旅日記①(バルセロナ)
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スペイン&ポルトガルの旅日記を書いておく!
WEB上から地図を拾ってお借りした。
観光コースが殆んどきまっているらしく地中海沿いを走る。
成田・ロンドン経由→バルセロナ→バレンシア→
ここから内陸へクエンカ→マドリッド→トレド→ラマンチャ地方
→グラナダ→セビージャ(セビリアorセビーニャ)→ポルトガルのリスボンへ→ロンドン経由成田
忙しい日程だ!
夏に来ると42度Cは覚悟しなければ成らない!らしい。

添乗員さんが世界遺産が多い場所で歴史と建物説明には是非に
”レコンキスタ”は知っておいて欲しいと言っていた。
イヤホーンガイドから流れる音声は10M以上離れるとノイジーだ。
何?”レンコン切った”か?などと馬鹿な事を言っている。
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●概要は
キリスト教徒による、イベリア半島のイスラム教徒からの解放運動。
711年のイスラム軍の侵攻後始まり、
1492年のグラナダ陥落で完了した。国土回復運動。
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私のバルセロナの知識としては


ガウディーのサグラダファミリア(聖家族教会)と
メッシのいるサッカーのFCバルセロナである。
そのほかには耳学問で
最近この地区(スペイン:カタルーニャ州・バルセロナ)
カタルーニヤの話題をTVで知った程度かな?
~~~~~~~~~
1933年末のスペイン総選挙では、右派が勝利した。
翌1934年右派のアレハンドロ・レルーの反動的組閣人事が発表されると、
ジャナラリター・デ・カタルーニャ首班のリュイス・クンパニィスは、
10月6日ジャナラリター庁舎のバルコニーで「カタルーニャ共和国」の成立を宣言した。
1936年、バルセロナで人民オリンピックが開催される数時間前にスペイン内戦が勃発、
フランシスコ・フランコ率いる反乱軍が3年かかってスペイン第二共和政政府を倒した。
内戦後のフランコ時代には、
カスティーリャ語以外の言語の公での使用が大幅に制限され、
カタルーニャ愛国主義と結びつく公の活動の類は禁止された。
例として、アナーキズム、社会主義、民主主義、共産主義に関する本を出版したり、
単に公の場でこれらの思想を議論することも禁止された。
この抑圧は、政府機関や公開行事におけるカタルーニャ語の使用禁止となって現れた。
カタルーニャ語での民俗行事・宗教行事は再開され、大目に見られていた。
マスメディアでのカタルーニャ語使用は禁止されていたが、
1950年代から劇場内で使用が許可された。
また、独裁政権下でもカタルーニャ語での出版は続けられた。
フランコの没後1978年に新憲法が制定され、
新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章において、
カタルーニャ語はカスティーリャ語とともにカタルーニャ自治州の公用語とされた。
2006年6月18日、自治権の拡大を問う自治憲章改定案への住民投票が行われ、
74%の圧倒的多数の賛成で承認された。
改定案は、独立ではなく地方分権を拡大するものであった。
同州は、税、司法、行政の分野でそれまで以上の権限を持つことになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★つい30年前程まえまではこの地区はカルターニヤ語が禁止されていたんだ。
話によると、現在、独立運動が盛んになっているらしい。しかし軍事力がない!
今、子供が習う言葉はカタルーニヤ語が第一で第二国語がスペイン語らしい。
街には州旗が至るところに掲げられ、国旗はこの地区にはない。


だから”FCレアルマドリード”とFCバルセロナは同じ国にも関わらず
サッカーの試合に負けられない背景を背負っているんだ!
知って試合を観ると面白いかも!
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早速世界遺産に
サグラダ・ファミリアは聖家族贖罪教会(カタルーニャ語:Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つバルセロナにあるカトリックのバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。
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★説明によれば 宗教画はあるが、これは彫刻と建物で宗教を表現しているんだそうだ。
この地区はガウディーの設計した建物があっちこっちにあって使われている。
工事中を見せて観光客を呼んでいる稀有な建築物だ?
なお日本人の外尾氏の名前も有名だ。








正面の彫刻





裏側



内部(凄い!信じられない構造)ステンドガラスが全部入る予定だそうでらる。














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見学には最低2時間は必要である。シーズンオフで空いていたらしいが
私は混雑している様に感じた。良い時来たんだと思った。
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スペイン&ポルトガルの旅日記を書いておく!
WEB上から地図を拾ってお借りした。
観光コースが殆んどきまっているらしく地中海沿いを走る。
成田・ロンドン経由→バルセロナ→バレンシア→
ここから内陸へクエンカ→マドリッド→トレド→ラマンチャ地方
→グラナダ→セビージャ(セビリアorセビーニャ)→ポルトガルのリスボンへ→ロンドン経由成田
忙しい日程だ!
夏に来ると42度Cは覚悟しなければ成らない!らしい。

添乗員さんが世界遺産が多い場所で歴史と建物説明には是非に
”レコンキスタ”は知っておいて欲しいと言っていた。
イヤホーンガイドから流れる音声は10M以上離れるとノイジーだ。
何?”レンコン切った”か?などと馬鹿な事を言っている。
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●概要は
キリスト教徒による、イベリア半島のイスラム教徒からの解放運動。
711年のイスラム軍の侵攻後始まり、
1492年のグラナダ陥落で完了した。国土回復運動。
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私のバルセロナの知識としては


ガウディーのサグラダファミリア(聖家族教会)と
メッシのいるサッカーのFCバルセロナである。
そのほかには耳学問で
最近この地区(スペイン:カタルーニャ州・バルセロナ)
カタルーニヤの話題をTVで知った程度かな?
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1933年末のスペイン総選挙では、右派が勝利した。
翌1934年右派のアレハンドロ・レルーの反動的組閣人事が発表されると、
ジャナラリター・デ・カタルーニャ首班のリュイス・クンパニィスは、
10月6日ジャナラリター庁舎のバルコニーで「カタルーニャ共和国」の成立を宣言した。
1936年、バルセロナで人民オリンピックが開催される数時間前にスペイン内戦が勃発、
フランシスコ・フランコ率いる反乱軍が3年かかってスペイン第二共和政政府を倒した。
内戦後のフランコ時代には、
カスティーリャ語以外の言語の公での使用が大幅に制限され、
カタルーニャ愛国主義と結びつく公の活動の類は禁止された。
例として、アナーキズム、社会主義、民主主義、共産主義に関する本を出版したり、
単に公の場でこれらの思想を議論することも禁止された。
この抑圧は、政府機関や公開行事におけるカタルーニャ語の使用禁止となって現れた。
カタルーニャ語での民俗行事・宗教行事は再開され、大目に見られていた。
マスメディアでのカタルーニャ語使用は禁止されていたが、
1950年代から劇場内で使用が許可された。
また、独裁政権下でもカタルーニャ語での出版は続けられた。
フランコの没後1978年に新憲法が制定され、
新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章において、
カタルーニャ語はカスティーリャ語とともにカタルーニャ自治州の公用語とされた。
2006年6月18日、自治権の拡大を問う自治憲章改定案への住民投票が行われ、
74%の圧倒的多数の賛成で承認された。
改定案は、独立ではなく地方分権を拡大するものであった。
同州は、税、司法、行政の分野でそれまで以上の権限を持つことになった。
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★つい30年前程まえまではこの地区はカルターニヤ語が禁止されていたんだ。
話によると、現在、独立運動が盛んになっているらしい。しかし軍事力がない!
今、子供が習う言葉はカタルーニヤ語が第一で第二国語がスペイン語らしい。
街には州旗が至るところに掲げられ、国旗はこの地区にはない。


だから”FCレアルマドリード”とFCバルセロナは同じ国にも関わらず
サッカーの試合に負けられない背景を背負っているんだ!
知って試合を観ると面白いかも!
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早速世界遺産に
サグラダ・ファミリアは聖家族贖罪教会(カタルーニャ語:Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つバルセロナにあるカトリックのバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。
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★説明によれば 宗教画はあるが、これは彫刻と建物で宗教を表現しているんだそうだ。
この地区はガウディーの設計した建物があっちこっちにあって使われている。
工事中を見せて観光客を呼んでいる稀有な建築物だ?
なお日本人の外尾氏の名前も有名だ。








正面の彫刻





裏側



内部(凄い!信じられない構造)ステンドガラスが全部入る予定だそうでらる。














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見学には最低2時間は必要である。シーズンオフで空いていたらしいが
私は混雑している様に感じた。良い時来たんだと思った。