「エリート・スクワッド ブラジル特殊部隊BOPE」
2010年製作ブラジル
監督 ジョゼ・バリージャ
主演 ヴァグネル・モーラ
この映画はベルリン国際映画祭金熊賞を獲得した「エリート・スクワッド」の続編である。しかし続編と言っても、その筋立ては前作よりよほど衝撃的である。なにしろ続編でありながらこの映画は、前作の到達点を放棄し、さらなる作品的頂点を目指すからである。前作の物語の中心は、貧民街出身の特殊警察BOPE隊員と貧民街に巣食う麻薬組織との対決である。もしも特殊警察と麻薬組織との過激なまでの戦いに注視するだけなら、この映画はせいぜいブラジル版『西部警察』にすぎなかったであろう。しかし映画は両者の対決だけではなく、貧民と麻薬組織との両方を喰い物にする腐敗した警察、および貧民世界の裏側で頽廃する富裕層の若者たちを描き、ブラジル社会が構造的に抱えた国家的病理を見事に映像にした。映画の成功は、特殊警察BOPEの活躍以上に、救いの見えないブラジルの現実を抉り出したそのセミドキュメンタリー性にあった。当然ながら次に観客が期待するのは、監督が映画の続編を作るとなれば、その内容も国家的病理の原因の摘発を推し進め、映画を純化すべきだと言うことである。そして第二作で監督は、若干戯画的にも見えるが、見事にその期待に応えている。
この第二作では、貧民街から生まれる悪人が、構造的な国家的病理の単なる必然として現われている。したがって特殊警察BOPEがそれらの悪人を片っ端に殺し続けても、代わりの悪人が貧民街から新しく生まれるだけである。しかも第二作では、仮に貧民街から悪人が消えたとしても、その悪の空白地帯が今度は腐敗警察によるさらに強力な支配に置かれる可能性を示唆する。しかもこの映画において警察の腐敗も、貧民街から生まれる悪人と同様に、構造的な国家的病理の単なる必然にすぎない。したがって特殊警察BOPEがそれらの腐敗警察を片っ端に摘発しても、代わりの汚職警官が貧民街から新しく生まれるだけに終わることも目に見えている。つまり貧困の根本原因を断たない限り、問題事象が解決されることは無い。もちろんこのような歴史把握の視点は、あからさまに唯物史観である。もともとこの第二作は、第一作と違い、監督が自らの政治的位置を語り始めた点で筆者を驚かせたのだが、それもその政治的位置が第一作から想定される右翼的体制護持と逆方向に向かったことで、さらに筆者を驚かせた。ただし第一作において、映画が持っていたこのような政治性に筆者が気づかなかったのも、仕方無かったように自分で思える。一般に政情不安な社会では、生活基盤の安定への期待から、国民は政治的保守派を支持する。麻薬戦争への嫌悪は、特殊警察BOPEに対する支持に結びつくしかなく、当然ながらその政治的役割も現体制擁護の保守主義になるのが普通だからである。ところがブラジルでは、第一作公開の4年前の2002年に左翼政権が樹立しており、現体制擁護とはすなわち改革派に対する支持として現れる。しかも日本のヤクザが民族主義で自己粉飾するのと逆に、ブラジルのマフィアは共産主義で自己粉飾している。つまりブラジルでの麻薬組織は、右翼系民族主義的暴力団ではなく左翼系共産主義的暴力組織である。結果的にブラジルの政治感覚での特殊警察BOPEの立ち位置は、実際には左右混石の玉虫色であり、どちらにも向いている。このような事情に疎いまま、日本の政治感覚で特殊警察BOPEを見る限り、そこに見出されるのは日本式の保守主義だけに終わらざるを得ない。もちろんそれは、筆者が自ら抱えた通念により自ら騙されただけの錯覚でしかなかった。
この映画が描くリオデジャネイロの貧民街では、地域暴力団が腐敗した警察と結託して商売を牛耳り、住民の生活も彼らへの賄賂を供給すること無しに成立しない。そこでは常態化したショバ代や腐敗警察への賄賂の存在が、私設国家に対する税金支払として現われている。すなわち貧民街における商業活動は、公式国家に対する税金支払だけではなく、地域暴力団や腐敗警察などの各種の私設国家に対する税金支払を通じて、かろうじて保証されている。先進国の生活感覚からすれば、このような私設国家に対する税金支払を野放しにした社会の在り方を理解するのは難しい。リオデジャネイロの現状は、みかじめ料支払を拒否したスナックへの爆弾攻撃を容認した北九州市と同水準にある。ブラジルの歴史上には楽市楽座が無かったのであろうか。加えて第一作で描かれた汚職と賄賂で機能不全に陥った行政機能の実態は、公式の国家機能を通じた改革を絶望させる水準にあった。だからこそ、暴力を通じた改革とは言え、映画における特殊警察BOPEは、公式の国家機能の再生を期待させ、正義の実現を期待させるものとなっている。言うなれば特殊警察BOPEへの期待は、ロシア革命においてボリシェビキがロシア貧民から集めた期待と似ている。
しかし対立する複数種類の権力の拮抗は、常に薄氷の上にある。最初に地域暴力団と腐敗警察と公式国家のそれぞれの権力は、相互癒着を通じて自己保全を図っていた。ところが各種の事情で相互均衡が崩れ始めると、いよいよ相互対立が深まり、殺し合いが始まる。第一作では、貧民街でのNGO活動を保証した地域暴力団へのみかじめ料支払の摘発を通じて、特殊警察BOPEが地域暴力団の完全壊滅を果した。ところが第二作では、その悪の空白地帯で腐敗警察によるショバ代の直接徴収が始まる。腐敗警察は権力を盾にして、地域暴力団以上に強力な地域支配を実現する。第二作における特殊警察BOPEの新しい敵は、麻薬マフィアではなく腐敗した警察であり、その警察を従えた権力者である。当然ながら観客は、ここで一つの疑問を持たなければならない。警察さえ腐敗する社会において、特殊警察BOPEの清廉はなぜ可能なのか、そして現時点で清廉であるとしても、その清廉さはいつまで持続可能なのか、である。もちろんこの疑問は、特殊警察の解体に繋がる疑問であり、この第二作の結末もその方向を示唆している。映画が語るのは、BOPEの正義が薄氷の上に立つ正義であり、いつでも巨悪に転ずる単なる暴力なのだと言う忠告である。特殊警察BOPEが抱え持つ危険は、野放しにされた暴力装置が抱え持つ一般的な危険であり、ロシア革命時にボリシェビキが無自覚に抱えていた危険にも通じている。もちろんボリシェビキは、自らの権力的撤収を考えることも無かった。なぜならそのことを考える能力、すなわち民主主義が既にレーニンにより死滅させられていたからである。
旧時代における搾取では、人を含めた商品の流通拠点の各所に中間搾取機構を設ける形で、商品流通に対して各種暴力装置が二重三重に収奪を加えていた。それぞれの収奪にはそれぞれの口実が成立しており、それぞれの各種暴力装置が必要悪として自らの暴力を正当化し、自らの正義を粉飾していた。もちろんその正義にはそれなりの正当性が成立しており、それらの口実も全くの虚偽ではない。地域暴力自身による自作自演かもしれないにせよ、その地域暴力の加護が無ければ、実際に商品流通が成立できなかったからである。しかし長期的な視点で言うなら、いずれの地域暴力も単なる商品流通の桎梏にすぎない。経済発展の桎梏となる機構は、革命などを通じて崩壊すべきであり、少なくとも地域暴力による二重三重の収奪は、国家による単一関税に集約されなければならない。だからこそいずれの地域でも、最大の暴力装置は国家として現れる。国民が夢見るのは、この国家への帰属において他の地域暴力の支配から離脱することである。すなわち強力な国家による地域暴力の撲滅である。ただし国家がそのような国民の期待に応えるかどうかは不定である。往々にして地域暴力と国家の癒合が、貧民にとっての税負担軽減を阻むからである。仮に国家が地域暴力を一掃しても、国家の腐敗が貧民にとっての税負担軽減を阻む可能性もある。この危険性を排除する条件は、国家の腐敗の阻止であり、国家の民主主義的浄化である。しかし法整備された国家は、地域暴力に対して弱体化せざるを得ない。そして国家が弱体であれば、各種の地域暴力の勃興も避けられない。問題は、再び強力な国家による地域暴力の撲滅への期待に戻る。このジレンマを克服する条件は、地域暴力の勃興それ自体の克服であり、すなわち悪それ自体の発生の排除であり、簡単に言えば貧困の撲滅である。強力な国家による地域暴力の撲滅は、単なる対症療法であり、根本治療ではない。その限りで特殊警察BOPEには、まだ出番が残っているとも言い得る。
なお二重三重の収奪を行なう各種の暴力装置は、生産手段の先験的所有において自らの収奪を正当なものに粉飾することの完成を目指す。そうではない収奪者は、あからさまな強奪者としての醜い姿を世界に晒さなければならないからである。したがって私設租税による旧時代型の収奪は、商品流通完了後の地代収入、または商品生産時の剰余価値取得のどちらかに純化しなければならない。しかしそのことは、強奪者としての醜い姿をあからさまにしなくしただけであり、内実として強奪者としての実態を何も変えるものではない。さしあたり現代先進国に求められているのは、地代生活者の権威剥奪であり、その収益の不当化を通じた資本主義の再生および純化である。地代が無効になれば、その巨大な糊代を使って、資本主義は爆発的に再生するはずである。ただしそこでの資本主義の再生は、永続的なものではない。地代生活者の権威剥奪は、現時点で二重に現われている資本主義の問題事象を単独化させ、より明白にするために必要なだけである。ただしそれにより資本主義の根本的な問題解決が将来に先延ばしになっただけだとしても、そのことを怖れる必要は既に無い。なるほどレーニンは、貧民の富裕化が共産主義革命における産みの苦しみを長期化させるだけだと言った。しかしそのレーニンの脅しが虚偽であるのは、既に歴史が示しているからである。
(2014/06/22)
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