ロシアに行っていたせいで見られなかったアニメーション映画、『カラフル』を見てきました。
いま色々なレビューを見て回っていたのですが、意外と厳しい評価も多いようですね。けど、そういう見方があるだろうなあ、というのは予想はしていました。
自殺の理由が弱い
展開が甘い
山場がない
実写で撮った方がいい
などなど、たくさん否定的な意見を想定することは可能です。でも、ぼくにとってこの映画は非常におもしろかった。感動的だったと言ってもいい。山場がない、という人は、ハリウッドのドンパチを見ていればいいのだと思います。しかしそれでは満足できない人は、この『カラフル』を見てください。確かに最後にもうひと山くるのが映画の常套なのでしょうけれども、それをしなかったところに「演出」がある。この映画の核心があると思う。
モノクロからカラフルへ。映画は、この一本の縦軸に貫かれています。最初に暗部が描かれ、それから次第に光が描かれる。もっと光を。もっと光を。だから、映画の後半にもう一度暗部を見せて映画を盛り上げることはしてはいけなかったのです。大衆に媚びようとする監督ならそういうこともするかもしれない。けれど、原恵一は映画としての一貫性を重んじ、大衆的な虚飾を捨てた。残ったのは、光を目指す道程。これは、主人公の小林真が描く絵画の風景としても印象的にぼくらの前に提示されている。暗い海中から、明るい水面を目指して浮かび上がろうとする馬の絵。この絵にこの映画の構成が描き込まれていると言っていいと思います。こういう手法は文学でも紋中紋の手法として古くから知られていますが、絵画として提示されるとき、やはりアニメーションならではの非常に印象的な効果を発揮していますね。
光を目指す映画だというのがこの作品の一つの大テーマだとすれば、もう一つの大テーマは、許す映画だということ。たぶん、家族再生の映画だ、と思った人は大勢いると思うのですが、ぼくはそれを「許す映画」だと言い換えたい。真の自殺をきっかけに、家族が自分自身を省み、お互いのことを気遣うようになって、それぞれが歩み寄ってゆきます。たぶんこれだけならば、普通の家族再生もの、という評価が不動のものとなることでしょう。でも、ぼくはそれだけではないと思った。カラフルというのは、白も赤も黄色も青も黒も、人は全てを持っているということを認めるということではなかったか。人間の白い部分や赤い部分、どす黒い部分の存在を認め、そしてそれを許すこと。人間や世界のカラフルさを許容するとき、家族もまた再生への道を歩むことができるのだと思います。
家族や身近な人の黒い部分を許すのは並大抵のことではありません。愛が深いゆえにそれが傷つけられたとき、反動として憎しみもまた深くなるから。真が母親を完全に許したのかどうか、それは正直分かりません(ぼくは、許したと思った)。けれども、少なくとも母親のカラフルさを認めた。母親でさえカラフルな存在であることを、はっきりと承知した。この前進はとても大きいと思う。
最大のクライマックスはあの家族での食事のシーンだと思うのですが、極めて日常的なシーンでここまで感情を盛り上げられるというのは、すばらしい。この映画では、最初の設定を除いて特別なことは何も起こらない。でもものすごく感情を揺さぶられる。何げない風景のカット、何気ない台詞、何気ない日常、そこには人を真に感動させる美しさや優しさが溢れていて、余計な仕掛けなんていらないんだということがよく分かる。
日常の中の非日常がどうだとか、そういうのは、もういい。日常の中の日常、これを美に昇華させ、そればかりでなくカラフルなものに見せたことに、ぼくはいま戦慄しています。これほどの力量、これほどの省察。
日常描写を好む監督ではありますが、そんな彼のフィルモグラフィーの一つの頂点に君臨しているかもしれません。
それにしても、早乙女くんはいい奴だなあ。肉まんを分けるところは感激してしまった・・・
いま色々なレビューを見て回っていたのですが、意外と厳しい評価も多いようですね。けど、そういう見方があるだろうなあ、というのは予想はしていました。
自殺の理由が弱い
展開が甘い
山場がない
実写で撮った方がいい
などなど、たくさん否定的な意見を想定することは可能です。でも、ぼくにとってこの映画は非常におもしろかった。感動的だったと言ってもいい。山場がない、という人は、ハリウッドのドンパチを見ていればいいのだと思います。しかしそれでは満足できない人は、この『カラフル』を見てください。確かに最後にもうひと山くるのが映画の常套なのでしょうけれども、それをしなかったところに「演出」がある。この映画の核心があると思う。
モノクロからカラフルへ。映画は、この一本の縦軸に貫かれています。最初に暗部が描かれ、それから次第に光が描かれる。もっと光を。もっと光を。だから、映画の後半にもう一度暗部を見せて映画を盛り上げることはしてはいけなかったのです。大衆に媚びようとする監督ならそういうこともするかもしれない。けれど、原恵一は映画としての一貫性を重んじ、大衆的な虚飾を捨てた。残ったのは、光を目指す道程。これは、主人公の小林真が描く絵画の風景としても印象的にぼくらの前に提示されている。暗い海中から、明るい水面を目指して浮かび上がろうとする馬の絵。この絵にこの映画の構成が描き込まれていると言っていいと思います。こういう手法は文学でも紋中紋の手法として古くから知られていますが、絵画として提示されるとき、やはりアニメーションならではの非常に印象的な効果を発揮していますね。
光を目指す映画だというのがこの作品の一つの大テーマだとすれば、もう一つの大テーマは、許す映画だということ。たぶん、家族再生の映画だ、と思った人は大勢いると思うのですが、ぼくはそれを「許す映画」だと言い換えたい。真の自殺をきっかけに、家族が自分自身を省み、お互いのことを気遣うようになって、それぞれが歩み寄ってゆきます。たぶんこれだけならば、普通の家族再生もの、という評価が不動のものとなることでしょう。でも、ぼくはそれだけではないと思った。カラフルというのは、白も赤も黄色も青も黒も、人は全てを持っているということを認めるということではなかったか。人間の白い部分や赤い部分、どす黒い部分の存在を認め、そしてそれを許すこと。人間や世界のカラフルさを許容するとき、家族もまた再生への道を歩むことができるのだと思います。
家族や身近な人の黒い部分を許すのは並大抵のことではありません。愛が深いゆえにそれが傷つけられたとき、反動として憎しみもまた深くなるから。真が母親を完全に許したのかどうか、それは正直分かりません(ぼくは、許したと思った)。けれども、少なくとも母親のカラフルさを認めた。母親でさえカラフルな存在であることを、はっきりと承知した。この前進はとても大きいと思う。
最大のクライマックスはあの家族での食事のシーンだと思うのですが、極めて日常的なシーンでここまで感情を盛り上げられるというのは、すばらしい。この映画では、最初の設定を除いて特別なことは何も起こらない。でもものすごく感情を揺さぶられる。何げない風景のカット、何気ない台詞、何気ない日常、そこには人を真に感動させる美しさや優しさが溢れていて、余計な仕掛けなんていらないんだということがよく分かる。
日常の中の非日常がどうだとか、そういうのは、もういい。日常の中の日常、これを美に昇華させ、そればかりでなくカラフルなものに見せたことに、ぼくはいま戦慄しています。これほどの力量、これほどの省察。
日常描写を好む監督ではありますが、そんな彼のフィルモグラフィーの一つの頂点に君臨しているかもしれません。
それにしても、早乙女くんはいい奴だなあ。肉まんを分けるところは感激してしまった・・・