皆さんドカンとやって連休後半に突入してください。お待ちしております。
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信濃三十三観音札所めぐり 公式サイト
令和6年4月現在の蓑堂観音堂参道
・みのどうトンネル脇からの本来の参道であろう一帯は、身の丈の笹薮にミッシリ覆われて歩行できない。一旦藪に入ったら最後、身動きがとれなくなる。
・この笹薮エリアは延長100mほどだろうか。それを抜けるとはっきり道とわかる広葉樹林の遊歩道的な山道となり、尾根に出ると大正天皇「御即位記念碑」がある。
・尾根は幅広く、山道は尾根向こうの標高627mのピーク、米子城址に通じる。
・尾根が岩場に差しかかったところに三界萬霊の石塔、その奥の岩上に石仏(念仏供養塔)がある。いよいよ岩登りのはじまりである。
・参道の標識は無く、歩けそうなところを歩いていく。ところどころ岩塊が階段状に削られ、観音堂への道標となるが、鎖やロープもなく、捕まる樹木も少ない。
・よそ見したら落ちる。とても「べべ出し」などと呑気に妄想する状況でない。
観音堂は当然「もぬけの殻」。でも、これが歴史を物語る。
・お堂は基礎部分が地震の揺れに耐えられず崩壊し、傾いた模様。
・崩れた基礎コンクリートに、施工時に混入された多量の瓦の欠片が見られる。人力施工は大変だったでしょうが、脆過ぎた。
・落下物、倒壊物で頭部を無くした石仏が哀れなり。下の集落に落石被害が及ぶのを食い止めたのだと思いたい。
・完全倒壊でなく幸いでしたが、余震の中での本尊十一面観音の救出は、大きな緊張が走ったことでありましょう。
・修験場の雰囲気を醸し出す岩尾根の先には米子不動。加えて断崖絶壁上から見る下界に、いにしえの人はここに補陀落浄土を重ねたか。
・参道にある石碑、石仏
(上左)みのどうトンネル脇、参道入り口「蓑堂山九番 観世音 寛政三年四月米子村」(1790)
(上右)尾根鞍部:「御即位記念碑 大正四年十一月十日 米子青年會」(1915)
(下左)尾根が岩場に差しかかったところに灯篭型の三界萬霊円柱。左奥の岩上に石仏(念仏供養塔)
※三界とは、「仏教でいう過去・現在・未来を示す」とのこと。
(下右)念佛供養塔「下米子村 明和三年 念佛供養塔 二月吉日」(1766)
・3月にチャレンジした東尾根を塩野地区から眺めたら、明らかな凹部が。(写真右が観音堂方向。)
こりゃ橋かけるか、梯子かけるか、本格的なクライミング装備でないと絶対に超えられないね。
◇盛り場:March Of The Mods (Club Ska×Gang Stage Reunion@荻窪 Top Beat Club, R6.3.23 sat)
風呂はイイがイビキで眠れないカプセル
・イベント二週間前の時点で宿をネット検索すると、23区内、埼玉県高崎線沿線のホテルは2万から、カプセルですら9980円。相変わらず絶望的なネット予約状況ではあったが、荻窪から電車で30分ちょいの駒込に、素泊まり1泊5000円のカプセルホテルがとれた。
・JR荻窪22:30~新宿(山手線)~駒込23:10
・盛り場で延々6時間ダンシングした後は、電車に乗車したら即、座りたいのだが、今回は池袋までは立ち。
・23区内の宿がとれない故に「夜遊びパーク&ライド」も念頭に置いているが、埼玉県熊谷あたりの駐車場付ホテルまで1時間以上かけて戻るのは現実的でない気がしてきた。即風呂・即布団がいい。
・カプセルは川越の会社にいた30年前、仕事仲間とバカ飲みした際に帰るのが面倒で頻繁に使っていた。以来である。大浴場で足を伸ばしてゆったり、サッパリ。これですな~。ここまでは良かった。
・カプセル部屋はイノシシ小屋か豚小屋にぶち込まれたかの如き、シャレにならない爆音イビキが響き渡っており、熟睡ならず!><。寝られたのは1:00~3:00の二時間か。夜行バス並の睡眠時間であった。翌朝は新幹線で9:00前に帰宅したが、眠くて結局一日潰れた。
・今後カプセル、相部屋の宿は使うことはないでしょう。泊まりは間仕切りされた個室部屋に限る。
駒込の早朝、日光御成道(にっこうおなりみち)「駒込妙義坂子育地蔵尊」
・5:00に宿を後にして、駒込で5:30から営業しているという蕎麦屋で朝食。朝早くから頑張ってますね。
・店を出て横断歩道を渡ると、駒込を案内しているyoutubeで見た「駒込妙義子育地蔵尊」がありました。
・昭和8年にここで交通事故で亡くなってしまった仲良し女子小学生の供養碑が哀れであります。その横に本尊の子育て地蔵、如意輪観音の石像が並んでいます。
江戸時代の駒込妙義坂周辺の絵図が良いです。地蔵堂の前では、絵図の江戸の田舎風景が被さってくるような、昔っぽい雰囲気を感じました。
・地蔵堂の横に、この日開催される町のお花見会の告知張り紙がありました。駒込は住民生活が感じられ、スッキリとしてイイところです。
信濃三十三観音札所めぐり 公式サイト
・信濃三十三観音札所霊場 第九番蓑堂(べべ出し観音)
・御詠歌「井の上や よなよなた来る みのんどう 雨は降るとも 身をばぬらさじ」
・本尊:十一面観音菩薩坐像
・蓑堂山の傾いた観音堂が無事存在しているか、10年振りに様子をうかがいに行った。(令和6年3月2日)
・位置図(国土地理院)
・第九番の蓑堂山観音堂は、須坂市米子の蓑堂山の岩尾根にある。観音堂は昭和40年の松代群発地震で傾いてしまい、以来、本尊の十一面観音坐像はふもとの納札所(樋口さん宅)に安置されるようになったという。
・群発地震以来、荒れたままと言われる観音堂参道。現在は蓑堂山の山裾一帯に張り巡らされた電柵の向こうに閉ざされ、遥拝するのみ。
・柱状節理の露頭に松が連なる蓑堂山の尾根は、米子の集落から一目に収めると結構な壮観。スペインカタルーニャ州、モンセラットを彷彿させる。お堂は姿を留めており、よく見える。
・今も菅笠に白装束で観音堂への岩尾根を伝う巡礼者が見られたなら、更に絵になる景色なのに・・・。
・令和6年3月2日現在の蓑堂山観音堂。「地学で巡る信濃三十三番札所」(しなのき書房刊.R2)に、より鮮明な観音堂の拡大写真があります。
・お堂は傾いた時には築10年を経過していたという。昭和30年頃に建てられたものと推測する。コンクリート製のようである。
・ぶっとい柱状節理をも揺るがした群発地震。「この地方において松代地震の影響はまことに大きかったようである・・・その辺を見ると、2mほどの大きな石が畑の中に九つも並んでいた。これも地震の置き土産だと言って、そこにいた農婦が笑いながら説明してくれた」(「こころの旅路信濃三十三番札所」藤木勇三著:コロニー印刷刊.S49)
・地理院地図に参道が記されている。蓑堂山の尾根に出てから、標高差30mの急峻な登りの先に観音堂がある。参道は石を削った階段状で、鎖場もあるという。
「ベベ出し観音」と呼ばれた由縁:「下着を穿く概念が無い」着物の時代の参道風景を想像。
・モンペもパンツもない着物の時代、女衆はどうやってゴツゴツの岩だらけの険しい参道を往復したのか。頑丈な手すりが付いているなら、それにしがみついて往復できたかもしれないが…。
・着物の時代、女性は着物の下には腰巻を巻いていただけという。田植えの時期には田の神様が喜んだ、という昔話は日本中にある。
(安曇野の例:大正時代まで野良着も長着に腰巻だった。安曇野市豊科郷土博物館「私の野良着」PDF3ページ参照)
・観音様まであと少しのところで、思いもよらぬ険しい岩場を前にした女性は、覚悟を決めて着物と赤い腰巻をひょいと捲り上げ、田植えの姿よろしく岩場を這いつくばったのである。・同行の男性は尻端折の褌姿。女性が岩場を登る時には尻を支えてやり、降りる時には体勢を崩しても受け止められるよう、下で構える。その時!男性の視界にちらついたものは何だったであろうか。・着物の時代には「見えた」のである。これが、この札所が「ベベ出し観音」と伝わる由縁だ。この素晴らしいいわれをもたらした参道が、今は電柵に閉ざされている事が本当に惜しい。
東の尾根から観音堂を目指すが、崖に突き当たりあきらめる。
・写真②のとおり、観音堂の東側に伸びる岩尾根はアップダウンの連続である。
・幅が狭く、切り立った岩尾根(※ナイフリッジ)の周囲には掴まるものがない。樹木も、ロープや鎖もない。迂回路もない。岩場はよじ登る時より、降りる時の方がはるかに緊張する。掴まるものがなければ立往生するか、滑落するかしかない。
・用心して進むも、深く切り落ちた崖(※キレット)につき当たって万事休す。これ以上前進する術なく、引き返した。
・登攀(※)に熟練し、クライミングの本格装備一式が用意できる人以外は、東の尾根からお堂に辿り着くのは絶対に不可能。(登攀※とうはん:岩壁や氷壁の登り降り)
・観音堂に立って着物の時代に想いを馳せたかったが叶わず。再び蓑堂山を調べているうちに、米子城址の存在を知った。
・尾根岩頭部の風化防止のモルタル吹付はいつごろ行われたのでしょうか、蓑堂トンネルの改修と同時期かもとの説を見たことがありますが・・・。
(令和6年3月5日 記)
信濃三十三観音札所霊場 公式サイト
小田切八景 七つ石の落雁(らくがん)
「秋風に吹きおくられて遠つ人 常世のかりの声ぞ落ち来る」
馬神の七つ石~小田切の人達が大切にしているスポット
令和6年2月18日(日曜日)最高気温18℃ 半袖
・2/5に大雪があった後に降水なし、一週間以上気温15℃超え(2/13~2/19)という、温すぎる気候。
・国道19号~平和観音~七ツ石までの地図上の激坂(市道小田切39号線)が、自転車で上るに相応しい道なのか確認に行った。
・家から平和観音(新橋平和観音)の間は自転車、平和観音からはTシャツで山歩き。西明寺の裏の名無し山登頂も予定し、冬用トレッキングシューズをリュックに背負う。
・山は下界の視通が最良の時期。平和観音までは根子岳をバックに、犀川と小市橋の眺望がある。それより上は木々に遮られ、閉ざされた空間。裾花凝灰岩の白土斜面の山中となる。
・道はコンクリート舗装の激坂で、どうしてもこの山道を自転車で行きたければ行きなさい、てな道。
・25分歩くと道の分岐があり、この地で馴染みのタイル貼りの洗面台「小田切八景の歌碑」に気付く。歌碑を囲む7つの巨石があり、これが「七ツ石」であった。
・「秋風に 吹きおくられて 遠つ人 常世のかりの 声ぞ落ち来る」(秋風に 吹き送られて 遠つ人 とこよの雁の 声ぞ落ち来る)
・雁には「遠つ人」という枕詞があり、雁を「遠く旅する人」に喩えている。
・古の人は、秋空に隊列を組む雁の姿に常世の国(古代日本の理想郷)から飛来する神の使者を見ていたという。
・私は「遠つ人」と知らず、「遠い人」と読み、常世とは仮の世、無常の現世でないところ、ならば死別した人を思い起こす歌か、と現地で考えたが、調べたらやや違っていた。
・「小田切八景」の全ての歌は、明治32年(1899)に長野県歌「信濃の国」を作詞した、浅井洌(あさいきよし:長野県師範学校教諭)先生が詠んだものである。何が書いてあるか、どういう情景を詠んでいるのか、わからなくてもじっくり考えるが良い。
・七ツ石から市街地方面を写真に収めようとしたが、うまくいかない。上の「小田切の人達が大切にしているスポット」リンクのPDFにある開けた風景は見られない。
・七ツ石から左へ折れ、市道小田切33号線を10分歩くと吉窪古墳群(3号、4号)がある。立札がありすぐわかる。
・吉窪古墳群から10分。吉窪城址へ折れる道を過ぎると、西明寺が見えて来る。平和観音からここまで3.5㎞、45分。
・吉窪城址には三角点があるが木が茂り、開けた眺望ではない。城跡への陽当たりのない道中に江戸時代の墓石が並ぶ。(今回立寄りなし)
・西明寺にて本尊千手観音拝観。陽だまりの境内で冬用トレッキングシューズに履き替え、裏の名無し山へ。道らしきものは途中で消え、山頂の方角を確認しながら強引に斜面を登る。斜面は一面に落ち葉が積もり滑る。
・15分で登頂。北方向の鞍部に、小屋が見える。そこには「秋葉山正一位大権現」の石碑と、空になった木製の祠が並んでいた。
・尾根づたいに進むと七二会・陣馬平山への眺望が開けて、再び小田切39号に出る。平和観音に戻るまで徒歩で2時間だった。
・小田切や七二会の坂は自転車で上ると厳しいのだが、歩いてみたらそうでもない。西明寺、塩生の巡礼桜(エドヒガン)などは、車がなくともR19小市上町バス停からポイっと歩いて行ける。