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みる意識



今月15日午後5:00、ここから車ですぐの騎牟礼城址に登って
望遠レンズで阿蘇方面を撮影。
あの日、陽が照ったり雨が降ったりと不安定な日でした。



翌日の1月16日午後5:22、この日は終日穏やかな青天で
このような素晴らしい日の入りが撮れました。

騎牟礼城址に上がると、阿蘇、久住山、祖母山という日本を代表する名山を見渡すことができます。見る時間によって、季節によって表情が変化していきます。

そのように私自身の身体や感情や思考も刻々変化していきます。穏やかな暖かな陽ざしに包まれた平和なときもあるし、雷鳴がとどろく嵐のようなときもあります。疲れてぐったりしているときもあるし、元気にいきいきとしているときもあります。仕事のことであれやこれや考えすぎて混乱しているときもあれば、大自然のなかに出かけてリラックスして心が静かになっているときもあります。

そのような自分自身の身体や感情や思考をみること、意識すること、気づくことができます。それは秘儀的・秘教的なことでも高次なことでもなく、ごくごくシンプルなあたりまえのことだと思います。おそらくシンプルすぎて、あたりまえすぎるために、デカルトのようなずば抜けた知性を持つ哲学者が、この意識、気づき、みることについてわからなかったのではないでしょうか。彼にそれを教えるひともなかった。

意識と存在の学である「現象学」を生みだし、ハイデガーやサルトル、メルロ=ポンティ等にも大きな影響を与えた偉大な哲学者・フッサールですら、非常に不思議なことですが、このシンプルなあたりまえの気づきの意識については体験がなかった。もし彼に体験があったなら、20世紀の哲学はまったく違ったものになっていたでしょう。芸術も文学もです。

ゲオルギー・グルジェフは「思考にとらわれているひとは、瞑想を体験できない」と言いましたが、思考力が優れすぎているがゆえに、みる意識、気づきの意識がわからなかったということでしょうか? 西洋哲学の分野にはその意識を取りあげたものがないと思います。

平凡な私たちも実は、仕事や雑事に追われてあれこれ考え迷うとき、思考に同化し、思考をみる意識がなくなります。なくなりがちです。大きな悲しみや怒りの感情があるとき、その感情に同化し、その感情をみる意識が消えてしまいがちです。身体に大きな痛みやかゆみがあるとき、それに同化しそれをみる意識を忘れてしまいがちです。

でももし思考や感情や身体をみる意識があれば、その意識は思考内容でもなく、怒りでもなく悲しみでもなく、痛みでもかゆみでもありません。

この意識に在ると、思考や感情や身体が私たちの本質なのではなく、みる意識、気づきの意識が私たちの本質であることがわかります。身体は歳をとって老化していきます。記憶力も思考力も衰えます。ところがこの意識は歳をとりません。

身体や感情や思考に同化してこの意識を忘れても、また想起することができます。どんなに忘却しても消えてはいません。そうすると身体が死んでもこの意識は死なないと感じます。

「ヨーガスートラ」は、こう言っています。

ヨーガとはマインドの働きをストップさせることである。
そのとき、みる者は本来の状態にとどまる。
それ以外のときには、みる者はマインドの働きに同化している。


日々の生活・仕事・雑用に追われるなかで、私たちは思考・感情・身体に同化しがちです。けれどシンプルな気づきの意識、みる意識によって、本来の状態にとどまることができます。

そうしようと思えば日々の生活のなかで簡単にできることです。努力も修行もいりません、学問も邪魔です。簡単すぎるので忘却しやすく、とらえどころがないのかも知れません。高層ビルや高速道路や航空機やパソコンや携帯電話を創造するほうがはるかに難しい・・・が、そのほうができるんです。