「マッドマックス怒りのデス・ロード」 2015年製作オーストラリア 監督 ジョージ・ミラー 主演 トム・ハーディ シャーリーズ・セロン
1981年制作「マッドマックス2」は、フェリーニやパゾリーニの不思議映像をマカロニウェスタン風の近未来SFとして再現したアクション映画の枠を超えた傑作であった。そしてシリーズ3作目の1985年制作「マッドマックス/サンダードーム」も、その序盤は前作の勢いを継続しており、期待通りの出来で始まっていた。ただしその勢いは、序盤直後にいきなり失速する。結局3作目は、残念ながら出来の悪い映画に終わってしまった。この4作目は、3作目の不出来を帳消しにする快作である。ただしノンストップ・アクションが目まぐるしく最初から最後まで延々と続くのは、あまり頂けない。悪く言えばこの4作目は、「マッドマックス2」のアクション後半のヤマを若干シチュエーションを変えてリメイクしただけの映画である。当然ながら追撃戦の終点に辿り着くまで幕間を作れない以上、そのノンストップ・アクションは本当にノンストップで続かざるを得ない。とりあえず筆者は、見ていて疲れてしまい、戦闘シーンが早く終われば良いのにとも感じた。しかし戦闘シーンがもたらすカタルシスは、「エイリアン2」を彷彿とさせ、しかもマックスとフュリオサの二人の息の合った連係攻撃が、それをさらに倍加させている。この点の見どころは、実質的に孤独な戦いに終始した前作や他の一匹狼的アクション映画をはるかに超えている。この映画の良さは、昔の「リオ・ブラボー」や「夕陽のガンマン」、近作で言えば「キック・アス」のような戦う者の連帯感を描くところにあり、そこが一番感動的であり、また美しい。もちろんこれらの過去の映画の良い所取りは、ストーリーや人間関係の設定だけに留まっていない。この映画は、映像的にも「マッドマックス2」の影響下に生まれた宮崎アニメやゲームソフトの要素を自ら逆輸入しており、とても面白い。また砂嵐への突入シーンなどのダイナミックな大自然の驚異を絵に取り込んだことで、神話や冒険小説のような興奮が全編を貫いている。話の展開に絵作り、キャラクターデザインなど、これらのいずれの箇所を見ても、この映画は宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を彷彿とさせる。ただしストーリー自体は、「ウォーターワールド」の方が近い。もちろん「ウォーターワールド」にしても、「北斗の拳」と同様に「マッドマックス2」の後継にすぎない作品である。言うなればこの映画は、「マッドマックス2」以後の映像世界が積み上げてきた新しい挑戦を全て取り込み、新たな地平を望んだ野心作である。
マックスは理想世界への脱出を夢見るフュリオサを諌めて、青い鳥は自分の家にいると諭す。当然ながら映画は、圧政の転覆を単純に希求するに至る。しかし実際の困難は、その先にあるだろうと言うことはどうしても否めない。「風の谷のナウシカ」における牧歌的な社会設定と違い、暴力支配を前提にした世界を浄化するためには、そもそもの生産力の安定的発展が必要となる。この点で映画を見た後に筆者は、否が応でもフュリオサたちのその後を考えてしまう。 フュリオサたちが目指した自由世界の姿にかぶさるように、日本においても明治維新の100年以上前に地域社会が地域暴力を排して、民主社会を構築した時代がある。戦国期の中世日本では、天皇制の影響力低下に伴い、封建領主の地位低下が同時に進行した。結果的に日本中で起きた戦乱は、逆に封建領主を排除した暴力の空白地域を日本中に生むことになった。すなわち農民たちが、封建領主を追放し自ら地域を支配する合議制の登場である。ただしこの黎明期の民主主義は、雑賀衆のように意識的に民兵を組織した地域を除くと、次第に戦国大名の暴力支配に屈し、最終的に豊臣秀吉により根絶やしにされた。しかしこの戦国大名による生産者の武装解除は、支配者に支配の容易さをもたらすだけに留まらない。被支配者もまた、戦国大名に対して支配を要請せざるを得なくさせる。非武装の生産者は、戦国大名の職業的暴力に対してだけではなく、地域暴力集団の職業的暴力に対しても立ち向かう術を持たないからである。結果的に武装解除された生産者が求めたのは、あまたの職業的暴力の自然淘汰による暴力支配の一元化である。信長・秀吉・家康は、三代に渡ってこの期待に応えて市井における地域暴力集団による暴力支配を排し、封建秩序の全国体制を完成させるに至る。
戦国期の日本における民主主義をあえなく終焉させたのは、地域の合議制を存続させるための独自の暴力装置の未確立である。しかし共産主義的解釈で言えば、職業的な共同体管理者の成立を不可能にしたのは、生産力発展の不十分さである。すなわち余剰生産物の不足こそが、地域合議制における独自の暴力装置の確立を不可能にしている。しかも農民階級における生産力の発展は、労働者階級における生産力の発展と異なり、むしろ職業的な共同体管理者の成立を不要化させる役割を果たす。言い方を変えれば農民における国家は、必要となるタイミングを前にして既に死滅を開始するジレンマを抱えている。もちろんこれは、トロツキーが農民に対して自覚的な階級闘争の組織力を認めなかった由縁でもある。ちなみにトロツキーとの比較でレーニンが農民に自覚的な階級闘争の組織力を認めていたと言うのは、スターリンの流したデマである。農民に対する視点でトロツキーとレーニンの間にそれほどの差異は無い。このために地域暴力に対して農民が自律的に対抗する組織を得るためには、地域における統一的な宗教的権力の確立に頼らざるを得なかった。ただし実際にはその宗教的権力もまた、土俗的な地域暴力集団へと容易に転化する代物である。このような農民における階級闘争組織が抱える弱点から言えば、延暦寺のような中心的指導者を持たない雑賀衆が、信長や秀吉に徹底的に対抗し得たのは、歴史の奇跡に等しい。ただし雑賀衆がそのような自前の民兵力を組織できたのも、紀伊半島における貿易を通じた商業利益のおかげである。彼らもまた純粋な農民や漁民の集団ではなく、近代に勃興した商業的職人集団だったのである。一方で国家的悪の恐怖支配が、ほかの巨悪を封じ込めるための必要悪として現れることも多い。このときには国家的悪の一掃が、イラクやアフガンで見られたように、さらなる前時代的汚物の復活のタガを外す危険性も十分にある。これらが示すのは、生産力発展の基礎が不十分な社会では、個人の自由の発現はもともと困難であるし、またその脆弱な基盤には地域暴力のような旧時代の汚物も容易に復元されるという教訓である。当然ながらフュリオサたちの目指す理想世界の実現もまた、中世日本の民主主義が直面した同じ困難との対決を宿命づけられているわけである。
「マッドマックス/サンダードーム」の公開当時、筆者は「マッドマックス2」に匹敵する作品をそのうちジョージ・ミラーは作るだろうと思っていた。しかし気が付くと「マッドマックス/サンダードーム」の公開から20年以上も経過してしまった。メル・ギブソンも老け込んでいる。したがってもうマッドマックスの続編は無いんだなと筆者は思っていた。この筆者がインターネットでシリーズ4作目の日本公開を知ったのは、公開前日の一昨日である。そこで早速その公開初日の昨日、「マッドマックス怒りのデス・ロード」を観た。映画の出来は、観て疲れる点を除けば、嬉しいことに総じて期待通りであった。マックスとフォリオサおよびニュークスの三つ巴の絡みの描き方もかなり良かった。しかしそれでも見た後に何か違和感が残っている。おそらくそれは、映画におけるゲーム化した戦闘シーンのせいなのだろうと思う。この映画における敵は、「マッドマックス2」における強盗集団ではなく、所有を全面的に支配するカルト宗教的な全体主義である。マックスたち一行は、自らを守るためとは言え、支配者との戦争で敵を殺しに殺しまくる。もちろん相手は「エイリアン2」に出てくる化け物ではなく、人間である。圧倒的な少数派が、憎むべき多数派を殺しまくる図式は、映画とはいえやはり変なのである。フュリオサ一行には、よそ者のマックスと敵のニュークスを除くと、もともと男が一人もいない。フュリオサ一行に加わる途中の合流組も全て女性である。この人的配置は、逃亡者たちの大量殺戮の不自然さを粉飾するためのジョージ・ミラーの配慮だと考えられる。ただしこの違和感は、単純に筆者が若くないから感じるだけなのかもしれない。また筆者の場合、国家の正義を信じない習癖は、国家の不義を信じない習癖にもなっている。したがってこの違和感についての対処は、ルソーが考えたように、法が成立しない社会では自然法が正義を決定するのだと、筆者が映画を理解すれば済みそうである。一方でこの違和感を生む大きな背景に、世界における貧民革命の主体が、共産主義からイスラム原理主義へと自らの形状を変えたことも影響しているように見える。ペキンパーの「ワイルド・バンチ」がもたらした殺戮のエクスタシーも、60年代の世界的な左翼運動興隆を抜きにして説明できないのであろう。(2015/06/21)
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