木曜深夜のアニメの感想
1、西洋骨董洋菓子店
この日で最終回。なんか、BL的な雰囲気漂う作品でしたね。男のぼくが見てもいまいち惹かれないというか…。以前にドラマ化されたようですが、そのときの評判はどうだったんだろう。ゲイが前面に出ていたので、最初はちょっと怪しいアニメなんじゃないかと思って引いてたんですが、まあそれほどどぎつい描写もなく終わり、よかった。まずいよっていうシーンがないことはなかったんですが。
子供のときの誘拐とそのトラウマというシリアスな面と、アンティークでの楽しい日々とギャグ、魔性のゲイという登場人物の設定など、色々な要素が組み合わされていましたが、なんだかそれらがうまく合成されていないように感じられました。誘拐事件だけが浮いているような。最終回に向けてのクライマックスは、当初の予想通りその誘拐事件を中心に話が展開しましたが、全体の物語を浮わついたものにしないためだけの装置にしか見えませんでした。少し余韻が残る(?)結末でしたが、あれはどうなんでしょうね。
ま、総じて言えることは、女性向きかな。
2、To Loveる
矢吹健太郎は、「ブラックキャット」の頃から思っていたんだけど、ロリコンだよな。百歩譲ってロリコンじゃないとしても、可愛い女の子に色んな服を着せたり、あるいは彼女たちをただ描くことが大好きなんだと思う。別にロリコンが悪いと言っているのではなくて、客観的に見て、彼にはそういう傾向がある、ということです。それだけ。アニメとは関係ありませんが。
3、ひだまりスケッチ×365
今日挙げた3つのアニメの中で、抜群の出来、そしておもしろさ。特に今回の話はこれまでと比べても出色でした。まず作画が、え、どうしたの?ってくらいよく動かされていて、驚きました。教室の一番後ろの席(ゆのっちと宮ちゃん)から黒板の前の吉野家先生のところまでカメラがどどどどどっと迫っていくあたりの描写で、度肝を抜かれました。他にも、ほとんど無駄にヒロさんの髪の毛がゆらゆら動いていたり。まあ、CGでやったのかもしれないけど。
「ひだまり」は絵というものが一種の「記号」であることに大変自覚的で、例えばゆのっちが歩くところを描きたいとき、彼女の歩行をそのまま描写するのではなくて、彼女がいつも身に着けているバッテンの髪留めだけを動かします。真っ白い背景に、バッテンをテクテク動かすことで、ゆのっちが移動していることを表現するわけです。これは、日本のアニメが省力化システムを磨いてきたその延長線上の描写でもあって、非常に日本的だと言えるのですが、それ以上に、それを極めた演出だとさえ言えるでしょう。もっとも、単なる手抜きと思われないか、その境界線は微妙なんですが。
さて、絵が記号だという意識は他の場面にも反映されていて、星をまさに「星」という単語で表現してしまうのがすごいところです。ただ、その「星」を見つめる目がだんだん離れていくにしたがって、「星」という字は小さくなってゆき、最後には普通ぼくらが目にする星と同じになります。制作者はあまり深い意味をこめていないのかもしれませんが、こういう描写を見ると、絵と記号、または言語と記号、といったテーマに思いを巡らしてしまいますね。
絵を単に記号として描くことは、たぶん批判があるだろうと思います。例えば自動販売機が自動販売機だと分かればいい、という態度で絵が描かれていれば、その自動販売機は魅力のない絵になっている可能性が高いでしょう。動作にしたって、歩いているのが分かればいい、という態度で歩行を描写しても、そこに魅力は生まれないだろうと思います。そういう安易な漫画やアニメは見たくありませんが、そういう演出が徹底されていると、逆説的にその問題の根本にも目が行くようになって、考えさせられます。
「ひだまり」からかなり話が逸れてしまいました。話自体もおもしろかったです。七夕の日の話だったんですが、ヒロとサエが喧嘩しているところから始まります。仲直りするところがまたよくて、ヒロが目をうるうるさせているシーンは見ていてなんだか泣けてきました。それにしても夏目も正直な反応するなあ。
七夕のお願いは、ひだまり荘のみんなが元気でいられますようにってことで一致して、どこか最終回みたいな雰囲気。でも来週があるんですよね。来週は一月の話。楽しみだ。
ところで、自動販売機を情感豊かに描かせたら、新海誠の右に出る者はいない、と思ってます。コンビニにしてもぼくは同じことを言ってるんですが。
1、西洋骨董洋菓子店
この日で最終回。なんか、BL的な雰囲気漂う作品でしたね。男のぼくが見てもいまいち惹かれないというか…。以前にドラマ化されたようですが、そのときの評判はどうだったんだろう。ゲイが前面に出ていたので、最初はちょっと怪しいアニメなんじゃないかと思って引いてたんですが、まあそれほどどぎつい描写もなく終わり、よかった。まずいよっていうシーンがないことはなかったんですが。
子供のときの誘拐とそのトラウマというシリアスな面と、アンティークでの楽しい日々とギャグ、魔性のゲイという登場人物の設定など、色々な要素が組み合わされていましたが、なんだかそれらがうまく合成されていないように感じられました。誘拐事件だけが浮いているような。最終回に向けてのクライマックスは、当初の予想通りその誘拐事件を中心に話が展開しましたが、全体の物語を浮わついたものにしないためだけの装置にしか見えませんでした。少し余韻が残る(?)結末でしたが、あれはどうなんでしょうね。
ま、総じて言えることは、女性向きかな。
2、To Loveる
矢吹健太郎は、「ブラックキャット」の頃から思っていたんだけど、ロリコンだよな。百歩譲ってロリコンじゃないとしても、可愛い女の子に色んな服を着せたり、あるいは彼女たちをただ描くことが大好きなんだと思う。別にロリコンが悪いと言っているのではなくて、客観的に見て、彼にはそういう傾向がある、ということです。それだけ。アニメとは関係ありませんが。
3、ひだまりスケッチ×365
今日挙げた3つのアニメの中で、抜群の出来、そしておもしろさ。特に今回の話はこれまでと比べても出色でした。まず作画が、え、どうしたの?ってくらいよく動かされていて、驚きました。教室の一番後ろの席(ゆのっちと宮ちゃん)から黒板の前の吉野家先生のところまでカメラがどどどどどっと迫っていくあたりの描写で、度肝を抜かれました。他にも、ほとんど無駄にヒロさんの髪の毛がゆらゆら動いていたり。まあ、CGでやったのかもしれないけど。
「ひだまり」は絵というものが一種の「記号」であることに大変自覚的で、例えばゆのっちが歩くところを描きたいとき、彼女の歩行をそのまま描写するのではなくて、彼女がいつも身に着けているバッテンの髪留めだけを動かします。真っ白い背景に、バッテンをテクテク動かすことで、ゆのっちが移動していることを表現するわけです。これは、日本のアニメが省力化システムを磨いてきたその延長線上の描写でもあって、非常に日本的だと言えるのですが、それ以上に、それを極めた演出だとさえ言えるでしょう。もっとも、単なる手抜きと思われないか、その境界線は微妙なんですが。
さて、絵が記号だという意識は他の場面にも反映されていて、星をまさに「星」という単語で表現してしまうのがすごいところです。ただ、その「星」を見つめる目がだんだん離れていくにしたがって、「星」という字は小さくなってゆき、最後には普通ぼくらが目にする星と同じになります。制作者はあまり深い意味をこめていないのかもしれませんが、こういう描写を見ると、絵と記号、または言語と記号、といったテーマに思いを巡らしてしまいますね。
絵を単に記号として描くことは、たぶん批判があるだろうと思います。例えば自動販売機が自動販売機だと分かればいい、という態度で絵が描かれていれば、その自動販売機は魅力のない絵になっている可能性が高いでしょう。動作にしたって、歩いているのが分かればいい、という態度で歩行を描写しても、そこに魅力は生まれないだろうと思います。そういう安易な漫画やアニメは見たくありませんが、そういう演出が徹底されていると、逆説的にその問題の根本にも目が行くようになって、考えさせられます。
「ひだまり」からかなり話が逸れてしまいました。話自体もおもしろかったです。七夕の日の話だったんですが、ヒロとサエが喧嘩しているところから始まります。仲直りするところがまたよくて、ヒロが目をうるうるさせているシーンは見ていてなんだか泣けてきました。それにしても夏目も正直な反応するなあ。
七夕のお願いは、ひだまり荘のみんなが元気でいられますようにってことで一致して、どこか最終回みたいな雰囲気。でも来週があるんですよね。来週は一月の話。楽しみだ。
ところで、自動販売機を情感豊かに描かせたら、新海誠の右に出る者はいない、と思ってます。コンビニにしてもぼくは同じことを言ってるんですが。