Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

新海誠 in ロシア

2010-09-22 23:07:21 | お出かけ
しれっと全然関係ない記事でブログを始める、という計画を実行に移し、さて今日からちょっとずつ旅の思い出などをアップできたらいいなと思います。

記念すべき第1回は、「新海誠 in ロシア」。

新海誠とジブリの作品のロシア語版DVDを買ってきてくれと友達から頼まれて、ガルブーシュカという、「ロシアの秋葉原」と呼ばれる場所へ行ってきました。そこはロシアのあらゆる電気製品が揃っていると言われ、また日本のアニメのDVDも多く売られているらしいのです。

ホームステイ先のおばさん(この人については今後言及することもあろうかと思う)に案内され、バスでガルブーシュカへ。しかしながら、直前の週に警察の摘発があったらしく、そのせいかどうか、アニメ関連のお店は全て閉まっている!でも、シャッターの降りた店舗の前で、若い兄ちゃんと姉ちゃんに、日本のアニメーションはないか、と聞いたら、あるよと言ってシャッターを開けてくれました。何が欲しいのかと尋ねられたので、新海誠、と言ったら、「ああマコト・シンカイね」、と言って、ほしのこえ、雲のむこう、秒速を出してくれました。そして、ジブリも欲しいとお願いしたところ、「ジブリ?」と首を傾げられ、宮崎駿、と言い直したら、ああ、と言って出してくれたのがポニョだけ。どうやらロシアでは、というか少なくともガルブーシュカでは、新海誠はけっこう知られているらしい。ジブリという名前はあまり有名ではなく、宮崎駿の名前を出してやっと通じる。でも品揃えは悪い。

いつの間に新海誠はこんなにビッグになったんだろう、と思いつつ、どちらを購入しようかと迷う。どちら、というのは、ほしのこえと雲のむこうはなぜかセットになっていて、秒速だけが単独で売られていたのです。600ルーブルと350ルーブル。日本円にするにはルーブルを2~3倍すればいい。だから、極端に安いわけですが、両方買うのはちょっと手持ちのお金が少なすぎて断念。色々あって、あまり両替できなかったのです。で、雲のむこうなら日本でもロシア語吹き替え版が入手できるので、秒速にしました。

パッケージは少しばかり日本版とは異なっています。そこに書かれている紹介文も違っています。関心のある方もいると思うので、両者の比較。



日本版
小学校の卒業と同時に離ればなれになった遠野貴樹と篠原明里。ふたりの間だけに存在していた特別な想いをよそに、時だけが過ぎていった。そんなある日、大雪の降るなか、ついに貴樹は明里に会いに行く・・・・・・。
貴樹と明里の幼い恋心と彼らの再会の日を描いた「桜花抄」、高校生へと成長した貴樹に想いをよせる同級生、澄田花苗の視点で描く「コスモナウト」、そして彼らの魂の彷徨を切り取った表題作「秒速5センチメートル」。
”いま、ここ”の日本を舞台に、叙情的なビジュアルで綴られる三本の連作短編アニメーション作品。

ロシア版
「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」・・・
これは人間関係をめぐる平凡で精確な三本の物語である。
奇跡を信じる心は失ってしまったけれど、まだ夢見る心は奪われていない、我々の世界のスケッチ。

貴樹とガールフレンドの明里にとって、小学校卒業は巨大な幻滅であった。
両親の転勤により彼らは同じ中学校に入学することができなくなったのだ。しかし成長するのが人の常、その隔たりは、既に莫大であることをやめていた・・・
そのことが彼らの心の間で広がり続ける断崖を克服する手助けとなりうるのだろうか?




ロシア版では「桜花抄」に焦点が絞られていることが分かりますね。逆に日本版では全体を俯瞰している。どうしてでしょうか。
ちなみに、そのお店で、「第8回モスクワ・アニメ・フェスティバル」という冊子をもらいました。去年の秋にモスクワで開催されたアニフェスのカタログです。表紙がどういうわけかブレイブストーリーで記事も巻頭を飾っています。そしてポニョ、ラピュタ、秒速、と続きます。他にグレンラガンとかも上映されたようです。ちゃんと許可は取ったのだろうか、と変なことが気になりますが、ロシアといえどもさすがにこんな大きなイベントだったら大丈夫でしょう。

というわけで、新海誠はロシアでも大変注目されている、ということが分かり、ぼくは満足なのでした。

届かない手紙

2010-09-22 00:18:33 | Weblog
もしもこの世界に、幸せになるための資格があるのだとしたら、君は間違いなくその資格を持っているとぼくは思う。

ぼくは君の小学校時代と中学校時代しか知らない。そして、その期間を通じて多くの人たちからからかわれ、悪口を言われ、いじめに近いことをされていたことを知っている。君はしかし、決してくじけず、逆境にあっても欠かさず登校し、元気に気丈に振舞っていた。そういう君を見て、ある人が、あいつはものすごく心が強い、と話したのをぼくはよく覚えている。おれだったらとっくに不登校になってるよ、と。

どうして今、君のことを考えるのだろう。前にもそういうことがあったね。高校3年生のときに、ぼくは君に年賀状を出した。中学3年生のときに君からもらった返事としての年賀状。当時は受験を理由にぼくは年賀状を誰にも送らなかった。君からの年賀状にも返事を出さなかった。だから、それへの3年越しの返信として、ぼくは君に年賀状を出したのだった。

高校3年生のとき、ぼくはとても辛い日々を送っていた。毎日のように手首をハサミやカッターで切りつけ、暗い喜びに打ち震えていた。まだ、当時はリストカットという言葉さえ知らなかった。でもぼくはひたすらその行為を続けていた。そこからの救い、ぼくを誰か救ってくれ、という強烈で切実な願いが、その年賀状につながった。どういうことか。つまり、何か罪滅ぼしをすれば、少しは救われるのではないか、と考えたのだ。あの出さなかった年賀状を、3年遅れで君に返す。受験を理由に年賀状を出さないなんて、馬鹿げている。過去の自分をぼくは罰したかった。自分を罰することで、罪滅ぼしができるのではないかと思ったのだ。

その年賀状に何を書いたのかぼくは覚えていないけれど、この年賀状のことを何かの拍子に思い出すとき、ぼくはいたたまれず心の中で赤面してしまう。そしてこの赤面が、罰だと思うのだ。この恥ずかしさに、ぼくは罰の存在を認めた。

ぼくが辛いとき、ぼくはどうかして君のことを思い出してしまう。健気で、強気な君よ。そんなふうに強く生きられたら、と君のことを眩しく思う。

ああどうか、君に幸あれ。君は間違いなく幸福に値する人間なのだから。

それにしても、ぼくはいま辛いのだろうか?辛かったのだろうか?