村上春樹さんのノーベル賞はどうか。
TVに受賞の臨時ニューステロップが入るのを楽しみにCSでTV観戦してる。
村上春樹さんがエルサレム賞を受賞されたとき、受賞式典でのスピーチに感動した。もう、7年もまえのことになる。ちょうどその時期、イスラエルがガザ自治区への激しい攻撃を行っていたため、受賞や式典出席を反対する声が村上さんに届いていた。
それでも、あえて村上さんは授賞式へ出席する。そして、ガザ自治区への空爆命令を発した人物らを前にして、流暢な英語で感動のスピーチを行った・・・
真実をお話しします。
日本で、かなりの数の人たちから、「エルサレム賞授賞式に出席しないように」と言われました。 出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。
これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。 国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、 つまり子どもやお年寄りであったとのことです。
受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。
このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、 授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか。 圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。
もちろん、私の本がボイコットされるのは見たくはありません。しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。
この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。 おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。
「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、 そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。
これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。 私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。
というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。 自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。 皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。
ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。 紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、 私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」ということです。
そうなんです。「その壁がいくら正しく、卵が正しくない」としても、私は卵の側に立ちます。 他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。
おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか? いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。 爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。
これがこの暗喩の一つの解釈です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。 私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。
そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。
その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。
私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。
父は元教師で、時折、僧侶をしていました。
京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。
ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。
父が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。
しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。
今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。
私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。
もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。
「システム」はそういったものではありません。
「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。
「システム」に自己増殖を許してはなりません。
「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。これが、私がお話ししたいすべてです。
「エルサレム賞」、本当にありがとうございました。
私の本が世界の多くの国々で読まれていることはとてもうれしいことです。
イスラエルの読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。 私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。
今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。
ありがとうございました。
村上春樹さんのスピーチの、「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つということです。そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵の側に立ちます。」という部分に、電流が走るような感動を覚えたことを思い出す。
「卵の側に立ちます」と言う人は多い。だが、「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵の側に立ちます。」と、言い切れる人はなかなかいない。
世の中の「正しい」か「正しくない」かは、常に多数者が決めてきたし、今でもそうだ。だから、マイノリティーの少数者の側に正義や真実があったとしても「正しくない」ことにされてしまう。
コロンブスの「アメリカ大陸発見」もその典型的な例だ。すでに先住民族が存在している真実があるのに、「新発見」だと多数者が歴史を記せば、それが「正しい」ということになってしまう。
だからこそ、村上春樹さんの「正しくないとしても卵の側」に立つという言葉は、実に深いものがある。
ガザへの空爆を続けているイスラエルの首脳部を前に、堂々とスピーチをした勇気もさることながら、「正しくないとしても卵の側に立つ」と、そこまで言い切った村上春樹さんに、感動せずにはいられなかった。
村上春樹さんのノーベル賞の受賞を熱く願っている。