** のりこキッズマム歯科医院 ** 生えかわり・食育のご相談をどうぞ 筑紫野市原田 歯科・小児歯科・矯正歯科

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明るい世の中に   筑紫野市原田 のりこキッズマム歯科医院

2022-01-24 | 思うこと
またこのようなチラシが届きました。




口コミのカキコミビジネスが蔓延ってます。
悪いことは消し、いいことを書き込んで行くビジネスでしょうか。
いいことばかりでなく悪いことを書き込むビジネスもあるようです。
そして世の中の傾向も背中を押し、ますますの心配や不安を募らせられ、別のビジネスへ誘導されてしまう。

医療は「あの時のあれは、実はこうでしたよね?」と公表することができません。守秘義務があります。
ビジネスでなくともそういうことを利用したりおびやかしたりするのはどうなのでしょう。正しい方法でしょうか。
必死に診療するスタッフ側には胸が大変痛いことです。
感情的になる側の一時的な感情であっても運営の存続に悪影響を及ぼしてしまう場合、最終的には法律家など第三機関に早急に相談が必要な時代です。

そういえば、FBやTwitterには逆に「いいね!」を増やすビジネスがあるそうです。

いまの世の中の騒動もそうですが、何においても「踊らされる」「うわべだけ見てしまう」ということについてはよく考えたいものです。
大抵そこには考えるヒマを与えない、自分が絶対正しい!と見せつけるとか、他から目を逸らさせ自分に注視させるなどという目論見や、ビジネスに繋げられるわながひそんでいます。

美味しかった!楽しかった!
いいサービス頂いた!
という昔のドリカムの曲
「うれしい!楽しい!大好き!」
みたいな本当に良いコメントは世の中を明るくし、とてもいいものだと感じます。

世の中の傾向はそちらに向かって欲しいものです。





変な眠り方してました。



7月は夏祭りの予定だったけど   筑紫野市原田 のりこキッズマム歯科医院

2020-07-17 | 思うこと
いつもと神社が違うな、と思ったら夏祭りの時期だから、いつもなら各地で夏祭りや花火大会が開催されている頃ですね。


今年は戦後毎年開催された博多山笠祇園祭りも中止。
診療所のある筑紫野市原田筑紫神社も原田区の夏祭りも中止。

なんと...残念なことになりました。

神社だけでなく地域が行う夏祭りも、
いい年齢になり計画・開催する側になりましたが、大変ささえ懐かしい感じになりました。

夜店が出る夕方から夜にかけてライトアップされ出す夜店の通りと人並みは、
見慣れた光景でも毎年なんとなくワクワクするものでした。

来年は開催できるでしょうか?

この生活がいつしか平常に戻り夏祭りが開催されたら、
夏祭りの良さを改めて感じられ、また開催出来なかったコロナ禍の日々を振り返り、しみじみと嬉しさを実感できる気がします。

ただ生活が、時計やカレンダーがただ運ぶだけのような、まるで列車がダイヤ通り動くだけのような平常に戻るだけでは、生活に潤いが無いのです。

夏祭りなどの心ときめくものに自由に触れられてこそ、
楽しかった!また明日頑張ろう!
と思えてこそ、
新しい次の1日を始めることができ、
生き生きと生活できているのだと思います。




卒業のDVD 筑紫野市原田 のりこキッズマム歯科医院

2020-04-19 | 思うこと

ようやく末っ子の卒業DVDを見ました。
3月は中学の卒業式でした。

1月から3月はいつもあっという間に過ぎますが、今年はスタッフさんの入れ替わりもあり、いつも以上でした。

1月は季節性インフルエンザにも気をつけなければいけない時期です。
当院の患者さん達で受験生の方々がいらっしゃると治療の計画にも大変気を遣うものです。

自分の子供達に受験生の年が訪れても、どうしてもそれは2番目になってしまいますが、私なりに努めれることは努め、3人の受験生の母をやってきました。

加えて今年は1月に入り新型コロナウィルスが、気がかりな情報でした。
できる対策は打たなければいけない、と情報はこまめにチェックしながらの診療をしてきましたが、
自分の子の受験のタイムテーブルはどんどん消化され進み、それはそれでこなさなければならず、2月は逃げ去って行きました。

歯科医療物資の調達にも目を光らせておかなければなりませんでした。

これは未だにそうですが、緊急事態宣言が4月上旬に出たことに合わせ、臨時休診を増やすことに決め、少しゆっくり構えることも可能になりました。

診療日が大変少なくなり皆さんには大変ご迷惑をおかけしますが、今できることはやり、皆さんの診療が無事できる日が来るまでなんとか乗り越えて行きたいと思っています。


臨時休診中もいろいろと情報を取得し、院内整備の強化を考えつついるところですが、
卒業や進学についての手続きに気を取られ、卒業さえもよく味わえてなかったな...
と振り返る余裕が少し出来始めました。








書類の整理をしていると卒業DVDが出て来ました。
後回しになっていた卒業の実感を味わおうとDVDを開くと、そこには中1から中3の、卒業アルバムに掲載出来なかった沢山の行事の数々があふれていました。

ひしめき合う中学生達の笑顔!

あーあの子だ...この子久しぶりだなー...
と懐かしく眺めました。

去年の今頃はこうやってひしめき合って笑うことすらできない日がくるなんて、想像もしていなかったな...と卒業を寂しく感じました。

卒業だけでなく、それ以上に切ないですね。

卒業で今までいた学校にはもう当時のみんなが誰もいないのは事実ですが、
生徒達が一切誰もいない空っぽな教室、空っぽなグランドという状況になってしまいました。

学校は勉強するところ、はもちろんそうですが、学校は同学年、同世代の子供達の触れ合いの場だったと思います。

学校に行ってもひとりが好きな子もいます。
しかしその子にとっても学校は家族と離れ別の場所でその日を暮らす、別の所属場所として存在していたかもしれません。

学校から課題は送られて来ますが、学校の意味がプラスアルファされる、何か交流を持ったり、所属確認ができるといいと思います。

特に4月に入学や転校で学校ごと変わってしまった場合は、なんだか宙ぶらりんの存在になっています。

それはSNSやLINEとはまた違う、子供達の社会の場としてです。

その仕組みのためには、全員がPC、スマホを持っている環境でないと難しいかもしれませんが、そういうハード面が無くても郵送などで出来る交流も編み出せばあるのではないかと思います。

新学期や新入学が出来なかった分、
新しいクラス、新しい学年、新しい学校で所属を再確認できるシステムがあってもいいのではないかと感じました。

勉強をさせることだけが学校の役割ではないはずです。

ただ皆このような感染症の経験は初めてですので、これからいろいろと変わっていくのでしょう。

お互いに知恵を出し合い、この環境に適応し、生活していきたいですね。








入学・進級準備は物だけでなく... 筑紫野市原田 のりこキッズマム歯科医院

2020-02-07 | 思うこと
新入学・進級も視野に入る時期ですね。
テレビ番組のコーナーを観て思ったことを少し。

‪100%ほめ育てや、100%叱らない子育てで子供達全員100%を同じように育てようというのは集団教育には少し無理を感じます。
‪子供つまり人は千差万別、十人十色ですから。

‪古く威圧感が満載だった子育てを改善していく、いいものをプラスアルファ取り入れて行く意味はあります‬。

ほめ過ぎ育てや、叱らな過ぎの子育てについて浮かぶことを書いてみようと思います。





○共通の時間
放任するのでなく向きあうということは大切です。
最近では向きあっていく子育てを重要視する社会です。

子育ては子供対親で言えば、1:1。

でも子供さんの数が少なければ十分にほめ、十分に叱らないで済む時間がある場合が多いかもしれませんが、集団教育となると一人一人の時間にかなり制限が出てきます。

時間がない、と言い切ると大人の都合で時間で追い立てるのは良くないといわれるのでしょうが、
集団教育にはやはり時間との戦いが出てくるのは否めないのです。

それは視野を広げて見れば集団教育とは社会に出る練習にもなっており、一人一人を大切にできる家庭の場と別の、全体の動きに協力できるような感覚を持つための練習になっているのです。

「うちの子はこうで」「うちの方針はこうで...」から「学校と子供」へシフトして行く時です。

子供さん達はいずれ社会に入って行くのです。
社会では時間は共通の所有物として存在します。

つまり十分にほめられない場合も出てきますし、叱らないように気を配っていても叱らなければならない場面も出てくるのではと思うのです。

のんびりさんに合わせてばかりはいられない、せっかちさんに合わせてもいけない。

家庭では本人の感情を自分だけのために特別に気が落ち着くまでフォローしてもらえたことが、あまりフォローしてもらえない、そうなってしまうわけです。

ただ、のんびりさん、せっかちさんの中には性格だけでなく発達がゆっくりさん、発達の見守りが必要なお子さんもいらっしゃいますので、その場合はあらゆる連携で十分なサポートが必要になります。



○ボリュームが違う叱り方
例えばお子さんが、安全面、衛生・健康面、対人面で危険な目に遭う時、親御さんはどうするでしょうか。

もちろん止めますと言われるでしょう。

では、そんな時に
だって!と言い出すとか、イヤイヤ、泣く...そんな場合はどうするでしょうか。

子供さんのこれらの怒りの感情をなだめるほうへ回ってばかりいないでしょうか。
叱らない子育てを守る余りなのかもしれませんが...。

または結局振り回されて気づいたら子供の言いなりになってしまっていたり、
過剰におやつやオモチャを要求される、引き合いにだす、そしてお子さんの手に入ってしまっていないでしょうか。

親御さん達が手を焼くほど、子供達にはいろいろ性質があります。
小さな言いつけを聞ける子、なんとか説明すれば聞ける子、感情ばかり出てきて全く聞けない子、そして発達がゆっくりペースさんで本当に見守りが必要なお子さん...

もし子供達に危険が及びそうな時、様々なお子さん一人一人に一律に叱らないで十分な対応ができることが望ましいですが、それぞれの性質に合わせて、多少は声を大にしないといけない場面も出てきます。

集団教育ではおやつやオモチャで駆け引きすることが出来ないことが大前提となります。
優しい言葉だけでは心に入っていかない場合は、目を見て、腕や肩をしっかり握って伝えるというような身体に訴えることも必要です。
(もちろんそれがまた過剰になってしまわないようにです。)

そんな時、子供さん達はハッとします。
ハッとできる=わかる能力を持っているのは俗に言う子供やわらか頭だからだと思います。
大人が自分達子供を守ってくれている、ということを理解する能力があります。


瞬時に危険を回避することが必要な時は、叱る叱らない論議よりも、すぐにやめさせられるかどうかが最重要になります。
こういうことができるのは、親御さん達の第三者への信頼度にかかってきます。
「あの先生さー」とか悪口や陰口を言っていたり
「どう大丈夫だったの?」と過剰に心配してお子さんの感情に寄り添うと、
お子さんは自分の気持ちがいいほうにしか傾きません。
いつまでも聞く耳を持たないままになってしまいます。

集団教育はもちろんご承知でしょうが、おやつやオモチャ、ご褒美が出てこないことばかりです。
それが無い状態でも言うことを聞いてもらわないといけません。
感情的なタイプや計算のうまいお子さんには親御さんが振り回されないことが、集団教育に入る前に気をつけておくこととも言えるでしょう。

集団教育ではその様々な感情を必ずお子さんの思う通りに拾ってはあげられず、
親御さんが思う通りには十分にお子さんの感情へのケアは困難であることが生じます。

つまりそれは集団社会には致し方なく生じる困難さで、各家庭の思いにそった個人別の感情や自分自身の感情は、自分達でなんとかしないといけないということです。
その諦めを持つことでお子さんも親御さんも楽になると思います。

親は子供の感情に振り回され悩み、結局自分の感情も壊れた楽器のようになってしまいがちです。
そのために心拍数が上がり過ぎる、血圧が上がったり下がったりする、ホルモンのバランスが崩れる、それって健康にもよくありません。

感情の起伏が激しいため、ほめられ過ぎて叱られることなく、なんとなくオブラートに包んで来られたお子さん達は、集団の場ではそういうふうに感情に寄り添ってもらえないため、孤立感が増したり、重要な話や危険が及ぶことを回避する伝達が聞けないことが多いようです。

そういう危なっかしさがずっと続かないで済むように、「うち」目線を社会目線に変え、背中を押してあげる準備をするのはいかがでしょうか。


親子VS集団教育、という通常の図式に、
集団教育・親VS子供という関係性も必要な場合があります。

それは、大人が子供を威圧するのではありません。
大人の協力があって子供を育て守っていることを意味します。
























女性歯科医師ですが...何か...? 筑紫野市原田 のりこキッズマム歯科医院

2018-12-11 | 思うこと
冬はとても苦手です。
脳虚血が生じるし、手足は冷たいし。
だから、文章も思い浮かばずヌクヌクと冬眠のように過ごしてしまいます。

先日ようやく今年の定期健康診断を受け、血液検査、心電図検査など受けましたが、
血圧は下が40台、うえが80台でした。
過去最低血圧を更新。

死んでる...?

どこの病院でも私の血圧を測る看護士さんからは
「ん?」
と、計測ミスを疑って下さるのですが、
「あーはいはい...そう出たか」
と納得する私を見て、安心されるのです。
それくらい低血圧。
今回は自分でも驚きました。

心電図も今回も波形が弱く、看護士さんが
「機械の調子が悪いみたいで」
と、計測し直しされたのですが、何回も診ているドクターは、
「ま、これがあなたの波形だね」
みたいに言って下さるので、
これが私の健康状態で間違いないらしいです。

だからと言って朝起きれないとか、
めちゃ頭痛ある、とかないです。
「いつも元気そうだねーー!」
と見た目も病的ではなく問題ないように言われます。


...あ、女性歯科医師の話でした。

そんな感じで、2002年に開院したのですが、
当時子供達は幼稚園児でした。
子育てをしながら開院するなんて、
学生の時分には考えてもいませんでした。
しかし、歯科医師をしながら本気で経済力を持ちながら育児をするならば、
勤務医という形態は困難でしたので、
時間の都合、子供の学校行事に都合をつけ易いのではないかと考え、開院に踏み切りました。

清水の舞台から飛び降りるつもりで、、

と思い切って決意し行動することをそんな表現で言いますが...

と、いうか

飛び降りました...!

という感じでした。


最近、某大学の男性加点入試が明るみに出てから、女性医師についていろいろとクローズアップされていますね。
振り返ると15年以上前にそんな男性社会の歯科医業界に飛び込んだ私でした。

開院までにはいろいろあり、時効ならば言いたいぐらいの障壁もありました。
今の時代なら完全にパワハラです。
しかし、そういうこともあったために、
自分の中には、男性と同等に診療をやらなければならない、という思いと、
女性として育児経験を役立たせたい、という思いがいつも並行してありました。
育児経験を役立たせるならば、女性が行なっている歯科医院であることは公表しなければ利用頂けません...公表する勇気も必要でした。

しかし、育児をしているからと何かに縋るわけにもいかない、縋る場所もない。
産休や育休は、自営業にはありません。

診療を誠実に行い信頼を持つためにはどうしたら良いか、女性の特色である指先の小ささを診療に生かせないか?
より細やかな配慮での診療体系で社会貢献できないか?

そんな男性性も女性性も股にかけたような中立な意識は今も続いています。

このブログでも「女性歯科医師」について以前も書きましたが、
「女性」と敢えて『くくる』現代は、まだまだジェンダーフリーとは言い切れないのだな、とずっと感じています。

つまり、第三者から見ると、男性医師と女性医師に分けられ、『育児経験を生かした医師』というような、経験面からの中立なスタンスでは見られないのです。
私個人には未だ残る男性社会にいる女性、
しかしながらどちらにも傾倒しない、
どちらかというと中間のような意識でいます。

ゆっくりとではありますが、扇動されることではなくて、男性であっても自然と育児参加している時代には入っているわけですから、
男性ドクターであっても育児経験から子供の特性を理解できている、という方々も増えているのも現状だと感じます。
なのに、一方で男性ドクター、女性ドクターというスタンプやシールを貼られたかのような選別...。


今回の事件は医師になる能力を「男性」と「女性」に分けて区別し、入学自体から差別してしまった、
男性医師、女性医師に優劣を付けてしまう社会があるということが、告発された、
そういう視点が未だあることが巷に明るみになった事件ですね。


男性であっても女性であっても、
人間性や経験値は、人それぞれだと思うのですが...。




つづく




クラシルの画像が好き

2017-10-29 | 思うこと
クラシルの動画画像、配信されているとついつい眺めてしまいます。
スピード感が好きです。

うそー簡単じゃん? これ作ってみたい!

と思ってしまうところがミソ。
かなり省いてあるので短時間眺めているだけでたちまち料理やお菓子がスマートに仕上がります。

「キューピー3分クッキング」より速い...

ついに3分クッキングが長く見えてしまう時代が来ました。

ちゃかちゃかと手際よく動く手に見惚れ、
気になり作ってみました。

抹茶ババロアです。




小豆も煮たので

抹茶ババロアの小豆のせ和菓子風

の仕上がりになりました。

子供を三人育てたら自分一人より三倍の航海?

2017-10-22 | 思うこと
子育て真っ只中、という嵐は、小さな子供の頃から考えるとくぐり抜けたのかもしれません。

ふと思ったこと...。

例えば自分だけであることを1としたら子供を授かった場合、子供を持つことは1+1=2、初めはただ単にそうでした。

自分の生活で自分の面倒をいろいろと見ますが、子供を持つと身の回りのお世話をもう一人分みないといけないわけで、それも自分とは違う小さな生き物。
母親として頭(知恵)が二つ必要だ...という感覚でした。

結果子供は三人持つわけですが、振り返ると1+3人の頭(知恵)では足りない...そんなもんじゃなかった、と感じています。
初め一人目を持った時の感覚はまだ若造の序の口段階だったな、と自分自身を振り返ります。

自分だけが1、はそのまま。自分目線で身の回りのことをやり、周辺の人々と暮らしていけば良かったからです。単位を1とします。

この発想で、子供達を育てていくのになぜ三人持てば+3では足りないかというと、
(あくまで私の育児に限定します。育児にも様々なタイプがあると思います)
成長するごとにその子供一人一人に関係者がおり、つまり人間関係が生じます。
その上、その子供一人一人に対してさまざまな気質からの想像できない問題などが出てくるからです。

それもその子が育ち行くのに超えなければならない試練のような。

親からはとても見えない想像できない裏側、後ろ側なので、それぞれの付加を+1をすると、
1+1=2。
つまり1+(2×子供の人数)の苦難が出てくるわけです。
子供三人ならば、
1+2×3=1+6=7

子供一人の時より三人になれば、3倍ではなく、なんと7倍の苦難...!


...と、不思議な計算式をたてて脳内遊びをしてしまいました。笑

ではそれに子供を育てた年数をかけてみると...

恐ろしい...
どんだけ〜の荒波を超えたんでしょうか...

自分一人よりも7倍の苦難...それらの荒波は時期をずらしながらも同時進行でノンストップで進み続けるのです...。

子育てというのは振り返ってはいけないのかもしれません。
振り返らないようにただ前を向き突き進む!
これに尽きるのでしょう。
そう身体のどこかにカリキュラムされているからこそ、やって退けることができるんでしょうね。

もちろん苦難ばかりではありません。

子育ての中に宝石のような一瞬をもらうこともあります。
しかしそれは宝石のように価値あるもので、
一瞬限り。

その瞬間がたまーに出てくるから、
「ありがとう神様!」キラキラキラーン...♪
と心が輝けるわけで...。
まさに子育ての荒波の中のお日様の一筋の光です...。

自分時間も自分のためのお金も投げ打って子育てをして行かなければいけない難航海のそんな中に、それらの宝石や光がもらえる、それに感謝するからこそ、子育てを投げないでやって行けるんだな...

などとふと思った朝でした。

今日は選挙です。
この選挙では上の子二人が選挙権を持ちました。
二人で幼稚園リュックをからっていたのに...。
三番目の選挙権は...あと何年あるかな...ふう...

今後もますます社会性を身につけて生きて行ってほしいものです。


博多灯明ウォッチング。
夏は山笠。秋は灯明ウォッチング。
博多部の町民の皆様の手作りのお祭りです。

こちらは子育てとは別の、自分の人生の中にもらえた、まさに宝石のような時間の一つです。

博多部の皆様に感謝...!




















土曜授業がありました...

2017-09-19 | 思うこと
土曜授業となると給食は無いので、大抵授業は午前授業ですが、部活動がある時にはお弁当になります。

先日土曜日は朝からお弁当作りでした。
台風が危ぶまれていましたが、授業参観も行われたようです。

土曜日も仕事ですので土曜の授業参観などには
ほとんど出た記憶がありません。
土曜日に以前代診の先生にお願いしていたこともありますが、少年野球時代のお茶当番に出る、暗黙の義務(?)のほうにその日を使うため、学校授業参観の日程を知ってもそう何度も休めない、
という状況でした。

代診の先生にお願いするというのは、まずは先生のご予定もありますし、患者さんの治療内容・現在の流れや費用の負担や様々な考慮が必要になるわけです...。
それをクリアできて初めて土曜日に自らが休むことが出来るのです...。

平日の授業参観は、昼休み中に少し顔を出したり、で乗り切ったかな...
いつも滑り込んでは滑り出ていたような記憶です。

「今日は授業参観だから行かなくちゃ!」
「授業参観、どうしようかな〜...」

と自らが自由に選択できる点を羨ましくも思いながら、15年診療してきました。

15年間診療に対して責務を果たせたことを頑張ったな〜と充実さの転換をしたいと思っています。


いつものコミュニケーションツールをこちらに...



秋が早く感じますが...

2017-09-08 | 思うこと
今年は8月末から蝉がパタリと鳴かなくなり、
朝は虫の声が聞こえてきます。

また猛暑復活するのでしょうか。

子供のころは9月というと、秋の風情でしたが、
昨今は10月になっても暑い日々があったりして、秋を感じる間も無く冬が来ていましたが...

このくらい早めに秋が訪れ、秋をゆっくり感じられたら、日々にもゆとりができるのにな...
と思います。

街の銀杏並木も、順調に色付き始めてます。

スイッチで切り替わるように季節が変わるより、
だんだんと季節がグラデーション的に変わって行くと、秋は特に味わいのあるものになるんですがね...





↑ おしゃれ感出てますが、ドラッグストアで発見した素朴な秋です。笑






歯は食事のために必要な大切な道具ですから...

2017-08-23 | 思うこと

美味しく食事をするために、歯の健康を保ちましょう。

噛むことで身体全体の回路が働きます。
咀嚼筋が働き、消化液が分泌し、身体中のスイッチが入っていく感じ、大切ですよね。


夕食の一部をコミュニケーションツールとして...


博多山笠は神事なのです

2017-07-08 | 思うこと
6月30日。


聖福寺前。追い山が走ります。


町のお飾り。



7月1日から7月15日まで福岡市の博多部では博多祇園山笠のお祭りが開催されます。

博多祇園山笠と言えば、櫛田神社、飾り山、追い山ですね。

もとは博多区の承天寺が発祥と言われています。
博多に疫病が流行し、それを清めるために聖一国師(しょういちこくし)というお坊さんが、神輿のような台座に運ばれ、
お清めの水を町の人に撒いて回られたことから発展したと言われています。

櫛田神社には博多部の今で言う各町内会で神輿を奉納するお祭りが始まったことで、櫛田さんに神輿を奉納→櫛田さんに山笠を奉納と発展したと聞きます。

なぜ、追い山のように競争が始まったかというと、その奉納の時に、とある町内会どうしが
我先にと奉納順を競い神輿を担いで走ったことが由来の一つらしいです。

承天寺は聖一国師が中国の宋の時代の中期に、宋から小麦粉の製法を持ち帰られたことで、うどん・饅頭発祥の地、という石碑もあります。

余談ですが、やや離れますがお隣の聖福寺は、日本の鎌倉時代はじめ、中国の宋の時代、先ほどの聖一国師よりさらに早い時代に、栄西というお坊さんが宋からお茶の種を持ち帰られ、喫茶の習慣を広めたと言われるお寺です。

臨済宗=栄西は歴史でも習いますね...
その第一建立寺が博多の聖福寺で、お寺にはお茶も発祥の地と記載があります。

博多は昔から中国との交流がある地です。

博多祇園山笠はイベントではなく神事、
周辺のお寺も実は、現代のうどん、饅頭、お茶の伝播に、とても重要な役割を持っていたという、
歴史を振り返る目線で見るのはいかがでしょう...。

















気を抜く、息を抜く

2017-06-23 | 思うこと
"デジタル〜はカシオ♫"というCMがTVで流れていた時代がありますが、
アナログ時計からデジタル時計に変遷し始めた時代です。

ゲームウォッチが出た時は
えーー?ゲームがウォッチ?ウォッチがゲーム?
と子供の頃に思いました。

今では時刻を知る道具と言えば電話。
えーー?電話が時計?
しかも電話がパソコン?
みたいな驚きさえもない時代です。

もう便利過ぎて無言。
人と会話することなんて必要ないのです。

時代が便利な社会になったということは
人と喋ったり触れ合ったりしなくなったということです。

買い物をするにしても昔は必ず人との会話が成立していました。
商店街の1店1店に出向き、1品1品を注文する、
人との会話が日常に溢れていました。
八百屋さんでは網かご中にジャラジャラと
売り上げが入っており、
バネばかりでグラムを計り品物が売られていた時代、人が物を売っていました。

小さなスーパーマーケットが競り合うようにでき始めると、
親玉のようなショッピングモールが続々と開店し、
少し会話の残っていたスーパーマーケットもどんどん吸収され閉店していきました。

そしてコンビニ。
未だに元気のいいコンビニの増加ですが、
コンビニ社会は最も日常会話を無くさせた台頭と言えるでしょう。

小さな子供が買い物をする時、
商店であれば無駄話もありました。
"早くアイスボックスのフタ閉めなさい"
と怒る商店のおばさんや、
"はい、お釣り100万円"
とかギャグで構ってもらえたり
どこかで気を抜いて皆生きていました。

会話、対話とは息抜きだと思うのです。
息抜き、つまり気を抜きながら生きていたのです。

今のデジタル社会、制度の整い過ぎた便利な社会はどうでしょう。
コンビニを例に取ればドアを開ければ小うるさいアナウンスがBGMで繰り返し鳴り響き、
冷たいフロア空間で黙って品定め。
レジでは幼児から大人まで
"いらっしゃいませ" "ありがとうございました"
の一辺倒。
いかに素早く買い物をするか、に特化した空間から強制的に、いかに難なくそつなくスルーして外に出れるかを余儀なくされています。

もちろん会話はありませんし、その上
息を抜く暇もありません。

コンビニを例にとりましたが、社会全体にそういうふうに気を抜きながら生きれる空間は無くなって来ました。

自動〇〇機、が巷に溢れています。
自動ドア、自動販売機、自動券売機、自動改札機、
駐車場はコインパーキングと言われますが、
駐車場からも駐車券を切ったりお金を払う係の人がどんどん消えて行きます。
高速道路もETCですね。

いかに簡潔に、スピーディーに、コンパクトに事が進むか。
時にはそれに加え、
いかに先に行けるか、競争に勝てるか、
時には利益を得られるか、
まで求められるわけです。


そうなると人間が気を抜きたい反動はどこへ行くのかというと、もう日常に気を抜く場は無くなったわけですから、
身近な周囲の人、触れ合える人に過剰に気を抜きたがる傾向になります。

家族、身近な知人、友人、同僚、
そういった親しい人間に過剰に会話や対話を求めてはいないでしょうか。

また、SNSに向かい気を抜く人。
気を抜くというか毒を吐く...。
サービス業という場に鬱憤を晴らす人もいます。

それらのものは本当の意味で自分の気を抜いたり息を抜いたりできるものでしょうか...。

日常から気を抜く場が減ってしまったのでしわ寄せが来ているのは仕方がないのかもしれませんが、そういうことでなく
どこか違う場所や空間で自分の溜まった気は捨ててしまうことをお勧めします。

また、そういった悪い気は溜めないように
どこかへこまめに歩いてみたり、海や山や川、せめて身近な公園の自然の中を歩き、そこへコツコツ捨てる。

花や樹々は四季を彩り、会話こそ出来ませんが、
悪い気は受け取ってくれるかのように、
それらを眺めることで悪い気を消すことができます。
マイナスイオン、という言葉が流行りましたが、
自然の力とはそういうものではないでしょうか。

例えば樹々は葉から二酸化炭素を取り込み酸素を出しています。
一緒に呼吸して、自分の吐く二酸化炭素を酸素に変えてくれていると思うと、
悪い気が消えて行くイメージも湧きませんか...?
そういう自然さえ無くなってきている世の中ですが...。

人間は排泄を繰り返す単なる生き物です。
汗や涙や排泄物を上手く処理しているのですから、見えない自分の気も、上手く処理していく必要がありますよね。

日常が便利になった社会です。
便利さを生活で利用して行かないわけにはいきません。
便利で気を抜く場所を失ってしまった社会ではありますが、ではどうやったらそのたまりがちな気を抜けるのか、
それぞれ各人が良い解決方法を見つけておく時代になっていると考えます。










なにも盛ってないのに罪悪感...。

2017-05-28 | 思うこと
今年も半分くらいが終わりましたが...
昨年ぐらいからなんだかソワソワしているのです。
今年では1月と4月とつい先日起きたことから。

どうやら30代後半から40過ぎだと思われているらしい、という出来事が続いたのです。

大して女子力も上げてない風貌なので、
たまに女子力の上がるような事柄があると妙に新鮮なくらいなのですが、私と初めて出会う人たちの言動から、

きっとこの方、私の歳、間違えてるわ〜...

と思った瞬間に、年齢詐称でもしてるかのような落ち着かなさを感じてしまう今日この頃なのです。

昨年は買い物の時に男性からメアドを差し出され動揺...受け取れません、すいません、
とお断りしました...。

最近では、子供の新入学がある、と話したことで、
小学校1年生になるお子さん?
と言われたり...

それは世の中的にはもちろんあり得る時代ですが、
うーん...
訂正するか?年齢詐称みたいになるしなあ、
でも訂正するのもどうだろう?
本当の年齢言った時のリアクションが怖いな...
っていうかこのまま訂正しないでいることが年齢詐称か?
いやいや、自ら詐称とかしてないし〜...
相手の勘違いだし〜...

などがグルグル頭の中を回ります。

毎年歳を取ることは生きている証、生きていれば全員が経ていく有難いことなんですが、
30代後半からは歳を取る度に細胞は減り、どこかしら臓器や骨格が傷んでいるという自覚症状が出ているものです。笑

若く見られることは嬉しいことでもありますが、
本当の年齢に気づかれた時のリアクションを想像すると、怖くて言えなくなります。

花や果物や野菜って鮮度が命ですが、
新しいと思って手に取ってみたら、

あら、裏側は傷んでいたわ...実は古いのね

みたいな状況⁉︎
に、自分を置き換えてしまうワケです。

これが男性の場合だと、

あら、意外と年齢上なのね、見た目お若い...!

ということになり、
結構年代いってる建築物や宝飾品みたいに見られます。
見た目より中身、経験値に価値を起き、歳を取っているほうが味がある、
と...。

けれども女性は違います。
なので、
あ、歳を勘違いしてる...
と気づいたら
視線が天井に行っちゃいます。
ど〜しよっかな〜...って。笑


相手を絶叫させ、サザエさんのマスオさん的に
え〜〜! !
と、引かせてしまうのです...。

でも何もしてません...自らやばいことなんて。。
なにも盛ってませんし。。


2-3歳は若い...!
ぐらいの気軽さがいいな。
若く見られるほうがいい、贅沢なこと言うなっ
...と言われそうですが。

10年後だったらどうかな?

今は微妙なお年ごろなのです。


↓クラシル風...盛ってます...












"保育園落ちた..."の話題。14年ほど前の話。

2016-03-09 | 思うこと
最近巷で話題になっている、"保育園落ちた..."の件、
それらを眺めていて、
「ああ、14年ほど前に私が新聞に思いを投稿し掲載された時と、
日本は何も変わっていない」
と思いました。

あの記事、どこに行ったかな...とふと思っていたのですが、
今日別のものを探していて、ひょっこりと出てきたので
こちらにアップしてみようと思いたちました。

子供が小さいうちから保育園に入れ、無理に働かなくていい、
ゆったりとした気持ちで育児に向き合え、いつ仕事を始めても復職してもいい、
社会環境が整い、それらをいつでも自由に選択できる、というような世の中には14年経った現在も
まだまだ成り得ていないようです。

当時は今から思えば、この当院を開院したての小娘みたいな私でしたが、
新聞に投稿した内容と今の思いは変わりありません。




物陰の魔力

2016-02-10 | 思うこと
ある方の新聞コラムを読みました。
少子高齢化社会と真っ向から闘う政府の考え方は少し違うのではないか?
という内容でした。
その方の主張は、少子高齢化社会は時代なのだ、それは私達が望んできたある意味の豊かさで、
多様化したいと願ってきた人それぞれの自由な生き方というものが成熟した結果なのだ、
闘わず受け入れる姿勢であるべきだ、
というものでした。

なんとなく感じていたものを言語化されたような気がしました。
目からウロコ、というほど劇的なものではありませんが...。

コラムを読みながら、少子化という点に繋げて、"草食男子"や"おひとり様"という言葉が浮かびました。
男性も女性も晩婚化。
悠々自適な暮らしを望み晩婚化が進むほど、男性にも女性にも育児の機会は少なくなるのは否めません。
女性の出産育児にはタイムリミットがあるのですから、晩婚化すれば子供を何人も産み育てることが
できるのは稀でしょう。
男性、女性が出会うきっかけを失い、年齢が上がっていけばいくほど、
子供を持つ機会も減少するものです。
そうして少子化になってしまうわけです。

彼氏が出来ない、という話より、彼女が出来ない、という話をよく聞きます。
女性の方がやはり男性のほうよりもタイムリミットをつぶさに感じており、
出産育児という生物的な母性を脳裏の片隅に昼夜視野に入れている分、
彼氏を作り結婚出産へ!とどこかでいつも意気込んでいるような気がします。
人生、つまり生命を運んでいく力強さを生まれながら身につけてるのではないでしょうか。
そう、人を生物学としてヒト科動物と見なせば、ヒト科の男女はなんだかカマキリの雄と雌のように感じてしまいます。
カマキリのように雌が図太く長生きで、雄は食われて短命...
いえ、食いものにされてしまうほどか弱い性を持ち合わせているのです。
(あまりフォローにはなってませんね。)
女性はいざとなれば火事場の馬鹿力を出すように、彼氏ゲットだ!婚活だ!と生命力豊かになれる点も、
ある意味"女子力"と呼びたい気がします。
女子力とは可愛らしさ、美しさ、煌びやかさだけではないのでしょう?笑

話を戻しますが...
少子高齢化社会は時代の変遷がもたらした産物で、過去の時代の目線でいてはおかしい、合わない話なのです。
少子化に焦点を合わせれば、今の時代は少子化になってしまうような環境が整い過ぎているのです。
家族が核家族化し、その上一人一人が快適な個室を持ちました。
邪魔な家庭内人間関係は減り、素敵な心強い家電という家来に囲まれています。
一家に一台だった家電は、一人一人が持ち合わせています。
マイエアコン、マイテレビ、マイ電話(携帯)...
家の中にでさえ、人と分かち合うことへ豊かさを感じる環境はほぼ消えつつあります。
一人一人が快適に暮らす環境があれば、
家族から離れて暮らしたいという意欲は無くなっていくものです。
家族と離れたいと思うからこそ、外に男女が出て出会うきっかけにもなっていたのではないでしょうか。

街の中はどうでしょう。
街から路地裏や街角は消えてしまいました。
男女が外に飛び出したところで、男女がひっそりと時間を分かち合う場所は無くなってしまっているわけです。

商業施設が巨大化し、カフェはオープン化。
危険だから防犯だから、と、公園や街路樹の樹々は全て見通しが良い明るい環境になるよう
伐採されるようになりました。
街から匂いが消えてしまいました。
嗅覚をくすぐる近距離が失われてしまったのです。

男女が長く安心していられる環境は、堂々たる物陰のない明るい環境ばかりでしょうか。
もちろん、人目もはばからず...なんてカップルもいますが...。

男女が出会い、時間を育む環境が無くなってしまいました。
今はネットで出会えるから、と言われるかもしれません、
しかし、人を知るには実はそういった物陰や近距離で長時間いられる環境が必要な環境なのではないでしょうか。

男女が距離を縮める場がなければ、間違い、事故はおこりません。
もちろん間違い、事故ばかりがある社会はあってはならないのでしょうが、
健全な男女のためには、勢いというか、タイミングというか、
はずみのような間違い、事故というものも、出会いや育みには必要なもののような気がします。
それらを生む立役者として、物陰は魔力ある場所だったのではないでしょうか。

...とにかくそんなふうに時代は変わりました。

あくまでこれは私の視点ですが、特に少子化において時代も環境も変わってきた中で、
何かのために何かが行き過ぎてしまい、
そのようにもしマイナス面が出てきてしまっているならば、
単に闇雲に何かが悪い、と闘うのではなく、もう1つ何かエッセンスを加えるなどで対応し、
私達が時代に置いて行かれないような、生きやすい社会や街を考えて行けたらいいのにな、
とふとそんな思いに行き着いたのでした。