を経過せんとする今では、かつて身近に存在した戦争の傷跡も消え、当たり前のように存在した戦争忌避感情や反戦意識もさすがに消え薄れたのかもしれない。個人的には、日本の政治的右傾化および再軍国化が、アメリカの政治的支配からの脱却を目指すのなら、それほど悪いこととは考えていない。しかしそれが、戦争実態の直視からの逃避であり、日中戦争への反省をないがしろにするものであるなら、NOである。この点では、松江市教委による閲覧禁止化策動に対しても、NOである。また自民党による右傾化の動きも、アメリカの政治的支配からの脱却を目指しておらず、そもそも自民党自体がアメリカの政治的傀儡にすぎない点で、NOである。石原慎太郎は、日本の核大国化を標榜しているようであるが、それは原水爆禁止運動の理念に逆らっている。少なくとも日本は、3発目の原爆を受けるまでは核兵器所持をすべきではないし、それを政治課題に取り上げてもいけない。おそらく日本の技術力なら、3発目の原爆を受けた後でも、数年で米露の所有核を凌駕する核兵器を増産できるであろう。人類絶滅を覚悟した報復戦を考えるなら、3発目の原爆投下を待ってからでも充分に間に合う。このことは、日本の再軍国化の動き全般に対して該当するところが多い。ただし日本の再軍国化は、アメリカの政治的支配からの脱却と独立民族政権下における憲法9条の改正を前提にしている。核兵器所持は、いかなる政権であってもNOであるが、将来の日本の国民意識がどうなっているのかは、誰にもわからない。日本領土への外国軍隊の侵入が起きれば、戦前のときと同様に、またもや偽愛国が狂熱のように日本を支配し、かつて歩いてきた道へと日本は舞い戻るかもしれない。
(2013/08/25)
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