ぼくはぼくから離れられない。ぼくという人間は、余りに自己中心的すぎる。自分のことしか頭にない。自分が何を為すのか、為せないのか、そういうことしか興味がない。でもそれではいけないのだと思う。
世の中には、自分の仕事がどうとか、業績がどうとか、そんなことばかり考えて生きている人たちがいる。ぼくも同じようなものだ。要するに、自分(とその周辺)の幸福だけを求めている。
ぼくは自分の社会的成功を願っている。でも、それはとても浅ましいことだ。誰かの成功を横目で見、自分の才能のなさに失望する。それもやはり浅ましいことだ。というのも、世の中には社会的な成功に恵まれなかった人たちがごまんといて、その中の一部は哀しみを抱きつつ生きているのだから。もはや願うことも失望することもなく、名誉に無縁な毎日を淡々と生きているのだから。いや、名誉とか成功とか、そんなことに価値を見出していない人たちだって大勢いる。でもぼくがここで言っているのは、かつてそういうものに憧れたものの、挫折して諦めてしまった人たちのことだ。そういう夢破れた人のことに思いを馳せるとき、ぼくには「その人の分までがんばろう」とはとても思えない。むしろその人たちの哀しみや苦しみに寄り添いたくなる。
はっきり書いておこう。ぼくは現状に満足できない。
自分のやっている勉強とその成果である論文は、ぼくにとって重要な問題には一切関わりがない。たとえロシア文学の発展に運よく貢献できたとしても、それは対岸の火事みたいなものなのだ。ぼくにとって大事なのは、例えば共苦であり、共有された美しい感覚であるのだ。「勉強したくてもできない憤懣」や「新海誠を観たときの感銘」を言葉にして、それらの感覚を多くの人たちと共有することなのだ。そして、いわゆる成功者の傲慢を、無自覚さを、徹底的に暴き出すことなのだ。
一定の地位にいる人間は、ただ存在しているだけで他者を絶望させる。もちろん、本人にしてみればそんなのは言いがかり以外の何物でもないだろう。自分は努力したからこそ今の地位を獲得できたのだ、という自負もあるだろう。でも、見てくれ。あなたたちの足元には、あなたたちが排除してきた人間が呻吟しながらのたうちまわっているのだ。
もちろん、こんなのは単なる怨恨感情に過ぎないだろう。そしてこういった思想の行き着く先は自死しかありえないだろう。というのも人間は必ず誰かを押しのけて生きているのだから、押しのけることを否定してしまえば、人間は生きることができなくなる、したがって死を選ばざるを得ない。
しかし、極端に言えば、死を意識しながら仕事してほしいのだ。常に意識しろとは言わない。でもせめて、新しい仕事に取り掛かるとき、あるいは終わったとき、自分がいかに罪深い生き物であるかを痛感してほしいのだ。
ぼくがこんな突拍子もないことを要求するのは、無反省な人間が多すぎると実感するから。また自分への戒めのためでもある。ぼくは常に「こちら」側に立っていたい。「あちら」へは行きたくない。そして「こちら」側から「こちら」のことを書いていたい。
ああしかし、これだって「自分のこと」に過ぎない。またしても「ぼく」のことだ。
ぼくはぼくから離れられない。
世の中には、自分の仕事がどうとか、業績がどうとか、そんなことばかり考えて生きている人たちがいる。ぼくも同じようなものだ。要するに、自分(とその周辺)の幸福だけを求めている。
ぼくは自分の社会的成功を願っている。でも、それはとても浅ましいことだ。誰かの成功を横目で見、自分の才能のなさに失望する。それもやはり浅ましいことだ。というのも、世の中には社会的な成功に恵まれなかった人たちがごまんといて、その中の一部は哀しみを抱きつつ生きているのだから。もはや願うことも失望することもなく、名誉に無縁な毎日を淡々と生きているのだから。いや、名誉とか成功とか、そんなことに価値を見出していない人たちだって大勢いる。でもぼくがここで言っているのは、かつてそういうものに憧れたものの、挫折して諦めてしまった人たちのことだ。そういう夢破れた人のことに思いを馳せるとき、ぼくには「その人の分までがんばろう」とはとても思えない。むしろその人たちの哀しみや苦しみに寄り添いたくなる。
はっきり書いておこう。ぼくは現状に満足できない。
自分のやっている勉強とその成果である論文は、ぼくにとって重要な問題には一切関わりがない。たとえロシア文学の発展に運よく貢献できたとしても、それは対岸の火事みたいなものなのだ。ぼくにとって大事なのは、例えば共苦であり、共有された美しい感覚であるのだ。「勉強したくてもできない憤懣」や「新海誠を観たときの感銘」を言葉にして、それらの感覚を多くの人たちと共有することなのだ。そして、いわゆる成功者の傲慢を、無自覚さを、徹底的に暴き出すことなのだ。
一定の地位にいる人間は、ただ存在しているだけで他者を絶望させる。もちろん、本人にしてみればそんなのは言いがかり以外の何物でもないだろう。自分は努力したからこそ今の地位を獲得できたのだ、という自負もあるだろう。でも、見てくれ。あなたたちの足元には、あなたたちが排除してきた人間が呻吟しながらのたうちまわっているのだ。
もちろん、こんなのは単なる怨恨感情に過ぎないだろう。そしてこういった思想の行き着く先は自死しかありえないだろう。というのも人間は必ず誰かを押しのけて生きているのだから、押しのけることを否定してしまえば、人間は生きることができなくなる、したがって死を選ばざるを得ない。
しかし、極端に言えば、死を意識しながら仕事してほしいのだ。常に意識しろとは言わない。でもせめて、新しい仕事に取り掛かるとき、あるいは終わったとき、自分がいかに罪深い生き物であるかを痛感してほしいのだ。
ぼくがこんな突拍子もないことを要求するのは、無反省な人間が多すぎると実感するから。また自分への戒めのためでもある。ぼくは常に「こちら」側に立っていたい。「あちら」へは行きたくない。そして「こちら」側から「こちら」のことを書いていたい。
ああしかし、これだって「自分のこと」に過ぎない。またしても「ぼく」のことだ。
ぼくはぼくから離れられない。