『ロシアの憂愁 アントン・チェーホフ』という本が手元にあります。1989年に北海道で開催されたチェーホフ展のパンフレットです。もちろんぼくはこの展示会には行きませんでしたが、幸運なことに、2004年頃に入手することができたのです。
さて、このパンフレットには中本信幸氏のチェーホフに関する小文が載っていて、何気なくそれを見てみたら、宮沢賢治の詩の一節が紹介されています。
葦の穂は赤い
(ロシヤだよ チェホフだよ)
はこやなぎ しっかりゆれろ
(ロシヤだよ ロシヤだよ)
こんな詩があることは知りませんでした。日本におけるチェーホフ受容史を昔それなりに調べたことがあったのに、うっかりしてましたね。中本氏は、他にも中村草田男や伊藤整、尾崎翠らによるチェーホフへの言及を紹介しています。日本文学におけるチェーホフというテーマでは、このパンフレットにも文章を寄せている柳富子氏が権威だと思うのですが、芥川とチェーホフとの関係を分析した彼女の論文を拝読したことがあります。また、中本氏の著書に『チェーホフのなかの日本』というものがあり、兎にも角にも「チェーホフと日本」というテーマは日本人の興味をそそるようです。それだけチェーホフが日本で長く愛されてきたのでしょう。
チェーホフがサハリン島から帰還する際、日本にも立ち寄る予定であったことは、比較的よく知られている事実です。日本では当時コレラが流行っていたことから、結局この計画は頓挫し、遂にチェーホフが日本の地を踏むことはありませんでしたが、しかしサハリン島でチェーホフは日本人の外交官と親しくしていた(一緒にピクニックにも出かけた)そうです。
それにしても、宮沢賢治はチェーホフのことをどのように考えて上記の詩を書いたのでしょうね。1989年のパンフレットの題名には「ロシアの憂愁」という言葉が冠せられていますが、やはり憂愁の、絶望の、黄昏の詩人としてイメージしていたのでしょうか。日本におけるチェーホフ観は、時代が移り変わるにつれて様々に変化していっていますが、賢治はどう思っていたんだろうな。この詩が書かれたのは1921年。1925年には築地小劇場で小山内薫演出の『桜の園』が上演されていますが、それはモスクワ芸術座を踏襲した、悲劇的なものだったようです。チェーホフの死後、シェストフの有名なチェーホフ論(チェーホフを「絶望の詩人」とみなす)を始めとして様々なチェーホフ・イメージが日本に輸入されましたが、その多くがシェストフ流の虚無的な作家像を定立したものでした。賢治がそのような潮流の中にあって尚、独自のチェーホフ像を思い描いていたと考えるのは少し難しいかもしれません。
ただおもしろいのは、やはり「ロシヤだよ チェホフだよ」という一節。賢治はチェーホフのことを身近に感じていたのかなあ。
さて、このパンフレットには中本信幸氏のチェーホフに関する小文が載っていて、何気なくそれを見てみたら、宮沢賢治の詩の一節が紹介されています。
葦の穂は赤い
(ロシヤだよ チェホフだよ)
はこやなぎ しっかりゆれろ
(ロシヤだよ ロシヤだよ)
こんな詩があることは知りませんでした。日本におけるチェーホフ受容史を昔それなりに調べたことがあったのに、うっかりしてましたね。中本氏は、他にも中村草田男や伊藤整、尾崎翠らによるチェーホフへの言及を紹介しています。日本文学におけるチェーホフというテーマでは、このパンフレットにも文章を寄せている柳富子氏が権威だと思うのですが、芥川とチェーホフとの関係を分析した彼女の論文を拝読したことがあります。また、中本氏の著書に『チェーホフのなかの日本』というものがあり、兎にも角にも「チェーホフと日本」というテーマは日本人の興味をそそるようです。それだけチェーホフが日本で長く愛されてきたのでしょう。
チェーホフがサハリン島から帰還する際、日本にも立ち寄る予定であったことは、比較的よく知られている事実です。日本では当時コレラが流行っていたことから、結局この計画は頓挫し、遂にチェーホフが日本の地を踏むことはありませんでしたが、しかしサハリン島でチェーホフは日本人の外交官と親しくしていた(一緒にピクニックにも出かけた)そうです。
それにしても、宮沢賢治はチェーホフのことをどのように考えて上記の詩を書いたのでしょうね。1989年のパンフレットの題名には「ロシアの憂愁」という言葉が冠せられていますが、やはり憂愁の、絶望の、黄昏の詩人としてイメージしていたのでしょうか。日本におけるチェーホフ観は、時代が移り変わるにつれて様々に変化していっていますが、賢治はどう思っていたんだろうな。この詩が書かれたのは1921年。1925年には築地小劇場で小山内薫演出の『桜の園』が上演されていますが、それはモスクワ芸術座を踏襲した、悲劇的なものだったようです。チェーホフの死後、シェストフの有名なチェーホフ論(チェーホフを「絶望の詩人」とみなす)を始めとして様々なチェーホフ・イメージが日本に輸入されましたが、その多くがシェストフ流の虚無的な作家像を定立したものでした。賢治がそのような潮流の中にあって尚、独自のチェーホフ像を思い描いていたと考えるのは少し難しいかもしれません。
ただおもしろいのは、やはり「ロシヤだよ チェホフだよ」という一節。賢治はチェーホフのことを身近に感じていたのかなあ。