「火垂るの墓」1988年 製作日本
監督 高畑勲
原作 野坂昭如
反戦映画の基本スタイルは、加害者側における自己批判である。被害者側による加害者批判だと、往々にして被害者による加害者憎悪が表現されてしまう。そのような映画は反戦映画ではなく単なる戦争映画に終り、せいぜい戦争被害者が勝利者として自己陶酔するための、または加害者への憎悪を喚起するだけの好戦映画になってしまう。しかしこのように自己批判を要請する反戦映画の事情は、往々にして反戦映画の制作行為を反体制運動に変えてしまう。反戦映画が要求する自己批判は、必然的に自国批判にならざるを得ないからである。また反戦映画の制作者の興味も、遠い時代の不明な場所の戦争悲劇の再現にあるのではない。もっぱら反戦映画が意図するのは、現体制の進む方向に現れる直近の侵略戦争の抑止だからである。このように反戦イコール反体制となる事情は、自国の体制への批判を封じられた国での反戦映画制作を、困難な行為へと変えるものである。結果的に独裁国家における戦争映画は、全て好戦映画とならざるを得ない。逆に言うなら反戦映画を制作できることは、その国が民主国家である証にもなっている。加えて加害者として自己批判を行なうだけの侵略実績を持つ国は、近代帝国主義国家に限定されている。しかも国家主義において実質的な言論弾圧が続く新生ロシアや、東西分断において反戦に関して完全に口を閉ざさざるを得なかったドイツ、またファシストとしての過去を封印したイタリアやフランスを除くと、実際に反戦映画制作の資格を有する国は、現時点で世界にアメリカと日本の二国だけしか存在しない。加えてアメリカにしても、ベトナム戦争を筆頭にした他の民族国家の転覆行為それ自体の罪を語ることは、いまだにタブーとなっている。つまり国家犯罪の告発として反戦映画を制作が許容されているのは、日本映画だけである。なるほど上述内容を是認するなら、反戦映画の制作資格を与えられていることは、日本に限らず、その国家及び国民の不名誉である。しかし反戦映画を制作してきた日本映画の実績は、日本および日本人の名誉だと考えるべきである。
戦勝国民は、戦災の苦痛を敗戦国への憎悪に転化するのが基本である。戦争が敗戦国側の都合で発生しているなら、なおのことその憎悪は妥当な感情の流れである。しかし逆に、戦争が戦勝国側の都合で発生していた場合、その憎悪は非合理な感情となる。例えば新大陸開拓時代の南北アメリカやオーストラリアで、白人が先住民に対して抱いた憎悪は、常に自分勝手で理不尽な感情であった。もし戦勝国民がその理不尽を自覚し、敗戦国民への憎悪を是認しないなら、戦勝国民における戦災の苦痛は、敗戦国の戦争責任の追及へ向かう以上に、自らの加害責任の追及へと向かうしかない。しかしそれは、明らかに戦勝国民にとって苦痛な展開である。結果的に戦勝国民は、敗戦国民に対して野蛮だとか無宗教だとかの非難を浴びせ、自己正当化において自らの加害責任を封印することとなる。もっぱらこの場合の正当な歴史的評価が可能になるためには、戦争に関する国家的な利害関係の終息が条件となる。
一方で敗戦国民は、戦災の苦痛を自国の国民指導者への憎悪に転化するのが基本である。戦争が敗戦国側の都合で発生しているのなら、ひとまずその国民指導者に対する憎悪は、国民指導者が勝利の見通しの無い戦争を引き起こした点で、敗戦国民にとって妥当な感情の流れである。ただし敗戦国民が自ら熱狂的にその国民指導者を支持した事実を自覚する場合、国民指導者の戦争責任の追及へ向かう以上に、敗戦国民は自らの加害責任を追及せざるを得ない。この感情の流れの前者と後者の差異は、それぞれ欧州型と日本型の区別を為している。ちなみにアメリカは、両者の中間に位置している。例えば第二次大戦後のドイツやイタリアでは、ナチスやファシストが悪者であり、国民一般の戦争責任が免除されている。同じような事態は、自称戦勝国のフランスにも起きており、そこではビシー政権が悪者であり、国民一般の戦争責任は無視されている。それどころかフランスは、そもそもビシー政権を自国史から消去している。それに対して日本は、かつての国民指導者への憎悪を国民が受け入れようとしない。少なくとも戦前生まれの日本人は、国民指導者による戦争開始を、勝利の見通しの無い戦争を引き起こした点を除くなら、国民の意思を代表した判断と考えており、国民指導者への憎悪を無意味に扱っている。ただしこの日本人の姿勢は、日本以外の戦争被害者にとって侵略戦争の無反省の如く映るものである。もちろんそれは、日本に対する意図的な誤解である。結果的にそこには、日本の戦争についてのタブーが生まれることとなる。ドイツの場合、ヒットラーが野望を持って戦争を開始した。日本以外の戦争被害者からすれば、同じように日本の場合も、独裁者が野望を持って戦争を開始すべきである。ところが日本には、そのような独裁者は存在しない。そうだとすれば、日本人は国民全員がヒットラーのような野望を持って戦争を開始したのであろうと考えるのが筋である。しかしその事実の検証をするためには、日本がなぜ戦争を開始したのかの歴史的経緯を追う必要がある。この段階で日本以外の全ての戦争当時国に困ることが発生する。それらの国が自らにおいて語り得ぬ事柄を、今度は自らが語る必要が生まれてくるからである。したがって日本以外の全ての戦争当時国にとって常に日本の戦争は、日本国民全員が他国の征服欲にかられたことで始められなければならない。当然ながら彼らにとって日本人は、世界においても特異な、殺戮と陵辱と支配を本性に持つ悪魔民族でなければ話の辻褄も合わなくなるわけである。
他方で、戦争が戦勝国側の都合で発生していた場合、敗戦国における自国指導者への憎悪は、敗戦国においても非合理な感情となる。その場合では、戦災の苦痛を戦勝国への憎悪に転化するのが基本とならざるを得ない。もちろんその憎悪は、愛国心と言う名前の復讐心であり、第二次大戦前のドイツや中国、さらには黒船来航時に武力開国に屈服した日本が戦勝国に対して抱いた感情である。ただし戦争が戦勝国側の都合で発生していたとしても、敗戦国民が自らを野蛮で無宗教だとの非難に値すると自覚する場合、ここでも敗戦国民は、戦勝国への憎悪に向かう以上に自らの加害責任を追及せざるを得ない。第二次大戦後のドイツと日本は、ともに戦勝国への憎悪を断念した点で、この後者の道を歩んでいる。このような加害責任の自覚は、敗戦国の歴史認識においていわゆる自虐史観を形成する。ただし既に見たようにドイツと日本は、かつての国民指導者への憎悪の形成において差異を持つ。敗戦国民が国民指導者に加害責任の転嫁を是認し得ない場合、敗戦国民は自らに対して加害責任を追及するしかない。すなわち日本人には、戦争を要求し、それに加担した自らの罪を自覚することしか、戦争責任および戦災の苦痛を受け入れる道が残されていないわけである。もちろん戦争責任および戦災の苦痛を逃れようとする意識は、他の帝国主義諸国や覇権国家と同様に、日本においても存在する。ただしそれは、自らの加害責任に疑義を呈し、ひいてはそれを戦勝国への憎悪に転化する特殊な姿を取る。もちろんそれらの理屈の各所に正論は存在する。しかし総論として言うなら、日本は自らの加害責任を自覚し、自虐史観を堅持しなければならない。その前提を突き崩した上での加害責任の回避と自己弁護は、結局のところ侵略行為と同等の悪行にすぎない。なおベトナム戦争でのアメリカは敗戦国であったが、イラク戦争でのアメリカは戦勝国である。いずれの戦争の場合でも、アメリカにおける良心は、相手国の戦争責任の追及へ向かう以上に、自らの加害責任を追及し続けている。
反戦映画において自らを悪と描く加害者は、例えば第二次大戦敗戦国の日独伊、またはベトナム戦やアフガニスタン侵攻において大国覇権を演じたアメリカやロシア、あるいはチベットやウイグルの併合を自己正当化する中国のような独善国家になるとは限らない。むしろ反戦映画の基底に現れるのは、戦争被害および同族の困難に対して傍観した人たち、または戦争被害者および戦災に苦しむ同胞を見捨てた人たちの懺悔と自己憎悪、あるいは心身ともに崩壊する隣人を救えなかったことの自虐の念である。そのような懺悔と自己憎悪は、目前の悲劇に対して見て見ぬふりをした自分の行為を恥じる意識であり、未必の故意において自らを加害者として断罪する意識であり、為す術を持たず無力なだけの自らを絶望する意識である。もちろんその意識が見い出す加害行為は、侵略戦争において積極的に戦争に加担する形の加害行為と異なる。しかし自らの果すべき責務への自問は、戦勝国民であるか敗戦国民であるかを問わず、等しく戦争体験者の精神を蝕む一種の神の審判として現れる。そこに生まれた自虐の念は、戦争体験者に対し、一方に破壊的な自己否定における愛国主義的好戦を生み出し、その反対側に国家間の正義に対して興味を失う形で、戦争それ自体の合理性の拒否を促す。反戦映画とは、このような感情の芸術的発露の一つである。
一口に反戦映画と言っても、実際にはその製作スタイルにも二つの傾向的分裂がある。一方は一般論として戦争全般に反対するものであり、他方は具体的な自国の過去の戦争を反省するものである。前者はいかなる戦闘行為にも嫌悪する博愛主義であり、後者は大義無き戦争を反省する合理主義である。ただし前者の博愛主義は、合理的な戦争も一緒に排除する限り、非合理主義に容易に転化する。それでもその非合理主義は、まだ加害者として自己を批判するものであるなら、まだ救いがある。その非合理主義の仲間には、加害者としての自己を批判することなく、被害者に責任を見い出す偽りの博愛主義も存在するからである。例えば「ディア・ハンター」は、この種の腐れ外道映画の代表作である。博愛主義的反戦映画の便利な点は、戦争の経緯を語らずに済むことである。ただし博愛主義的反戦映画と合理主義的反戦映画の共通項となる反戦映画は可能であり、また戦争体験の伝承を目指す反戦映画は一般的にその共通項として存在する。とは言え、日本における反戦映画は、アメリカやフランスなどの他国の反戦映画と立ち位置が異ならざるを得ない。ちなみに日本の戦争が植民地権益の死守を目的にした点で道義的不当性を抱えているのは、他の帝国主義諸国との差異ではなく、むしろ共通点である。日本の反戦映画が抱える立ち位置の特殊性は、先に述べた二つの特殊な事情に従っている。一つは、日本が単なる加害者ではなく、敗戦国だと言う事情である。そしてもう一つは、戦争責任を特定の国民指導者に擦り付けるのではなく、国民総意において選択した自らの罪として理解していることである。この二つの特殊な事情において日本国民は、加害者としての罪と被害者としての不幸の両方を知る世界的に見て珍しい国民となっている。
筆者は映画評に先立ち、反戦運動とは何か、また反戦映画とは何か、およびそのことにおける日本の特殊性を上記にまとめた。これは筆者が、「火垂るの墓」を評価する上で避けられない前置きとして反戦映画論一般が必要だと考えたからである。しかし余計な前置きを抜いて「火垂るの墓」の評価を言うなら、この映画は反戦映画の傑作である。とは言え「火垂るの墓」の印象は、他の反戦映画のように、なにがしかの美的存在が登場する芸術作品に仕上がっているわけではなく、どこにも救いの見当たらない苦痛だけを残す恐ろしい映画である。かつて「ソフィーの選択」を観た後、筆者はしばらくの間、主人公の聞いた捨てられた我が子の泣き叫ぶ声が頭の中に反復して、苦痛な日々を過ごさざるを得なかった。「火垂るの墓」について言えば、「ソフィーの選択」よりもはるかに苦痛な映像が、いまだにフラッシュバックのように筆者の頭の中に再現し、現在に続いている。それは、映画全編が終り、戦火が消え平和になった現代日本の山中の夜の公園で、主人公の妹の節子が一人でおもいきり楽しそうに遊んでいる絵である。「ソフィーの選択」では、ソフィーを助けようと尽力する多くの登場人物が現れたが、「火垂るの墓」では、主人公である節子の兄を含めて、家族一同は戦中および戦後史の闇に消えてしまった。可哀想なことに節子の魂は、誰もいない夜の公園で永久に孤独な遊びを繰り返すことしかできない。節子の悲劇の特殊性は、日本の特殊性を引き摺っている。神にも見捨てられたその境遇は、戦勝国民のソフィーと敗戦国民の節子の差異を体現している。筆者には節子の悲劇が、世界中から悪魔のごとく扱われた戦前の日本人にダブって見えている。
インターネットでの多くの映画評で見ると、主人公の清太がなぜ幼い妹を連れて無謀な家出をしたのかに納得しない記載がある。要するにそれは、弱者がなぜ弱者でいることに甘んじられなかったのかと責める言葉である。なるほど清太の家出について、映画はあまり多くを語っていない。しかしこの辺にもやはり終戦直後の荒んだ日本社会の記憶の風化を見て取れる。今でこそ日本人は、地震などの天災で生活基盤を喪失した同胞を救うために一丸となって動くやさしさを持っている。ところが終戦直後の日本には、仕事も住む所も食糧も失い、それこそ親族が、鬼の如く同じ親族を切り捨てる事態はどこにでもあった。筆者の家族も、疎開先から東京に戻ったときに間借りした親族の家で、それこそ追い立てるような仕打ちを受けて、他の親族の家に転がり込んでいる。テレビドラマの「おしん」にも、終戦直後に自分の家を横取りされるエピソードがあったが、日本人の規律正しさや他者との協調を重んじる文化も、貧困の前にはしばしば霧散せざるを得なかったのである。このような生活手段の所有関係をめぐる家族の対立は、日本の伝統的な身分社会の構図を彷彿とさせるものである。よく知られているように江戸時代の日本では、商人より下の最下層の身分があったわけだが、その間隙に位置する身分階層として、下人と呼ばれた家内奴隷が存在した。下人は、一族郎党が縁側の敷居の内側で畳に座って食事をする場合でも、敷居を隔てた土間に正座して食事をすることを定められており、寝る場所も牛小屋や馬小屋、または農具や藁をしまう離れや納屋で生活する過酷な環境に置かれ、一族郎党の中の最下層として差別された人間である。下人に対する理不尽な仕打ちは、下人が身分制度全体の最下層でなかったとしても、インドの底辺カーストや、南北戦争前のアメリカの黒人奴隷が受けた惨い仕打ちとそれほど変わるものではない。そのような境遇に耐えられない場合、現代であれば機会を見て都市部に移動し、職を求めて自立した生活を得ることであろう。しかし身分制度の固定した旧時代にそれは許されないことであり、現代にあっても自ら生活する術を持たない子供にそのような目論見は許されていない。しかしそれでも自ら受けてきた差別に我慢ができない人たちは、または子供たちは、家を出るしかないのである。もちろんそれは、死を覚悟した行為である。この映画に関して言えば、それでも主人公は妹を連れて家を出るべきではなかったのかどうかと言う極限状況の疑問を残すであろう。しかし筆者には、その答えを見つけることができない。またおそらくその答えは、誰が答えるにしても、軽軽しく答えられるものとならない。なぜなら、節子は唯一の肉親の兄の傍で死んだので、まだ幸せだったのかもしれないからである。
反戦映画の一つの使命が、戦争体験の伝承にあるなら、この映画は反戦映画の最高峰にあると筆者は考えている。とは言え、あまりに重たい内容であるがゆえに、芸術作品として筆者はこの映画を評価する気になれない。
(2014/04/06)
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