唯物論者

唯物論の再構築

無防備都市

2013-04-21 01:15:26 | 映画・漫画

 「無防備都市」1945年 製作イタリア
           監督 ロベルト・ロッセリーニ
           主演 アルド・ファブリッツィ

 暴力は真実を変えられない。同様に意識も自らの基礎を真実に置くなら、暴力の前に自由であり続ける。この映画はそのような人間の尊厳を描いた不朽の傑作である。

 いかなる暴力も、真実を変えることはできない。教会がコペルニクスやガリレオに迫害を加えたところで、巨大な太陽が微小な地球を中心に回ることは無い。微小な惑星の方が巨大な恒星を中心に回る宿命は、人間の意識と無関係なのである。もちろん誰も地動説の真偽を、太陽系の外側から目視で検証したことは無い。しかし科学者は、物理と事実を通じて地動説を確信する。当然ながら科学者のそのような確信は、いかなる暴力によっても覆らない。科学者の確信を覆すためには、反証となる物理や事実の提示だけが有効なのである。一方で実は物理でありながら、物理として現れない真理が存在する。例えば現代先進国における明示的な身分差別の拒否、または同じ事だが、国家における法の平等がそれに該当する。
 法の平等は、実際には理念ではなく物理である。なぜならその平等理念を基礎づけるものは、不平等が国民各人にもたらす現実的な苦痛だからである。つまりその理念を基礎づけるものは、カントが考えるような先験的イデアではない。もしそのようなカント流解釈が正しいなら、ぶつけられた石が人間にもたらす痛みも、先験的イデアの一つに数えられてしまう。あるいはそのような痛みは、肉体の事実ではなく、単なる先験的イデアの現れとなってしまう。唯物論から見ると、先験的イデアとは出所不明の宗教的信念にほかならない。議会制民主主義を実現した国民、またはそれを望む国民は、民主主義の礎を作った人たちに対して敬意を持つ。しかしそれは、出所不明の信念を根拠にしたものではない。それは、出所不明の信念を根拠にして、科学者が仮説に確信をもつことが無いのと同じである。真理を実現するために地の塩として消えた先人に対する敬意とは、殉教するカルト信者に対する感心とは別物である。それは、理不尽な暴力に苦しむ一人一人の個人の現実生活に根差している。

 国家における国民に対する法律適用の平等は、現代の議会制民主主義を構える国家において真理とみなされている。もちろん資本主義におけるその平等は、全国民に対する義務の均等を実現するだけに留まり、全国民に対する権利の均等を実現するものではない。そもそも経済システムとしての資本主義とは、権利の均等に敵対するものである。したがって現代先進国においても、暗示的な身分差別、または国家における人倫の不平等は、むしろ前提事項である。それでも義務の均等の実現は、それ自体が権利の均等を可能にするものであり、実際に底辺層の生活向上と中間富裕層の零落を通じ、権利の均等が実現されてきた。しかしこの法の平等という真理は、現代世界においてのみ通用する真理にすぎない。資本主義が登場する以前の世界においてそれは、極端に言えば、虚偽であった。
 生活材の生産力の発達が不十分で、生活が不安定な社会では、身分制度は一種の必要悪として現れる。というのも、余剰生産物の発生とともに登場した国家、とくに戦国期の国家は、自らの存続において迅速な国家意志の決定が欠かせないためである。世襲的身分制度とは、その最も原始的な国家意思決定システムなのである。そのような社会では、国家の構成員全体が一族の生活保全のために、むしろ身分制度を希求する。当然ながらその身分社会では、法の平等とは単なる危険思想にすぎない。ところが強力になった封建的支配者は、国の内外にいる敵対者を滅ぼし、国家を安泰にするほど、自らの支配者としての存在意義を失う。このような封建的支配者の存在の無意味化は、身分制度を不要にし、法の平等を危険思想から免除する基礎を為す。そして国家主権が国民に移るにつれて、実際にこの危険思想が正義に転じることになる。ただし“国家主権が国民に移ること”と“法の平等が正義に転じること”は同義であり、この説明は無意味である。それゆえ唯物史観は、生産力の発展が国家主権の移動と民主主義の実現を可能にしたのだとみなす。生産力の発展に伴なって、被支配者の生活が安定し、支配に反逆する力を得るなら、さらに封建的支配者が悦楽に溺れ、自らに与えられた天命を忘れ、民衆と敵対するなら、旧時代における身分制度は当初の意義を完全に失い、被支配者の憤怒と支配者の頽廃の両面から崩壊を始める。いずれにせよ身分制度によって勤労者を不労者に隷属させる限り、支配される勤労者は、自らに与えられた理不尽を納得できない。封建的支配者が国家支配者の地位から滑落することは、彼らの世界史的宿命なのである。
 封建体制の議会制民主主義への移行に伴ない、封建的身分制度が支えた国家主義も一旦終結する。しかし議会制民主主義においても、国家が対外的危機に直面するなら、国家主義は覇権的な民族主義に衣装を替えて復活する。ただし旧時代の封建体制における国家主義が、封建的支配者への忠誠として現れたのに対し、議会制民主主義における国家主義は、民族共同体への献身を装って現れる。日独伊の軍国主義は、対外権益の擁護者、そして共産主義の最強の敵として産業界に育成され、対外的危機を自作し愛国的排外主義を自演することで国民の圧倒的支持を得た。そしていずれの国家主義でも、その最大の敵は自由な言論であった。なぜなら権力から自由な報道は、真実だけに忠実であり、国家主義者の自作自演が虚構の観念に過ぎないことを、遠からず暴露するからである。このためにいずれの国家主義も、議会に多数者として君臨した後、自由な言論に対して共産主義のレッテルを張り付けて弾圧すると、最終的に議会制民主主義そのものを廃止した。また実際に当時の国家主義に対抗する陣営の筆頭は、共産主義者であった。その一方でファシストは、かつて自らの主人であった産業界をも、自らの支配下に敷いた。つまりファシズムの最終形は、民主主義ではなかったどころか、資本主義ですらない特異な封建体制だったわけである。このような国家主義の最終的な到達点は、産業の軍隊化を通じて巨大な収容所と化したロシア共産主義と酷似しており、国家資本主義または国家社会主義と呼ばれるべき体制である。ただし同じ全体主義体制とはいえファシズムは、退行した資本主義の一つの末路として生まれたものであり、失敗した共産主義のスターリニズムと区別される。しかし国家主義や共産主義と付ける看板が違っていたとしても、国民の全てを奪う収奪者として国家の支配層が現れる点で、または国家的な資本家として国家自体が現れる点で、両形態の体制の間に差異は無かった。

 映画「無防備都市」が放ったメッセージは、人間存在の本質が自由にあるという宣言である。そしてこの映画の衝撃は、拷問死を遂げたレジスタンス指導者に対する神の福音の形で、その宣言を表現したことにある。暴力が個人の信念を変えることはできないのは、ガリレオでなくとも、人間ならおそらく誰しもが知っている。例え恐怖により口をふさがれても、人間は心の中で自らの信念を叫び続けるからである。人間の自由に対するこのような理解は、自由に敵対する冷酷な独裁者においても共有されており、むしろその理解が独裁者の猜疑心をさらに掻きたてる。だからこそスターリンは、口先の改悛や恭順を信じず、同志たちを片っ端に処刑した。しかし旧時代においてそのような信念の力の源泉は、どちらかと言えば、宗教を中心にした観念論にあるとみなされていた。殉死は宗教家の特権であり、例え共産主義者が殉死しても、観念論者はその殉死を論理不整合として無視し続けた。つまり観念論者は、信仰の欠如を理由に、差別しながら個人の尊厳を擁護したのである。ところがこの映画は、神の名において唯物論者に天国の祝福を与え、そのことをもってファシズムを糾弾した。つまりこの映画は、むしろ積極的に無神論者に対して、個人の尊厳を擁護したわけである。もちろん監督ロッセリーニが共産主義者であることからすれば、このような無神論者に対する賛歌自体は、驚くに値しない。しかしそのことがファシズムを終焉させた戦後世界において持った意味は、個人の尊厳の選別に対する拒否である。もちろんそれは、時代の覚醒者において、偽りの信仰に対する拒否でもあった。明らかにそれは、個人の尊厳に対する神の役割の終焉宣言だったのである。つまりこの映画は、個人の尊厳を神の加護から解放し、人間の名において擁護するという人間中心主義の宣言なのである。そしてこの映画に続くが如く、第二次大戦後の世界に人間中心主義を謳ったサルトルらの実存主義が席捲した。この映画が表現した思想、およびこの映画が登場した世界史の位置を見たとき、いかにこの映画が公開時に世界に衝撃を与えたのかは容易に推測できる。それどころか、映画制作後半世紀を超えた現在にあっても、この映画は衝撃的である。それは、個人の尊厳を踏みにじる虚偽がいまだ世界に蔓延し、日常生活の周辺に徘徊しているのを、我々自身が知っているためである。そしておそらくこの映画は、そのような虚偽が世界に存在する限り、不滅の輝きを放つ名作なのである。
(2013/04/21)


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