「ブレードランナー2049」2017年 製作アメリカ
監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ
主演ライアン・ゴズリング
原作フィリップ・K・ディック
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」1968
細かいことを抜きにして言えば、とても満足のゆく映画であった。なにしろこの続編は25年の時を超えて、前作の奇天烈な映像世界、そして何よりもデッカードとレイチェルに再会する喜びを観る側にもたらすからである。もちろんそれは、この映画の制作スタッフが制作方針に続編としての映画スタイルを選択した結果でもある。したがってこの映画は「エイリアン2」や「マッドマックス2」のように、前作についての知識を必要としない映画ではない。それゆえにこの映画は、最初から前作を超えられないと言う首輪を自らはめている。25年の時間的再生の至福は、その見返りとして映画に与えられたものである。ついでにモンローやプレスリーのリアル映像も凄く良い。ただしそれは25年の時が生み出す味わいであり、前作を直近にビデオで観ただけの観客、またはそもそも前作を観ていない観客には通用しない。それに加えてこの続編は、前作において語られなかった原作部分、すなわち転覆すべき都市伝説的宗教を物語の中心におき、前作が体現した精神をさらに進化させた人間論を展開している。つまりこの映画は、原作と前作を知る観客を意識した続編であり、それらの要素を全て満足させ、さらには前作の超越を目指している。それゆえにこの映画の見え方は、前作を観た人、観てない人、前作を観た時期が公開当時なのか、最近なのか、原作を読んだのか、読んでいないのかと、人によってかなり異なりそうに思われる。やはり映画の中でノスタルジーに浸るのを優先すると、物語の細かな欠陥も気にならなくなってしまうからである。例えばこの続編は、悪役ともいえるレプリカント会社の社長と女秘書アンドロイドのキャラクター設定に一貫性が欠けている。特に女秘書の目論見がどこにあるのかは映画の最後まで不明瞭である。女秘書の不明確なキャラクター設定は、色々な要素を満足させるために起きたシナリオ上の消化不良である。一旦そのような不整合に気を取られると、大概の映画なら観る側がしらけてしまう。その場合にこの映画は、単なる近未来を舞台にした陳腐な終末世界SFにしか見えなくなってしまうことであろう。しかしそのような欠点があるとは言え、前作と同様にこの続編も原作を超克する出来になっている。原作では都市伝説的宗教に世界観の共有を図っているのは人間であった。それに対してこの映画で宗教に世界観の共有を求めるのはレプリカントである。そして都市伝説的宗教を超克し覚醒するのも、原作では人間であるデッカードだったのに対し、この映画ではレプリカントの主人公である。しかもこの映画での覚醒の仕方は、原作の非合理な不老不死の世界の直観ではなく、信念を貫いた先の無我の境地である。愛も希望も怒りも失望も全て燃焼して主人公がはかなく白く消えてゆくラストは、美しい絵に仕上がっている。映画として言うと、残虐な殺しのシーンがもっと少なければもっと良かったのだが、それらのシーンもレプリカント会社社長らに凶悪さを与えるための工夫だったのであろう。
(2017/11/29)
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