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ディアン



現代インドの禅師OSHO(オショー/1931~1990)。
「The Grass Grows By Itself」(邦題 草はひとりでに生える)と名づけられた彼の講話録(1976)のはじめに「ディアン」について語っています。

ディアン(Dhyan)とは、ひとりで在るという状態・・・
自分の存在の奥深い内部
思考のかけらさえ存在しないほどの内部の
深みに入っているひとりの状態を指す。

実は英語にはこれにあたる訳語はない。
Contempation(黙想)というのは合った言葉ではない。
黙想が意味するのは、考えること、内省することだ。

Meditationですら適した言葉とは言えない。
なぜなら、メディテーションという言葉には
メディテーションする対象となる何かが含まれるからだ。

つまりそこに“何か”が在るわけだ。
キリストについてメディテーションすることもできるし
または十字架についてメディテーションすることもできる。

しかしディアンの境地では、
メディテーションの対象となるものまでもなくなっていく。
そこには何も無い、というまでにひとりになること。
対象は何もなく、ただ単に主体だけが在る・・・

意識・・・
雲ひとつ無い
まったく純粋な
空のような意識・・・

この言葉ディアンが中国に到着すると
それはチャンとなった。
チャンが日本に至ってZen(禅)となっていくのだが
すべて同じサンスクリット語ディアンというルーツから
来ている。



西洋のメディテーションという言葉は元々、眼を閉じてキリストやマリアや神を静かに観想し、恍惚とした忘我的な境地に到ることを意味したのでしょう。阿弥陀如来や極楽浄土を観想した平安貴族の浄土信仰も同じだと思います。

神父や神学者の用語であったメディテーションは近世以後、哲学者や科学者がそれを語るとき、それは沈思黙考、熟考という意味で使われたんですね。

それ故に日本人は明治維新後、西洋の哲学書や文学者にあるMeditationを訳すのに禅という言葉を用いなかった。デカルトの哲学書「Meditationes」には「省察」を造語、他の場合、瞑目して想うという意味で「瞑想」を造語しました。

Meditationは20世紀になって、西洋の精神世界がヨーガや仏教、タオイズム、スーフィズム、禅等と出会っていくなかで、新しい意味を獲得していったと思います。特に1970年代後半から80年にブームとなったニューエイジムーブメントのなかで・・・

J.クリシュナムルティはメディテーションという言葉を使いたくないと言った。OSHOは英語にはディアンの訳語がないと言う、それでも二人とも生涯メディテーションという言葉を使ったのは、使える状況が生まれてきたからでしょう。

以上、メディテーションという言葉の問題を話題にしました。
次はその先を話題にしたいと思います。