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Tさんのページ https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/untitled-c1lrs
しばらくホームページのブログを更新していなかったので、友人から問い合わせメールがありました。ご心配をおかけしてすみません。元気です。
ホームページで「Tさんの証言」をご覧になった方から、ずいぶん前にいただいた感想メールを、昨日再び目にする機会があり、私自身ゲラゲラ笑ってしまいました。本人の許可を得て公開します。以前スクールカウンセラーをしていらした方の感想です。
Tさんのお話はぜひたくさんの方に聞いていただきたいと思います。秩父の旧中川村開拓団でした。終戦時12歳ですが、残留婦人と同じような不条理な運命を生き貫いて、今ふるさとに帰り、穏やかに生きています。お庭には色とりどりのダリアが咲き誇っておりました。
以下、いただいた感想です。
(略)すごく、個性的な方ですね。「わすれた。」が多くて、さぞかし、インタビューには苦労されたでしょう。特に年齢を聞き出すところは、最後の最後まで、先生があきらめず、子供さんの事や、結婚した年齢など、いろいろな視点から、永住帰国の年齢を探り出そうとしている様子が、漫才の掛け合いみたいで、一人で笑いながら聴いておりました。
(先生) 「・・・・何歳の時でした?」
(証言者) 「覚えてない。」
(先生) 「覚えてないかー。」
先生の開き直りとも、あきらめともとれる、このオウム返しが面かったですよ。ただ、この方は本来「終戦」というべきところを、ずっと「戦争」と言ってました。終戦がこの方には戦争
だったんだと思いました。最後に、自分のお母さんや弟達の死んだ経緯を語ってくれましたが、私には胸が締め付けられるような思いでした。
12歳で一人ぼっちになった彼女は、まず、「一人で逃げた。どうして、弟と一緒に逃げなかったのだろう。私のせいで弟が死んだ。」「お母さんが自殺した。私はお母さんと弟を守れなかった。お母さんは私を置いて死んでしまった。」
12歳の少女の心に残ったトラウマを見ました。子供は、自分を守るために、ものすごく怖い体験は忘れようとします。この方が最初に年齢を「忘れた」と言ったのはこの強烈な敗戦の体験、家族を無くした体験があったから。まだ、よく知りもしない人には話せなかったのだと思います。それは、「逃げた。」という言葉が何度も使用されている事と無関係ではありません。自分一人逃げて、生きてきた事にずっと負い目を感じていたのだと思います。一人だけ助かった事を、外の人に咎められはしないかと、ずっと怯えながら隠し続けきたと思います。その一方で、目の前の過酷な現実は、いやが上にも、どうにかして生きていかなければならない、悲しみに浸っている場合ではなく、自分の明日の命を守らなければいけない現実があります。彼女の口から、「しかたのなかった事だったのだ。」という言葉をきいた時には、彼女は救われたと思いました。自分を自分で責めなくて済みます。先生と話をするうちに、だんだん心を許していったのでしょう。最後は笑い声さえ出して。この心の奥の重い記憶は、先生に打ち明けることで、また少し軽くなったと思いました。最近、戦争体験者、原爆の体験者、大陸からの引揚げの体験者など、次々と話をしてくれるようになりました。それは自分たちが老いて、戦争が風化していく事を恐れたからだと思っていましたが、もちろん、それもあろうかとは思いますが、この、トラウマによる事も原因ではないかと思ってます。終戦直後は、忘れたかったでしょうし、公表してはいけない事もあったでしょう。長い年月が過ぎて、やっと自分達のトラウマから少しずつ、心が解放されてきたのだと思います。
「誰も悪くない・戦争が起ったことが一番悪かったのだ。仕方の無かった事だった。」と考えられるようになったのでしょう。
この方の、「今は幸せ」という言葉が、悲しみをいやしてくれます。(略)
これまでインタビューしてきた中で、集団自決を奇跡的に生き延びる事ができた人が5人おりました。北海道に住む麻山事件の鈴木幸子さん以外は、あまりマスコミに取り上げられることもないので、紹介しようと思います。是非、ご本人の語りを聞いていただきたいと思います。
アさんの証言
「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言」アさんの場合http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cysu
【満洲生まれ】
昭和15年(1940)1月18日、中国で生まれた。父は開拓団の先遣隊で満州に行っていたが、日本に戻り、母と結婚して、数か月後また開拓団に戻る。その時、私は母のお腹の中にいた。満州で生まれた。田んぼではお米を作っていた。小さい頃はお米を食べていた。
【終戦】
終戦の時、私は5歳。その時の記憶は全部覚えている。父は、終戦前の3月に兵隊に行った(徴兵された)。家は母と私と弟の3人だった。隣に住んでいたSさんと村の人みんなで集まって、歩いて本部に行くことになった。一晩大きい家に泊まった。次の日、朝ご飯はなかった。本部まで何時間かかるかわからなかったけど、ずっと歩いて山の中で、みんな日本人のSさんに殺された。その村だいたい60人くらい。みんな殺された。なんで殺したかわからない。おばあちゃん、お母さん、年寄り、子供、病気のおじいさんとかいた。最初泊まった夜、みんなに白い薬を渡して飲んだが、次の朝、誰も死ななかった。次の日、山に行って皆をナイフ(短刀)で殺した。Sさんの他に女の人二人いたけれど、わからない。弟がお腹すいたというので、弟をおんぶしてとなりのトウモロコシ畑に入って、トウモロコシを生で食べていた。もどったらお母さんはナイフで殺されていた。みんな死んでいた。なんで殺されたのかわからなかった。私はSさんに鉄砲で撃たれて気絶した。雨が顔に降ってきて生き返ったら、おんぶしていた弟は顔が血だらけで顔が分からなかった。お母さんは生きていなかった。私は5歳、弟は3歳の時だった。私は目が覚めて殺されるかと思ってその山から逃げた。二晩くらい逃げた。水を飲んでお腹がすいたら、新芽や草を食べて、二晩くらい山の中にいた。
養母が山でまきをとりに来たときに私を発見して家へ連れて行った。養父は私の体が血だらけで、ハエの卵がたくさん付いていたので、その卵、ウジ虫が動いていたのをナイフで着物を切って、古い肉を取ってくれた。そして、柔らかいごぼうの葉を揉んで、ごま油ぬって唾をつけて、傷口に貼ってくれた。毎日毎日痛くて泣いていた。それを見た隣の人は「日本人ひどいことするなあ」と言ってた、と、養父に後で教えてもらった。2年くらいその傷が治らなかった。養父には感謝している。
終戦の一,二年後、Sさんが養父母のうちへ来て日本におじいちゃん、おばあちゃんがいるからと言って、私を日本に連れて帰ろうとしたが、私はまた殺されるかと思ってこわくて一緒に帰らなかった。
【中国での生活】
中国が飢饉で大変な時、小さい頃はどんぐりの粉、木の葉とトウモロコシの粉とまぜてむしたものを食べていた。大変だった。
1957年頃、一人ひとり中央政府が調べた。その頃私はハルピンの病院で働いていて病院の寮に住んでいた。調べられても私は小さくてわからない。日本に誰おるかわからない。といった。養父母が中国の戸籍に入れた。養父母、なぜ日本の子を育てたかわからない。スパイかと思われて調べられても私は小さいから何もわからない。でも私は日本人だからスパイだから仕事ダメと言われた。結局調べても分からないからまた仕事をした。介護や看護婦さんの手伝いやった。
【結婚】
19歳で結婚し、子どもは三人生まれた。近所にも結構日本人(残留孤児・婦人)がいて、おばさんたちが教えてくれた。会ったりもした。KさんとかTさんとか。文化大革命の時、私は中国籍だから何も変わったことはなかった。
【日中国交回復】
お父さんは、終戦になって三年シベリア送りになり強制労働をして、その後日本に帰っていた。父は私が死んだか生きているかわからなかった。父が私を探してくれた。
1957年くらいに政府が当時中国にいた子(残留孤児)を調べて私のことがわかり、刑事さんは、日本人の子どもだという事を手続きしないと困るといって手続きをした。私は日本のこと、何も覚えていなくて手がかりはなかった。
実父が、一時帰国していたMさん(開拓団で一緒だった)に、娘(私)が生きてるか死んでいるか探して欲しいと頼んだ。そのことがきっかけで、そのおばさんは私をさがしてくれた。信じられなかった。お父さんが生きていることも信じられなかった。そのおばさんに電話して会いに行ったら、「あなたはお父さんの子どもよ。お父さんとあなたの顔が同じだから。」っていわれた。小さい時の写真を父に送って、「あなたは私のお父さんですか。」って、手紙を書いた。お父さんも小さい頃の写真、お父さん、お母さん、写真を全部送ってくれた。私は小さかったので覚えていなかった。養父母に写真を見せたら、山へ行ったときお母さんを見たことあるよと言った。父の顔を見たかった。父は一時帰国してくださいと言った。父は二度目の結婚をしていた。子供がひとりいた。
【一時帰国】
私は1976年に子供二人連れて一時帰国した。日本は素晴らしいと思った。また子供と中国に戻った。お父さんの日本の家が良くて、子供は「中国は嫌だ、日本に帰りたい。」とうるさいくらい日本に帰りたいと言った。それで公安局に相談に行った。その時は、主人は離婚しないと日本へ行けないと言われた。子どもは連れて行ってもいいと言われた。私は36歳、子供たちは16歳、13歳、10歳。子ども達はお父さんと一緒じゃないと嫌だといっていた。父は「身元引受人にならない。嫌だ。」といった。「日本に帰ってくるな。」と言った。おばさんたちにも手紙を書いて身元引受人を頼んだが、「お父さんが断っているのに、お父さんの手前、私たちはできないのよ。」といった。困っていたら、中国にいたことのある中国語のわかるおじさんが、「言葉わかるし保証人になってもいい。」と言ってくれた。その人が父に電話してくれた。「どうして自分の娘の保証人にならないのか。ならないならわたしがなるよ。」と言ったら、父が保証人になってくれた。
【永住帰国】
1981年、5人で永住帰国した。けっこう同じような境遇の人で離婚して日本に帰ってきた人もいた。1976年頃は離婚して女の子だけ連れて男の子は中国において帰国した人を見送ったこともあった。当時離婚して帰国した人は大勢いたと思う。
帰国したあとも父のほうはいろいろ事情があって、友好協会を頼って実父とは離れて住んだ。私は41歳、子供は21歳18歳15歳だった。上の子は働いた。下の2人は中学校にいった。私と子供三人は国費で帰国。主人は中国人だからダメだって。夫の交通費は中国の仕事の退職金をあてた。駒ヶ根の日中友好の家のSAさんの家に入って、仕事しないと生活できないので、仕事を探した。帰国後10日ぐらいで、長男と主人と3人で工場で働いた。言葉も何もわからなかった。友好協会がバックアップしてくれた。あのころ賃金が8万円60歳以上10万円くらいだった。いじめられた。言葉わからなかったから障害者の扱いで働いた。下の2人の子は中学校で3年勉強した。先生が親切だった。半年くらいして、下平の養鶏場に転職したけどつらかった。たいへんだった。2年くらいして駒ヶ根に住んで福岡の会社で定年まで働いた。主人は別のところで定年まで働いた。
【定年後】
主人は定年後もつらかった。主人の年金は3万円くらい。主人は自分より年上で9年間働いた。自分は19年間働いて、2人で8万円ちょっとの暮らしで大変だった。田中知事になって3万円支援された。今は国からの支援金もでて医療費が無料になった。今は二人で年金で暮らせる。中国で苦労して日本に来て苦労したけど、今から考えると帰国してよかった。一番つらかったのは日本に帰って来て3,4年間がつらかった。買い物わからない、洗濯機もない、言葉もわからない。今は子ども達は自立して働いている。今の生活の楽しみは家でゴロゴロ。のんびり暮らして今が一番幸せ
アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言 Zさんの場合 http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya
ホームページ視聴者様より感想が届いています。最近ブログも更新しておりませんでしたので、よい機会。このような感想は大きな励みになります。いくつか感想が届いていますので、ホームページの紹介も兼ねて、折々、発表していこうと思います。
このホームページを本にしようとすると、膨大な文字起こしと膨大な調べ物が発生し、当初1冊に収めるつもりが2冊になり、ついには5冊(婦人編、孤児編2冊、周辺の証言、歴史と援護政策・検証)で何とか纏めることになりそうです。来春にはたぶん1冊目が出版できそうです。この仕事を終わらせないと、友人とランチを楽しむにも罪悪感が伴います。温泉に行きたい家族にも我慢を強いています。早くすべてを完成させて、身軽に自由になりたいと思っています。
感想は以下のようなものでした。以下転載。
このような、日本語が話せない人たちが、通訳の方を交えて、自分のつらかった体験を話されるのは御本人にとってもありがたい事ではないかと思います。自分だけが大変な目に遭わされて、日本にいる人たちは、この方達の存在さえ知らないでいたのですからね。今でも、世界のあちこちに、日本兵の遺骨が放置されている事を考えても、この国は国民を大切にしない国だと思っています。この方達に,パスポートだけは発給して、帰国したら、「受け容れるかどうかは決めていない。」という。日本国民だから、パスポートを発行したはずなのに、自分の国にどうして帰国してはいけないのか。不思議です。政府にとっては、招かざる客のような存在だったのでしょうね。客ではないのに。こんな冷たい国に、どんな我慢をしてでも帰りたいと思った人たちが、本当に可愛そうに思えます。最近、NHKで、戦争孤児たちが声をあげ始めました。この夏は、NHKは『ノモンハン事件』を取り上げていました。今までも、夏は必ず戦争関連の特集があります。最近は民放もやってます。この人たちの声を残してくださるのは、大変ありがたいです。一人の人の話がたっぷり聞けるという事に、このホームページの意義があると思います。
以下は、私のホームページのアブストラクトの転載です。2013年11月にインタビューしました。
昭和14年生まれ。残留孤児。インタビュー時74歳。天竜村出身。1歳の時、3人姉妹と両親の5人で満蒙開拓へ。19年に父親が招集。5歳で終戦。方正県に避難した。20日間くらい歩いた。道路脇に死んだ人がたくさんいたが誰もかたずけもしなかった。私も置き去りにされたが、母が思い直して連れて行ってくれた。
収容所では食べ物がなく、9歳、6歳の姉、5歳の私はそれぞれ貰われて行った。母はどこかでご飯炊きをしていた。半年で母の元に戻された。言葉もわからずそこにいたくなかった。その後、母は再婚した。農地改革があり、私が10歳の時、山東省へ引っ越した。3,4年後養父が亡くなった。養父との間の妹は学校に行けたが私は行けなかった。19歳までずっと農業をしていた。生活は苦しかった。食べられるものは、木の皮、草の根、何でも食べた。1969年、母は餓死した。大勢が餓死で亡くなった。
母が亡くなってからは、中国人として生きてきた。日本人を隠し中国籍だったので、文革の時いじめられることはなかった。結婚する時、相手にも言わなかった。一時帰国を3回した。日本の叔父さん、叔母さんが判明した。
1999年、次男家族(3人)と一家5人で永住帰国。私59歳、夫58歳。次男31歳、孫5歳。4か月帰国者センターで日本語の勉強。その後飯田市で8か月日本語の勉強をした。授産所で夫婦一緒に6年間、65歳まで働いた。収入は少なく生活保護も受けていた。三男も呼び寄せ、次男と三男は日本語も中国語もできるので、日本国籍も。会社から中国に派遣されて立派な仕事をしており家も建てた。
台湾の優しさ(注1)
冬になると、暖かい台湾か沖縄に行きたくなる。今年は台湾。大好きな台湾。いつも来るたび思うことは、人々が優しい。
遠い遠い記憶を辿ると、娘たちが小学生の頃(20数年前)、アメリカのユニバーサルスタジオに遊びに行った時の出来事。アトラクションに並んでいると、娘がティッシュを要求する。バックの中もポケットの中も探したが、もう使い切ってしまって、私はハンカチを差し出した。するとその様子を知ってか後ろに並んでいたご婦人グループが「どうぞ使ってください。」とティッシュを差し出してくださった。そしてお決まりの「どこから来たか」尋ねると「台湾です。」との答えだった。私は虚を突かれて驚いた。〈そうだった、日本は50年間も台湾を支配していたのだった。〉と思い出した。それは美しい流暢な日本語だった。「どこが良かったか、どこへ行くのか。」しばし旅人同士の会話を楽しんだ。それが30代の私が経験した最初の最初の台湾の人の優しさに触れた出来事だった。
今回もたくさんの優しさの中にいる幸せを感じている。
最初のホテルをチェックアウトする時の出来事。
フロントに、「タクシーの運転手さんに、夫は杖をついているので、なるべく駅の切符売り場の近くで降ろしてくださるように頼んでください。」とお願いしたところ、支配人は日本語を話せるフロントスタッフを伴い、自分の車で台北の駅まで送ってくださった。そしてフロントスタッフは切符売り場までトランクを運んでくれて切符の買い方まで手伝ってくださった。信じられない業務を超えた(?)想定外の出来事で、無口な夫も笑顔で、「謝謝、また利用させていただきます。再見。」と口を開いた。
また、台中のコンドミニアム滞在中、近くのスーパーに買い物に行った時の出来事。
日用品や食料品など、一通り必要なものを買い、会計を済ませると、スーパーの袋4つ分になってしまった。すると近くにいた店員さんがたどたどしい日本語で、「ホテルまでお持ちします。」と、重たい袋を一緒に運んでくださった。
また、ある日、バス停でバスを待っている時の出来事。
隣のベンチの老人が日本語で話しかけてきた。私が日本語のプリントを読んでいたからだろうと思う。公学校(注2)の先生がとてもいい先生だったということを懐かしそうに話された。死ぬまで尊敬し続けると話され、「仰げば尊し」を歌いだした。続けて「蛍の光」と「海」ともう一曲、私の知らない歌だけれど懐かしい歌、「峠の我が家」にも似ているし「埴生の宿」にも似ている歌、を、披露してくれた。これから教会に献金に行くところだという。私が日本人であるというだけなのに、親近感を持って接してくださる。そういう方に何人もお会いした。
極めつけ。
先日、果物屋の店先で立ち話をしている人に、バス停の位置を聞いた(言葉がわからなくても、こちらのバスはすべて番号を言えば通じる。しかも台中は悠遊カードで無料なのだ)。すると客らしきバイクにまたがったご婦人から、何か話しながらヘルメットを渡された。「えっ、うそー!」と思いながらも意に反して自動的にヘルメットを被ってしまっている自分がいた。あっという間の出来事。私は彼女の腰にしがみ付いて、狭い路地を右に左に傾きながら(けっこうな体重なので、曲がる時かなり傾くのだ。)命からがらバス停まで送ってもらった。台湾では親切を受けるのも命がけの体験なのだ。日焼けした彼女の笑顔に「再見―!」と大きな声で別れを告げることくらいしか感謝の気持ちを表現できなかった。
台湾に来るようになるまで、台湾の事を本当に知らなかった。2、30年前に司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの『台湾紀行』を父の本棚から拝借(?)し読んだくらいだった(注3)。その後、司馬遼太郎のガイドをした蔡さんの本や『増補版 図説 台湾の歴史』(周 婉窈)などを読んだ。そして、当然のことながら日本統治時代の事に私の関心は行った。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡したそうだ。できれば元日本軍兵士として参戦した方、従軍看護婦(補助だったらしい。手記も1冊読んだ。)だった方にもお会いしインタビューしたいと思っているが、もはやかなり難しい。ご縁があって数名の方にインタビューできたが、皆さん、90歳前後になっている。遠慮がちな用心深い語りからは、何かを語ることで何かを失う事を警戒しているのかも知れないと思う。ちょうど文化大革命の洗礼を受けた中国残留孤児の警戒心と白色テロを経た台湾の元日本兵の警戒心が重なる。とっくに覚悟を決めて堂々と語れる人々もいる。38年間の戒厳令が解かれ、今年で31年目になる。台湾の歴史が、今後どのように変わるのか変わらないのかわからない。ただ、今を生きている日台時代の方に、どのようにこれまで生きてきたのか、日本語による皇民化教育(注4)と戦後の中華教育、その狭間で、白色テロを経て、時代の変化とアイデンティティーの変遷、台湾人の誇りなど、お話を伺いたいと思っている。
3年前に来た時に、偶然228記念館の張さんにインタビューできて、ホームページにアップした。すると私の友人達や視聴した方から「知らなかった。」という反響が多くあった。私は張さんが話してくれた歴史は知っていた。しかしそれくらいしか知らなかった。だからもっと知りたいと思う。庶民の生活(個人史)が歴史の中でどうだったのか、知りたいと思う。興味・関心を同じくする私の友人達にも知らせたいと思う。自己満足かも知れないけれど、台湾の事を知る人が増えること、それが台湾の優しさへの恩返しに少しでも近づくことになればと願います。
(注1)「台湾の優しさ」については、少し長い文章になるが、その原因を歴史的にも考察したWikipedia「日本統治時代の台湾」に詳しい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
(注2)日治時代、台湾の子供は「公学校」、日本人の子供は「小学校」に通っていた。教師はほとんど日本人。わずかに台湾人もいた。
(注3)関連記事、 2016.3.25の当ブログ「台北市 二・二八紀念館に行ってきました。」
(注4)『台湾 韓国 沖縄で日本語は何をしたかー言語支配のもたらすものー』(古川ちかし他 三元社2007年刊)は、難しくて何を言いたいのかよくわからなかった。その上、字が小さいので、1時間も読むと字が霞んでしまう。老眼には優しくない本。古川ちかし氏と春原憲一郎氏の論考だけ読んだ。日本語教師時代、ふたりにはお世話になったので。この題名が示す内容、日本語教育の功罪を実証的な論文で是非読んでみたいと思う。