令和6年1月14日(日)
万徳寺発(波志江SIC)10:15----曹源寺着(太田桐生IC)10:45
国指定の重要文化財、さざえ堂・三匝堂(さんそうどう)の上州三十三観音札所霊場第7番、曹源寺へ。
上州三十三観音霊場の一覧
当札所の概要 曹源寺さざえ堂 ウエブサイト
曹洞宗 祥寿山 曹源寺:文治3年(1187)開基
場所:群馬県太田市東今泉町165
本尊:魚藍観世音菩薩
御詠歌:そうげんの一滴湧いて今いずみ こころの赤をあろう池哉
※禅語「曹源の一滴水」にかけている。
(東上州)新田秩父三十四所 第24番(宝暦3年:1753年)
上州三十三観音札所霊場 第7番(平成11年:1999年)
西国・坂東・秩父の百観音札所巡礼が叶わぬ庶民のために造られた右繞三匝さざえ堂
・右繞三匝(うにょうさんしょう)という、仏に対して右回りに3回まわる礼式により、堂内に配した西国・坂東・秩父の百観音の写し木造仏を巡る。
・螺(さざえ)堂は螺旋階段で堂内を昇降することからつけられた呼び名。
現存最古(級)のさざえ堂
・曹源寺は、新田氏の祖、義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基との伝承。
・源氏の嫡流と言われる新田氏との縁が深く、大名、幕府の庇護もあり、この地方の名刹となる。
・天明元年(1781)から13年かけて、それ以前のいつかの火災ですべて焼失された堂舎の再建が行われた。この時にさざえ堂も造立された。(「上州のお寺とお宮」寺院編:上毛新聞社出版局(S53)より)※曹源寺火災焼失=さざえ堂着工=寛政5年(1793)説も見られるが、わからない。札所開創以降に被災のはずである。
・さざえ堂の完成時期は寛政10年(1978)といわれ、堂内の説明板は堂内最古である寛政12年(1800)の参詣者の墨書跡が「建物が存在した確実な証」と語る。
・さざえ堂は現在、嘉永3年(1852)に焼失した本堂の代わりとなっている。
曹源寺の他に現存するさざえ堂(計6堂)
・円通三匝堂(福島県会津)
・身院百体観音堂(埼玉県本庄市)
・蘭庭院六角堂(青森県弘前市)
・長禅寺三世堂(茨木県県取手市)
・西新井大師(総持寺)(東京都足立区)
最古のさざえ堂は、江戸・本所五ツ目にあった五百羅漢寺。寛保元年(1741)造立。廃仏毀釈で取壊しに。
・五百羅漢寺のさざえ堂は、葛飾北斎『富嶽三十六景』、江戸名所図絵に登場する人気の場所であったが、弘化年間(1844-48)の暴風雨や安政の大地震(1855)等で大破荒廃し、修繕されぬまま廃仏毀釈で取壊されてしまう。
・仏師・高村光雲氏の回想録「幕末維新懐古談」は、幕末期の五百羅漢寺のさざえ堂の様子を知り得る貴重な史料であります。
(これを読むと、五百羅漢寺のさざえ堂内に配されていたのは西国・坂東・秩父札所の百観音ではなかったようですが、なんと悲しい話でありましょうか。)
幕末維新懐古談 本所五ツ目の羅漢寺のこと/高村光雲
以下抜粋
「・・・堂の中には百観音が祭ってあった。上り下りに五十体ずつ並んで、それはまこと美事なもので・・・この百観音は、羅漢寺建立当時から、多くの信仰者が、親の冥福を祈るためとか、愛児の死の追善のためとか、いろいろ仏匠をもっての関係から寄進したものであって、いずれも中流以上の生活をしている人々の手から信仰的に成り立ったものであります。」「・・・その寄進された観音には京都の仏師もある。奈良の仏師もある。江戸の仏師が多分を占めてはおりますが、いずれも腕揃いであって、凡作は稀で、なかなか結構でありました。」「羅漢寺は名刹でありましたが、多年の風霜のために、大破損を致している。さりながら、時代は前に述べた通り、仏さまに対しては手酷しくやられたものであるから、さながらに仏法地に堕つるという感がありました。で、このお寺を維持保存するなどは容易のことではない。部分的にちょっとした修繕をするということさえむずかしい。」「彼の百観音を納めてある蠑螺堂のある場所を、神葬祭場にするという評判さえあって、この霊場の運命も段々心細くなるばかり……その中、とうとう蠑螺堂は取り毀すことになって、壊し屋に売ってしまいました」「その建築物の骨をば商売人が買ったが、その中に百観音が納まっている、さあ、この観音様の処分をどうしましたか。これが涙の出るようなことでありました。」(青空文庫作成ファイルより)
曹源寺は宝暦3年(1753)に開創された「東上州新田秩父三十四所」の第24番である。
・「東上州新田秩父三十四所」の開創について、『強戸村(=太田市強戸)大沢山瑞光寺薫動が「近所の男女武州の秩父まで参詣なりがたき老若これあり」宝暦3年(1753)に金山(かなやま=太田市金山)の四方に秩父三十四を勧請した。』とある。(「上州の観音札所」みやま文庫:平成3年より)
・この札所霊場は平成20年(2008)に廃寺の整理や再編復興がなされ、現在は「新田秩父三十四所」となっている。
東上州新田秩父三十四所が開創された当時、曹源寺にさざえ堂はなかった。
・曹源寺の江戸期の年表(◆■は江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂関係。)
①火災で堂宇全焼:元和年間(1596-1624)
②徳川幕府からの御朱印で復興:慶安2年(1649)
◆江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂造立:寛保元年(1741)
③東上州新田秩父三十四所の開創:宝暦3年(1753)(◆から12年)
④曹源寺各堂舎火災・すべて焼失:不明(1753~1780?)
⑤曹源寺各堂舎再建(さざえ堂着工):天明元年(1781)(◆から40年、③から28年)
⑥曹源寺各堂舎及びさざえ堂竣工:寛政10年(1798)
■「冨嶽三十六景」版行:天保2~5年(1831~34)
■「江戸名所図会」版行:天保5~7年(1834~36)
⑦曹源寺本堂焼失:嘉永5年(1852)。以降、さざえ堂が本堂に。
■江戸本所五百羅漢寺のさざえ堂取壊し(廃仏毀釈のピーク):明治元~4年(1868~1871)
百観音巡礼の御利益を得たい民衆の欲求を、一ヶ所で叶える究極の集約施設造立
・時は五百羅漢寺さざえ堂の噂が華やかなりし頃。地元での観音霊場開創が叶った次は、西国・坂東・秩父・百観音霊場巡礼への憧れが募ったか。
・その時期、曹源寺の再建が重なった。百観音巡礼など生涯不可能と知っていた大多数の庶民との需要と供給という言葉もよぎる。
見学:巡礼開始は本尊の前。見逃さないように。
・太田桐生ICを降り、国道122号から曹源寺への枝道は幅員が狭く、すれ違い困難。
・清々とした快晴の日曜日ながら、参拝人は少ない。仁王門も、御砂踏参道の踏み石も鐘楼も気に留めず、国の重文建築の本堂へ。鰐口を仰ぐと、さつまいも色の梁に掲げられた新田一つ引(大中黒)の紋、合掌した観音さまの彫刻額とご詠歌に目が留まる。
・本堂に入るには外で靴を脱ぎ、中でスリッパに履き替える。見学料は大人1名300円。
受付の横に4種類の御朱印見本が並んでいたが、札所の印が入ったものはなかった気がする。見学は我々だけで、戻るまでに御朱印に日付を入れて下さった。
・受付を済ませたら一旦本尊の間まで引き返し、巡礼を始める。お堂入り口正面に本尊魚藍観音像がおわす間があり、そこから秩父一番が始まる。私は入堂し即、受付に気を取られ通り過ぎてしまい、秩父の途中からのスタートとなってしまった。(戻ってくるのだが)
巡礼の 憧れ癒す堂内に 今も息づく 江戸時代哉。
・平成27年~29年の「平成大規模保存修理事業」で、なるたけ本来の姿のままに復元したという堂内は、江戸時代でしかない。髷と和装で巡るが良い。
・1階に秩父34観音、2階に坂東33観音、3階に西国33観音。仏像は各霊場毎に統一された作風か。秩父の34体は同一製造者と一目でわかり、江戸時代のテーマパーク的な雰囲気を放つ。
・百観音巡礼が限られた人だけのものではなくなった今、古の人々の如く御利益を得たい一心で今ここを訪れる人は、果たしているのだろうか。江戸時代の空間に居ながら、なんとも場違い、バチあたりなことを考えてしまう。廃仏毀釈を逃れたのは神社とのゆかりがなかったためか?
・それぞれ仏像の上に御詠歌と風景画を描いた板がはめ込まれている。文や絵はすでに鮮明でなく、陽が届かぬところの判読は一層困難。それでも実際に訪れた札所の前では、参拝時の記憶が呼び起こされる。
・通路は螺旋・さざえ=曲線とスロープの組み合わせと想像していたが、屈曲は全て直角。太鼓橋や階段で高さをかせぎ、スロープは折り返してからしばらくの間だったか。構造を気に留めていなければ、なんなく歩いてしまう造りである。
・さざえ堂には屋根があり、仏像が傷まず、雨でも拝観できる。順路に迷いがない。太鼓橋が巡礼気分に花を添え、壁に筆で書かれた落書きも今や貴重な民俗資料である。堂内はほぼ空洞で、話し声はよく響くので気遣いされたし。
本尊はなぜ魚籃観音なのか。
・一巡し最後の階段を終えると、左に大黒様がおり、お堂入り口正面に本尊魚藍観音像がおわすではないか。入堂時、受付に気をとられ気付かなかった。線香を上げ、魚藍観世音の真言は何であったか...咄嗟に南無大慈大悲観世音菩薩を唱える。お顔は幕がかかり、拝見できなかった。
・さすが国重文指定の建築物、お堂内が段々賑やかになってきた。Youtuberなど目的が違う訪問者もおるので外に出て読経し、境内を後にした。
・今回は万徳寺、曹源寺とも読経のみだったので、両方のお寺の納札箱、納経所がどこかにあるか気付かなかった。
見学のアドバイス~堂内は江戸時代であることを忘れずに。
・暦は小寒、江戸時代のまま、しんとした堂内は、時間が経つうちに足元がかなり冷えました。冬季は分厚い靴下、つま先カイロなどで防寒しての見学をおすすめします。この辺りは真夏は日本の最高気温を記録する地域、お堂は窓を開けての拝観となるのか。
「武州の秩父まで参詣なりがたき時代」の庶民の巡礼事情を想像~甘くない・気軽でない・相当厳しい巡礼の旅
・太田市と秩父市の現在の中心地までおよそ55㎞。時速4㎞/hで休まず歩き続けて14時間かかります。また、県境の利根川を渡らなければなりません。川幅が広く水量の多い平坦地の利根川には橋は架けられず、舟で渡ったようです。
・歩くだけが移動方法だった昔の人は、現代人より健脚だったと思いますが、今とは路面状態も、履物も全然違います。当然、全て平坦な道ではありません。日の出に出発し、場所の見当がつくうちに秩父の宿にたどり着けたでしょうか。夜道には外灯もありません。
・歩く以外の移動手段は馬よりも断然、駕籠なんだそうです。馬は人を乗せて10㎞くらいは歩けたそうですが、馬子が引いて歩くので時間短縮どころか、のんびり長閑な旅になったでしょう。馬は旅の手段より、荷物の運搬の方が主な役割だったと思います。
・ちなみに馬は常歩(なみあし)で時速6.6㎞だそうです。成人男性を乗せた馬を、常歩以上のスピードで一日中走らせるとしたら、短い距離で馬を乗り継いでいくしかありません。また時代劇に出てくるサラブレッドは、江戸時代いませんでした。
・太田と秩父の往復に3日、三十四所巡拝に一週間とすれば10日間の行程です。その間、飯代はしっかりかかる。擦り切れた草鞋の替えを買う金も必要です。泊りはお寺の堂内に持参のムシロ敷きか、野宿。洗濯は小川で、寝ている間に乾けば良し。札所でのんびり時間を過ごすことは...なかったでしょう。わずか10日ですが、むさくるしく、決して気軽な旅ではないですね。これが関東一円を歩く坂東三十三札所だと道のりは1300㎞と言われ、西国はそれ以上と、所要日数と生活費は秩父三十四所巡礼の何十倍にも膨れあがる。季節と天候、日照時間から、西国・坂東・秩父の百観音巡拝が可能なのは一年のうち良くて半年。農繁期と完全に重なります。
・一生のうちに百観音霊場の巡礼資金を捻出できる農民は、いたのでしょうか。巡礼の間、田畑の面倒は誰が見るのでしょう。そこで村や講で経費を集め、代表者を選び巡礼に出す方法が生まれたのでしょう。覚悟が必要です。
・それにしても想像がつかないことばかりです。ミノを通して肌までずぶ濡れの土砂降りに、リュック代わりの箱笈(おい)や着替えが、濡れないように覆っておくビニール袋の代わりってあったんでしょうかねェ?風邪ひきますよ。江戸時代の巡礼の旅は、いつでもどこにでも行きたい放題の現代人の楽観的な想像の範疇から、大きく逸脱したものだったと思います。自分が半日、または一日ではたしてどれくらい歩けるのか試したい。水飲み場も調べておかないといけない。