ある方の新聞コラムを読みました。
少子高齢化社会と真っ向から闘う政府の考え方は少し違うのではないか?
という内容でした。
その方の主張は、少子高齢化社会は時代なのだ、それは私達が望んできたある意味の豊かさで、
多様化したいと願ってきた人それぞれの自由な生き方というものが成熟した結果なのだ、
闘わず受け入れる姿勢であるべきだ、
というものでした。
なんとなく感じていたものを言語化されたような気がしました。
目からウロコ、というほど劇的なものではありませんが...。
コラムを読みながら、少子化という点に繋げて、"草食男子"や"おひとり様"という言葉が浮かびました。
男性も女性も晩婚化。
悠々自適な暮らしを望み晩婚化が進むほど、男性にも女性にも育児の機会は少なくなるのは否めません。
女性の出産育児にはタイムリミットがあるのですから、晩婚化すれば子供を何人も産み育てることが
できるのは稀でしょう。
男性、女性が出会うきっかけを失い、年齢が上がっていけばいくほど、
子供を持つ機会も減少するものです。
そうして少子化になってしまうわけです。
彼氏が出来ない、という話より、彼女が出来ない、という話をよく聞きます。
女性の方がやはり男性のほうよりもタイムリミットをつぶさに感じており、
出産育児という生物的な母性を脳裏の片隅に昼夜視野に入れている分、
彼氏を作り結婚出産へ!とどこかでいつも意気込んでいるような気がします。
人生、つまり生命を運んでいく力強さを生まれながら身につけてるのではないでしょうか。
そう、人を生物学としてヒト科動物と見なせば、ヒト科の男女はなんだかカマキリの雄と雌のように感じてしまいます。
カマキリのように雌が図太く長生きで、雄は食われて短命...
いえ、食いものにされてしまうほどか弱い性を持ち合わせているのです。
(あまりフォローにはなってませんね。)
女性はいざとなれば火事場の馬鹿力を出すように、彼氏ゲットだ!婚活だ!と生命力豊かになれる点も、
ある意味"女子力"と呼びたい気がします。
女子力とは可愛らしさ、美しさ、煌びやかさだけではないのでしょう?笑
話を戻しますが...
少子高齢化社会は時代の変遷がもたらした産物で、過去の時代の目線でいてはおかしい、合わない話なのです。
少子化に焦点を合わせれば、今の時代は少子化になってしまうような環境が整い過ぎているのです。
家族が核家族化し、その上一人一人が快適な個室を持ちました。
邪魔な家庭内人間関係は減り、素敵な心強い家電という家来に囲まれています。
一家に一台だった家電は、一人一人が持ち合わせています。
マイエアコン、マイテレビ、マイ電話(携帯)...
家の中にでさえ、人と分かち合うことへ豊かさを感じる環境はほぼ消えつつあります。
一人一人が快適に暮らす環境があれば、
家族から離れて暮らしたいという意欲は無くなっていくものです。
家族と離れたいと思うからこそ、外に男女が出て出会うきっかけにもなっていたのではないでしょうか。
街の中はどうでしょう。
街から路地裏や街角は消えてしまいました。
男女が外に飛び出したところで、男女がひっそりと時間を分かち合う場所は無くなってしまっているわけです。
商業施設が巨大化し、カフェはオープン化。
危険だから防犯だから、と、公園や街路樹の樹々は全て見通しが良い明るい環境になるよう
伐採されるようになりました。
街から匂いが消えてしまいました。
嗅覚をくすぐる近距離が失われてしまったのです。
男女が長く安心していられる環境は、堂々たる物陰のない明るい環境ばかりでしょうか。
もちろん、人目もはばからず...なんてカップルもいますが...。
男女が出会い、時間を育む環境が無くなってしまいました。
今はネットで出会えるから、と言われるかもしれません、
しかし、人を知るには実はそういった物陰や近距離で長時間いられる環境が必要な環境なのではないでしょうか。
男女が距離を縮める場がなければ、間違い、事故はおこりません。
もちろん間違い、事故ばかりがある社会はあってはならないのでしょうが、
健全な男女のためには、勢いというか、タイミングというか、
はずみのような間違い、事故というものも、出会いや育みには必要なもののような気がします。
それらを生む立役者として、物陰は魔力ある場所だったのではないでしょうか。
...とにかくそんなふうに時代は変わりました。
あくまでこれは私の視点ですが、特に少子化において時代も環境も変わってきた中で、
何かのために何かが行き過ぎてしまい、
そのようにもしマイナス面が出てきてしまっているならば、
単に闇雲に何かが悪い、と闘うのではなく、もう1つ何かエッセンスを加えるなどで対応し、
私達が時代に置いて行かれないような、生きやすい社会や街を考えて行けたらいいのにな、
とふとそんな思いに行き着いたのでした。