「続・荒野の用心棒」1966年 製作イタリア
監督 セルジオ・コルブッチ
主演 フランコ・ネロ
セルジオ・レオーネが作った「荒野の用心棒」が型破りな西部劇であったとすれば、セルジオ・コルブッチが作った「続・荒野の用心棒」は掟破りな西部劇であった。そもそもレオーネのマカロニ・ウエスタンは、アメリカ西部劇を志向して映画を作っていた。それに対してコルブッチのマカロニ・ウエスタンは、臆面も無くイタリア色を丸出しにして映画を作っている。「続・荒野の用心棒」が日本で公開された時の音声も、全てイタリア語であった。またこの映画は、耳を切り、手を潰す残酷描写や乱れ撃つ銃音と虐殺を展開するのだが、絵としても内容にしてもリアリズムになっていない。実のところ「続・荒野の用心棒」は、シュルレアリスムと呼ばれる方がはるかに似つかわしいマカロニ・ウエスタンの怪作になっている。そのように考えると、マカロニ・ウエスタン否定派が言うようにこの映画は、西部劇の体裁をとっているだけで、そもそも西部劇ではないと言うのが正しいかもしれない。
「荒野の用心棒」がファニングの早撃ちで悪党の群れを皆殺しにしたのに対し、「続・荒野の用心棒」は機関銃で悪党の群れを皆殺しにした。マカロニ・ウェスタンのファンなら誰しもが、この二人の作った映画の双方に思い入れを持っているはずである。しかし「続・荒野の用心棒」のインパクトは、「荒野の用心棒」が持つインパクトと全く違う。この映画は、独特の絵作りにこだわり、話の側を逆にその絵に合わせて構成するからである。映画は、雨の中を馬も無く鞍を背負い、棺桶を引き摺る主人公の後姿で始まる。そして最後の場面では、潰された両手で墓碑の十字架に据え付けた拳銃を残して、画面奥の昇り坂へと主人公が去ってゆく。このように始まりと終りだけを見ても強烈な絵作りにこだわっているように、この映画は観客を引き付ける設定を次から次に繰り出し、その絵作りに合わせて物語を進行させている。墓の前に佇む主人公に向かい、ヒロインは墓の主が誰なのかを尋ねる。主人公はヒロインに対し、そこに自らの体の半分が眠っていると答える。そしてさらに映画の観客に向かう形で、怒りをぶつけるように、自らの半分が死んだそのとき、自分はその場に居なかったと畳み掛けて答える。もちろんそのセリフは、愛する相手の死に立ち会うことのできなかった主人公の無念を表現している。ここでの絵作りと独白は、ヒロインでなくても、フランコ・ネロの瞳に吸い込まれるような魔力をもつ場面である。しかし驚くことにこの場面は、映画の話の進行に全くと言って良いほど関係が無い。そもそも冒頭の馬なしに棺桶を引き摺る絵にしても、映画の話の進行において特別な意味をもっていない。最後の決闘にしても、主人公どころか悪役の方も決闘に臨む意味が何も無い。このような粗捜しをするなら、この映画は全編にわたり突っ込み所を持っている。しかしこの映画についてそのような粗捜しをするのは、無意味である。この映画では、物語としての必然性が形骸化しており、映画全体があたかも一種の悪夢のごとく観客の前に展開しているからである。ちなみに2007年公開の三池崇史「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」は、マカロニ・ウエスタンのオマージュ作品なのだが、映画最後に音楽が始まる直前の何とも言えない空白、そして何処からともわからない地鳴りのような震動に続いて最後の音楽が噴出する場面は、「続・荒野の用心棒」の完全なパクリとなっている。またそれは、「続・荒野の用心棒」のマニアであるなら、思わず納得の笑みを浮かべてしまう場面でもある。しかしこのような絵や音の見事な間合いも、どの程度まで計算されたものなのかは、不明である。もしかすると「大菩薩峠」や「眠狂四郎」、または「宮本武蔵」のような日本の時代劇が持つ決闘後の虚無感に触発された可能性もある。この「続・荒野の用心棒」が主眼にするのは、ストイックな陰を持つ主人公の奇怪な運命を通して、主人公を美化することだけである。そしてこの映画は、見事にそれを成功している。
この映画が登場した時代は、重たくのしかかる過去を引き摺り、運命に翻弄されながら目的も無くさすらう主人公を数多く登場させた時代である。そして「続・荒野の用心棒」のジャンゴも、そのような主人公の一人である。それらの主人公を通じて作品が美化していた対象は、自らの過去に苦しみ、その陰を抱えて歪む時代精神そのものである。ただしその美化表現は、単なる自己憐憫に過ぎず、屈折した自己愛表現でもあった。とくにそれは、戦争への反省から戦後左翼運動が興隆した1960年代初頭の日本の感性であり、戦後共産主義運動がスターリン主義の超克を目指す新左翼運動を生み出した世相にも呼応していた。この感性は、もともと第二次大戦の敗戦国である日独伊の三国が共通に抱えた感性である。そして後にそれは、黒人解放運動に始まり、ベトナム反戦運動で揺れたアメリカの反体制運動と癒合することになる。ちなみにこのような自己憐憫の映画表現は、石原裕次郎や赤木圭一郎、小林旭などを主演にした日活アクションとして、実際にはマカロニ・ウエスタンより日本映画の方が先に作っている。ただし日活アクションは、マカロニ・ウエスタンと違い、ほぼ全く政治的ではない。しかしそこには自律する個人を主体にした世界が息づき始めており、自律するがゆえの苦悩と悲哀をそれらの主人公たちが体現していた。マカロニ・ウエスタンが登場する1960年代中盤になると、政治運動に限らず文化全体が自律する個人を主体にした世界に移行する。しかしこの頃には、西側世界における新左翼運動の暴力的変質は決定的となっていた。マカロニ・ウエスタンの登場は、この新左翼が無方向な暴力を繰り返し始める時代に合致している。このためにマカロニ・ウエスタンは、日活アクション以上に世界の文化的世相を体現した映画となった。ただしそれは、新左翼運動と同様に、将来的展望を持たず、底が浅く飽きられ易い文化でもあった。またそれだからこそマカロニ・ウエスタンは、時代の記憶として、1960年代後半を代表する映像文化たり得ている。
日本のマカロニ・ウエスタン・マニアにとって長らく「続・荒野の用心棒」の主題歌は、謎の存在であった。SUMIYAで入手できる外国版サウンド・トラック・レコードは、ロッキー・ロバーツの英語版主題歌だけであり、ベルト・フィアのイタリア語版の唄を、外国版レコードとして入手できなかったからである。筆者が浅草の映画館で観た「続・荒野の用心棒」では、確かに映画の主題歌はイタリア語であったし、国内のサウンド・トラック・シングルもベルト・フィアのイタリア語版としてのみ存在していた。もちろん映画本編もイタリア語で役者が全て会話をしている。結果的に筆者は、世界的に見ると英語版の「続・荒野の用心棒」が主流であり、その英語版の「続・荒野の用心棒」ではフランコ・ネロも英語でしゃべっているのだろうと推測していた。ところがかなり後になってイタリア文化会館で、配給版権が切れた「続・荒野の用心棒」や「ウエスタン」が久しぶりに公開されるとの話を聞いて、筆者が観に行ったときに意外な事実を知ることになった。このときの筆者の関心は、もっぱら日本公開時に削除された「ウエスタン」の未公開部分を観ることにあった。ところがそこで予期せずに観た「続・荒野の用心棒」は、ロッキー・ロバーツの英語版の唄で始まるものであった。そのために筆者は、てっきり本編も英語で話すのかと思いながら映画を観ていた。しかし実際には映画は、本編になってもイタリア語で役者に全て会話をさせていたのである。筆者の推測は、完全に裏切られたわけである。そしてそのとき筆者が直観的に理解したのは、映画配給元の東宝東和が日本の観客を騙したのだと結論である。と言うのも、東宝東和に限らず、日本の外国映画配給会社は、外国映画に独自の映画音楽を勝手に挿入し、それをサウンド・トラック・シングルとして国内に流通させるのを頻繁に行なってきたからである。有名なところでは、「ブーベの恋人」のサウンドトラックは戸川昌子が歌ったものであり、日本公開時の映画の中でも使われている。「マッドマックス」も日本公開時の映画本編の冒頭とエンディングに串田アキラが歌う主題歌が存在した。思い返してみれば、浅草で観た「続・荒野の用心棒」もエンドタイトルが出た後に、真っ暗な画面のまま歌が続いていたのを奇妙に感じた記憶がある。
最近になってインターネットでの「続・荒野の用心棒」のサントラ・レコードの記事を見て、ようやく筆者の推測が半ば当っていたことが判明することとなった。ベルト・フィアのイタリア語版サウンド・トラックは、東宝東和のでっち上げだったのである。もちろん実際に公開された映画ではベルト・フィアのイタリア語の歌が使われているので、それがサウンド・トラックであるのに嘘は無い。しかしこのくだらない事実の判明に半世紀を要するというのも不可解な話である。インターネットの記事によるとベルト・フィアの名称は間違いで、ロベルト・フィアが正しい名前だそうである。なるほどロベルト・ロッセリーニのように、もともとそれは「ロバート」のイタリア読みの名前だったのかもしれない。ところが雰囲気的に言えば、ロッキー・ロバーツの「ロバーツ」のイタリア読みが「ロベルト」のように思われる。しかしそれにしては姓名がマイク真木のごとく逆転しており、いまいち納得の行かない歌手名である。そもそも「続・荒野の用心棒」の国内サウンド・トラック・シングルのB面は、確か同じタイトル曲のカラオケ版だったではないか。そこまで考え始めると、イタリア語版サウンド・トラックを歌っていたのが本当にイタリア人なのかさえ疑わしく思えてくる。
なお「続・荒野の用心棒」のヒロインのロレダナ・ヌシアクは、筆者の趣味だけかもしれないが、マカロニ・ウエスタン女優では一番の美人である。
(2014/03/30)
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