"デジタル〜はカシオ♫"というCMがTVで流れていた時代がありますが、
アナログ時計からデジタル時計に変遷し始めた時代です。
ゲームウォッチが出た時は
えーー?ゲームがウォッチ?ウォッチがゲーム?
と子供の頃に思いました。
今では時刻を知る道具と言えば電話。
えーー?電話が時計?
しかも電話がパソコン?
みたいな驚きさえもない時代です。
もう便利過ぎて無言。
人と会話することなんて必要ないのです。
時代が便利な社会になったということは
人と喋ったり触れ合ったりしなくなったということです。
買い物をするにしても昔は必ず人との会話が成立していました。
商店街の1店1店に出向き、1品1品を注文する、
人との会話が日常に溢れていました。
八百屋さんでは網かご中にジャラジャラと
売り上げが入っており、
バネばかりでグラムを計り品物が売られていた時代、人が物を売っていました。
小さなスーパーマーケットが競り合うようにでき始めると、
親玉のようなショッピングモールが続々と開店し、
少し会話の残っていたスーパーマーケットもどんどん吸収され閉店していきました。
そしてコンビニ。
未だに元気のいいコンビニの増加ですが、
コンビニ社会は最も日常会話を無くさせた台頭と言えるでしょう。
小さな子供が買い物をする時、
商店であれば無駄話もありました。
"早くアイスボックスのフタ閉めなさい"
と怒る商店のおばさんや、
"はい、お釣り100万円"
とかギャグで構ってもらえたり
どこかで気を抜いて皆生きていました。
会話、対話とは息抜きだと思うのです。
息抜き、つまり気を抜きながら生きていたのです。
今のデジタル社会、制度の整い過ぎた便利な社会はどうでしょう。
コンビニを例に取ればドアを開ければ小うるさいアナウンスがBGMで繰り返し鳴り響き、
冷たいフロア空間で黙って品定め。
レジでは幼児から大人まで
"いらっしゃいませ" "ありがとうございました"
の一辺倒。
いかに素早く買い物をするか、に特化した空間から強制的に、いかに難なくそつなくスルーして外に出れるかを余儀なくされています。
もちろん会話はありませんし、その上
息を抜く暇もありません。
コンビニを例にとりましたが、社会全体にそういうふうに気を抜きながら生きれる空間は無くなって来ました。
自動〇〇機、が巷に溢れています。
自動ドア、自動販売機、自動券売機、自動改札機、
駐車場はコインパーキングと言われますが、
駐車場からも駐車券を切ったりお金を払う係の人がどんどん消えて行きます。
高速道路もETCですね。
いかに簡潔に、スピーディーに、コンパクトに事が進むか。
時にはそれに加え、
いかに先に行けるか、競争に勝てるか、
時には利益を得られるか、
まで求められるわけです。
そうなると人間が気を抜きたい反動はどこへ行くのかというと、もう日常に気を抜く場は無くなったわけですから、
身近な周囲の人、触れ合える人に過剰に気を抜きたがる傾向になります。
家族、身近な知人、友人、同僚、
そういった親しい人間に過剰に会話や対話を求めてはいないでしょうか。
また、SNSに向かい気を抜く人。
気を抜くというか毒を吐く...。
サービス業という場に鬱憤を晴らす人もいます。
それらのものは本当の意味で自分の気を抜いたり息を抜いたりできるものでしょうか...。
日常から気を抜く場が減ってしまったのでしわ寄せが来ているのは仕方がないのかもしれませんが、そういうことでなく
どこか違う場所や空間で自分の溜まった気は捨ててしまうことをお勧めします。
また、そういった悪い気は溜めないように
どこかへこまめに歩いてみたり、海や山や川、せめて身近な公園の自然の中を歩き、そこへコツコツ捨てる。
花や樹々は四季を彩り、会話こそ出来ませんが、
悪い気は受け取ってくれるかのように、
それらを眺めることで悪い気を消すことができます。
マイナスイオン、という言葉が流行りましたが、
自然の力とはそういうものではないでしょうか。
例えば樹々は葉から二酸化炭素を取り込み酸素を出しています。
一緒に呼吸して、自分の吐く二酸化炭素を酸素に変えてくれていると思うと、
悪い気が消えて行くイメージも湧きませんか...?
そういう自然さえ無くなってきている世の中ですが...。
人間は排泄を繰り返す単なる生き物です。
汗や涙や排泄物を上手く処理しているのですから、見えない自分の気も、上手く処理していく必要がありますよね。
日常が便利になった社会です。
便利さを生活で利用して行かないわけにはいきません。
便利で気を抜く場所を失ってしまった社会ではありますが、ではどうやったらそのたまりがちな気を抜けるのか、
それぞれ各人が良い解決方法を見つけておく時代になっていると考えます。