このところ外出先で人と会ったりして楽しい時間を過ごすことが多かったです。たまに会うひと、久々に会う人、いつも会う人、それぞれですが、いずれにしろぼくは大抵の場合されるがままになっているというか、御膳立てされたメニューに乗るだけというか、自分からここへ行ってこうしようぜ!とは発案しないで、優柔不断で無計画で人様におんぶにだっこ状態です。たまには、「ここで待っていたまえ。***行きのチケットを買ってくるから。・・・ほら、ついでにコーヒーも買ってきたよ。飲みなよ」とかなんとか、言ってみたいものだ。まあでも疲れるからいいかな?
さて。物語の核心というのは、主人公が何かに「気付くだけ」でもいいのではないか、というのが今回のテーマ。例えば『星追い』では、ヒロインが「私は寂しかったんだ」と気付くことが大事なポイントとなるわけですが、そういうのを許容できない人が多いみたいなんですよね。あんな冒険をして、それが動機だったの?いやいや、ドラマトゥルギーとして、もっと重要な動機付けが必要なんじゃないのかい?などなど。
『千と千尋』という映画も、ただ「気付くだけ」の物語だったと言えます。これはいまだにヒロインの成長譚だと考えている人がかなりいて、それを信じて疑わない人さえいるわけですが、まず言っておくと、少なくとも宮崎駿は成長譚というものを破壊するつもりであの映画を作ったことは事実なわけです。ぼくは別に、監督がこうと言うから作品もこう感じなければいけないのだ、と主張したいわけでは毛頭なくて、監督がどう言おうが、『千と千尋』を成長譚だと感じてしまったのなら、それはそれで構わないのだと思います。その人にはそう感じるだけの必然性があったのでしょう。たとえそれが制作者の思惑に反していたとしても、上映されてしまった作品は既に見た人のものですから、感じ方は十人十色でよいのだと思います。
しかしながら、あれは成長譚である、それ以外の物語ではありえない、と排他的に信じてしまうのはいかがなものか。少なくとも監督が成長譚を破壊したいと言って『千と千尋』を作っているのだから、成長譚ではない、という可能性も考えてみたい。端的に言えば、あれは「生きる力の覚醒」の物語であり、ぼくはそれを水のモチーフと絡めて理解していますが、千尋が生きる力を「思い出す」物語だと言い換えられます。記憶と同時に人間の奥深くに眠る生きる力を思い出す物語です。あれだけの冒険をして、ただ思い出しただけなの、なんのこっちゃ、と感じてしまう人もいるみたいですが、でも『千と千尋』というのは、そういう、人によっては非常に些細な感覚と感じられるものをドラマチックに描いた作品ですよ。
千尋はただ「思い出した」だけです。それはたぶん、『星追い』のアスナがただ「気付いた」だけの物語と呼応しています。それでは物語が成り立たない、動機あるいは結論が弱すぎる、と感じる向きはあろうかと思われますが、でも些細な一歩をドラマチックに描いてもいいと思うんですよね。
例えばぼくなんかは、昔から成長していません。少なくとも成長は感じていません。少年漫画のキャラクターたちのように、修行して強くなって今まで倒せなかった敵を倒すことができるようにはなかなかならないし、かめはめ波を打てるようにもならないわけです。ただ同じところをぐるぐる回っているだけで、成長を実感できないのです。ところが、漫画やアニメ、あるいは小説では、成長することが是とされる。この成長神話は、ところが非常に堅苦しいものです。成長しなければいけない、という強迫観念に縛られてしまう。でも人間ってそんなに絶えず成長を続ける生き物なのでしょうか。あるいは人類は?文明は?キャラクターが成長するのではなくて、つまり何かができるようになった、何らかの問題を独力で解決することができた、という達成を得るのではなくて、それよりもっと手前の段階を真摯に描こうとする映画があっていいのではないかと思いますし、ぼくはむしろその方に共感します。
人間は誰もが何かを達成できるわけではないし、必ず成長できるわけでもありません。それにもかかわらず、成長は素晴らしい、獲得は素晴らしい、という文言が巷には溢れています。しかし果たしてそうなのだろうか。千尋は成長したのではない。彼女はただ自分自身の中にある生命力を思い出しただけです。アスナは、自分の真実の気持に気が付いただけです。それは成長とは言えないけれども、前へ進むための第一歩にはなるのだろうと思います。いや、前へ進む可能性なのだと思います。確かにささやかな可能性ではありますが、いわゆる長足の進歩のようなものではなくて、単に前方に展望が開けただけ、という可能性の開示に過ぎなくても、それは人生にとって非常に大事なことだと思います。
アスナは成長した、と考える人もいるだろうと思います。でも彼女は気付いただけです。そしてそれでいい。少なくとも自分の気持ちに気が付かないまま成長してしまうよりも、遙かにいい。ああ、思えば、新海誠の作品というのは、「気付く」物語だったんだな。自分の気持ちに気が付いてゆく過程を克明に描いてくれる。そしてそれはとてもドラマチックなことなんですよね。
さて。物語の核心というのは、主人公が何かに「気付くだけ」でもいいのではないか、というのが今回のテーマ。例えば『星追い』では、ヒロインが「私は寂しかったんだ」と気付くことが大事なポイントとなるわけですが、そういうのを許容できない人が多いみたいなんですよね。あんな冒険をして、それが動機だったの?いやいや、ドラマトゥルギーとして、もっと重要な動機付けが必要なんじゃないのかい?などなど。
『千と千尋』という映画も、ただ「気付くだけ」の物語だったと言えます。これはいまだにヒロインの成長譚だと考えている人がかなりいて、それを信じて疑わない人さえいるわけですが、まず言っておくと、少なくとも宮崎駿は成長譚というものを破壊するつもりであの映画を作ったことは事実なわけです。ぼくは別に、監督がこうと言うから作品もこう感じなければいけないのだ、と主張したいわけでは毛頭なくて、監督がどう言おうが、『千と千尋』を成長譚だと感じてしまったのなら、それはそれで構わないのだと思います。その人にはそう感じるだけの必然性があったのでしょう。たとえそれが制作者の思惑に反していたとしても、上映されてしまった作品は既に見た人のものですから、感じ方は十人十色でよいのだと思います。
しかしながら、あれは成長譚である、それ以外の物語ではありえない、と排他的に信じてしまうのはいかがなものか。少なくとも監督が成長譚を破壊したいと言って『千と千尋』を作っているのだから、成長譚ではない、という可能性も考えてみたい。端的に言えば、あれは「生きる力の覚醒」の物語であり、ぼくはそれを水のモチーフと絡めて理解していますが、千尋が生きる力を「思い出す」物語だと言い換えられます。記憶と同時に人間の奥深くに眠る生きる力を思い出す物語です。あれだけの冒険をして、ただ思い出しただけなの、なんのこっちゃ、と感じてしまう人もいるみたいですが、でも『千と千尋』というのは、そういう、人によっては非常に些細な感覚と感じられるものをドラマチックに描いた作品ですよ。
千尋はただ「思い出した」だけです。それはたぶん、『星追い』のアスナがただ「気付いた」だけの物語と呼応しています。それでは物語が成り立たない、動機あるいは結論が弱すぎる、と感じる向きはあろうかと思われますが、でも些細な一歩をドラマチックに描いてもいいと思うんですよね。
例えばぼくなんかは、昔から成長していません。少なくとも成長は感じていません。少年漫画のキャラクターたちのように、修行して強くなって今まで倒せなかった敵を倒すことができるようにはなかなかならないし、かめはめ波を打てるようにもならないわけです。ただ同じところをぐるぐる回っているだけで、成長を実感できないのです。ところが、漫画やアニメ、あるいは小説では、成長することが是とされる。この成長神話は、ところが非常に堅苦しいものです。成長しなければいけない、という強迫観念に縛られてしまう。でも人間ってそんなに絶えず成長を続ける生き物なのでしょうか。あるいは人類は?文明は?キャラクターが成長するのではなくて、つまり何かができるようになった、何らかの問題を独力で解決することができた、という達成を得るのではなくて、それよりもっと手前の段階を真摯に描こうとする映画があっていいのではないかと思いますし、ぼくはむしろその方に共感します。
人間は誰もが何かを達成できるわけではないし、必ず成長できるわけでもありません。それにもかかわらず、成長は素晴らしい、獲得は素晴らしい、という文言が巷には溢れています。しかし果たしてそうなのだろうか。千尋は成長したのではない。彼女はただ自分自身の中にある生命力を思い出しただけです。アスナは、自分の真実の気持に気が付いただけです。それは成長とは言えないけれども、前へ進むための第一歩にはなるのだろうと思います。いや、前へ進む可能性なのだと思います。確かにささやかな可能性ではありますが、いわゆる長足の進歩のようなものではなくて、単に前方に展望が開けただけ、という可能性の開示に過ぎなくても、それは人生にとって非常に大事なことだと思います。
アスナは成長した、と考える人もいるだろうと思います。でも彼女は気付いただけです。そしてそれでいい。少なくとも自分の気持ちに気が付かないまま成長してしまうよりも、遙かにいい。ああ、思えば、新海誠の作品というのは、「気付く」物語だったんだな。自分の気持ちに気が付いてゆく過程を克明に描いてくれる。そしてそれはとてもドラマチックなことなんですよね。