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法政大学 高柳俊男先生のインタビュー記事(大正大学『地域人』No.60)と「推薦の言葉」

2020年08月18日 20時39分32秒 | 取材の周辺
拙著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)(下)』に、推薦の言葉を書いてくださった法政大学の高柳俊男先生のインタビュー記事が、大正大学『地域人』第60号に掲載されました。留学生のフィールドワークの様子を知ることができます。その中に、私の本の「推薦の言葉」に書かれていた三六災害の『濁流の子』碓田栄一氏のことも、郷土史の文脈の中で紹介されていましたので、全体像を探ることができました。感想を寄せてくださった多くの方が、高柳先生の「推薦の言葉」に感動したと記していますので、ここに一緒に紹介することにします。







《推薦の言葉》                         
藤沼敏子著『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』に寄せて
「不条理な過去を未来へとつなぐために」
                   法政大学教授 高柳俊男
藤沼敏子さんとの出会い
 私が藤沼敏子さんという人物を知ったのは、いまから四年前の2016年だった。その春、私は前年に歌集『伊那の谷びと』を自費出版した小林勝人さんをお招きして、歌に込めた想いなどを伺うイベントを、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で開いた。というのは、私の所属学部では2012年度以来、伊那谷を舞台に夏休みの学生研修を実施しており、私がその担当者を拝命している。満蒙開拓や中国人強制連行をはじめ、かつて生業だった養蚕や近年の過疎化など、小林さんの詠んだ短歌を媒介に、伊那谷の経てきた近現代史の歩みや精神史のようなものを、ともに考える場が設けられないかと思ってのことだ。
イベントの終了後、ネットを見ていて、藤沼敏子さんという方が自身のブログでこの件を詳しく紹介しているのを知った。そこにはこのブログで以前、小林さんの歌集を紹介したことに続けて、「小林さんは目立たない地味な仕事を労を惜しまずなさっていらした」「お二人は、かつて旧満洲を訪ねる旅で同行して以来の交流仲間とのこと。高柳先生は、小林さんの地道な努力を研究者として高く評価してきたと言い、先生からこの対談企画を申し出たという。嬉しい!」などと、きわめて好意的に綴られていた。そこで、ブログ宛てにお礼を書き送ったり、藤沼さんがどんな方かを小林さんに尋ねたりするなかで、初めて交流が実現した。同年夏、同趣旨のイベントを東京でも開催した際には、藤沼さんも足を運んでくださって、お目にかかることもできた。
それ以来、約四年間。ご本人は1953年、栃木県生まれの由だが、私も栃木県が郷里で生年が1956年なので、奇遇に感じる(ついでに名前の読みも?)。立教大学で教え、小さな民の発想で歴史を学ぶ意義を説いた故・森弘之先生(インドネシア史)を、藤沼さんは「尊敬する恩師」と書いているが、私も台東区谷中のお寺の住職でもあった森先生に学部時代以来お世話になってきたので、その意味でも身近な存在に思う。
その割には、いまも藤沼さん個人の経歴については知るところが少ないのだが、ここで何よりも強調すべきは、彼女がかつて満州(中国東北部)で暮らした体験者を全国に訪ね歩き、二百人前後から聞き取りを行い、その映像を自身のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」(https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya)上にアップするという、地道な作業を永年にわたって続けてきたことである。そのことを知り、実際に映像のいくつかを見るに及んで、私は正直圧倒された。研究機関に籍を置く恵まれた立場の研究者でもないのに、どうしてここまでできるのだろうか? もちろん、こうした作業を可能にする前提として、時間的な余裕や一定の経済的な裏付けは必要かもしれない。しかし、日本の満州政策の下で過酷な人生を送らざるを得なかった人々の声に耳を傾け、それを聞き書きとして残さねばという強い意思、さらには一種の使命感のようなものがなければ、そもそも不可能な営みなのではないか?
それ以来、私にとって藤沼さんは、一目も二目も置く人物であり、脱帽の対象であり続けている。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』刊行をめぐって
藤沼さんが、ネット上に映像をアップした聞き書き記録を文字化する作業を進めていることは、本人からしばしば耳にしていた。そして、全四部作を見込んだ最初の一冊『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』が、昨年刊行された。その際、これまでの不断の努力が少しでも報いられるよう、私も何かお力添えできないかと考えた。
幸い、私の本来の専門である朝鮮関係でその頃たまたま知り合った人に、「東京新聞」記者の五味洋治さんがいる。出身は長野県の茅野市で、満蒙開拓にも大いに関心があるという。彼に相談を持ちかけたところ直ちに快諾、藤沼さんの居住地を担当する同社の中里宏記者に話を回してくれ、大きめの紹介記事が年末の同紙(二〇一九年十二月二二日付)に掲載された。ここでは、本書が「貴重な口述の歴史資料」だとしたうえで、藤沼さんが日本語ボランティア講座のコーディネーターとして活動する中で日本に帰国した中国残留婦人と親しくなり、インタビュー調査が始まった旨を記している。末尾には、本書がオンライン書店のアマゾンで販売中とも付記されていた。
この記事掲載で、藤沼さんにこれまでのご恩返しが多小なりともできたかと、いったんは胸をなでおろした。ところが、全国の大学図書館などの蔵書が一度に検索できるCinii Booksで調べると、現時点で所蔵が確認できる大学はわずか五校しかない。しかも「東京新聞」配布の中心エリアと思われる東京都内では、私がこの記事を添えてリクエストした法政大学のみである。もっと宣伝して、藤沼さんの仕事を幅広く知ってもらわねばとあらためて思う。
ちなみに、都内の公共図書館の所蔵を横断検索できるサイトによれば、区立ないし市立の図書館でヒットしたのはあいにく品川区のみ。都立図書館所蔵本が貸出中で、予約も三件入っていたのがせめてもの救いだった。

前著『不条理を生き貫いて:34人の中国残留婦人たち』の内容から
では、前著についてごく簡単に紹介してみよう。本書は、いわゆる中国残留婦人(国の定義だと終戦時に一三歳以上の女性)からの聞き書き集で、五五〇頁以上におよぶ大冊である。章立ては、第Ⅰ部が満蒙開拓団(各開拓団ごと)、第Ⅱ部が農業以外の自由移民、そして第Ⅲ部 サハリン残留邦人(例外的に男性からの聞き書きを含む)、第Ⅳ部 大陸の花嫁、第Ⅴ部 日本に帰らない選択をした残留婦人、と続く。残留婦人等とされる計三四人の、満州渡航の経緯、現地での生活、ソ連軍侵攻後の逃避行、死と隣り合わせの収容所生活、新中国での暮らし、日本に帰国してからの日々などが項目別に記されている。ソ連軍による婦女暴行や中国での人身売買をはじめ、結婚・出産・育児など、女性ゆえの証言がとりわけ重たく響く。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の価値観が、現地の中国人に嫁ぐに至った女性たちを苦しめたことも、男性とは異なる点である。それぞれの聞き書きには、本人の語った特徴的な言葉がタイトルとして付され、差異化が図られている。
基本的には、ネット上に音声で載っている証言を文字化したものだが、こうした作業が必要な大きな理由として、インタビューに応じてくれた方々が高齢で、インターネットにアクセスできないためと説明されている。
一般的に言って、他者からの聞き書きは思うほど楽な作業ではない。私も自分の研究の必要上、特定の体験をもつ個人からお話を聞かせていただいたことが多々あるし、大学史委員会の業務として、学徒出陣を体験した卒業生からの聞き取り作業に、同僚たちと数年間、これがラストチャンスになろうとの予測のもと従事してきた。私が考える聞き書きの最大の難しさは、「こちらの器の大きさに応じてしか話を聞けない」こと、つまり自分の体験していない世界の話を聞くので、聞き手側に知性の点でも感性の点でも十分な備えがないと、相手の話を最大限に引き出すことができない、という点である。そして、一定の人間関係、つまり相手からの信頼がないと、奥深いところまで語ってくれはしないという問題もある。時間の経過による忘却・記憶違いや、意識的・無意識的な自己弁護もあり得る証言内容をどう整理し、いかに事実を確定するかも含めて、神経を使う作業の連続である。本書の場合も、証言者を探し出し、連絡を入れて取材のアポを取り、現地まで出かけることから始まって、全過程に費やされた時間や労力は想像を絶する。
私が本書で特徴的だと思う点を三点挙げると、まずはある個人の証言が、一つには本書における文字資料として、もう一つはその表情や語り口もわかるネット上の映像により、二つの媒体で確認できることである。これは、両者それぞれの長所を活かし、短所を補完するという意味で、なかなかユニークな試みだと思う。場合によっては、固有名詞の間違いなど、著者の作業の不備が露呈してしまうことにもつながるが、そのことを厭わず、むしろそうした検証の機会を読者に提供している態度を公明正大に思う。
第二の特徴は、一つもしくは関連する複数の証言のあとに「証言の背景」という文章を入れ、語られた内容をより理解しやすくするための解説を丹念に加えていることである。たとえば、「第Ⅳ部 大陸の花嫁」では、満州に移民した青年男性が「屯墾病」(一種のホームシックのような疾患)に罹らず現地に定着できるよう、未婚の女性を一定の訓練を施したうえで大陸に送る「大陸の花嫁」と呼ばれる政策があったことが、各種の資料から説明される、といった具合である。
そして、第三の特徴として挙げるべきは、戦前戦中の満州での日常や、死の逃避行の話以上に、戦後の人民中国や帰国後の日本での人生に多くの分量が割かれていることだと言えよう。新中国の荒波を、養父母の人間愛に支えられ、またときにはスパイ視されるなどの理不尽な扱いを受けながらも命を繋いできた行動力や、帰国後の「祖国」での悲喜こもごもの想いなどに焦点が据えられている。

記録を残すということ―過去を未来へとつなぐ
冒頭で、学部で実施する伊那谷研修の担当者だと書いたが、研修の引率だけでなく、週一回の事前学習授業も担当している。そこで毎年扱う項目の一つに、伊那谷を梅雨末期の集中豪雨が襲(おそ)い百人以上の犠牲者を出した、一九六一(昭和三六)年の三六災害がある。自然災害の事実だけでなく、そこからの復興の過程や、とくにその記憶や記録を後世にどう残し教訓化しようとしているかに重点を置いて講義している。
その際、恐怖の三六災害を経験した子どもたちの作文を集め、ガリ版刷りで記録集『濁流の子』を作成した、箕輪町の碓田栄一氏についても触れている。行政や学校関係者ではなく、一個人がこうした作業を黙々とこなしたことに驚くが、実は本人は当時まだ高校を終えて大学に入ったばかりの、十代末の若者だったのである。記録を残し、過去を未来に活かそうとしたこうした孤独な営み、無償の行為こそ、私たちが真に記憶にとどめるべき事柄であり、まさに森弘之先生のいう「小さな民」の歴史ではないだろうか。碓田氏はその後、寄せてくれたものの当時は収録できなかった作文を、続編や補遺として世に出している。こうした行為がようやく認められて、いまでは信州大学などが三六災害関連資料を集めてつくるデータベースが、「語りつぐ“濁流の子”アーカイブス」(http://lore.shinshu-u.ac.jp/)と命名されている。
年齢の違いはともかく、藤沼さんの場合もこれに等しい営みだと言えよう。満州移民関係の本は、開拓団のいわば正史や体験者個人による回想録から、外部のルポライターないし研究者がまとめたものまで、実に膨大にある。とはいえ、公の機関ではなく、専門の研究者でもない立場から、これだけ多くの場所を訪ね、これほど大勢の聞き書きを残すのはきわめて異例と言えよう。しかも、苦難の人生を生き抜いてきた一人ひとりの生に寄り添おうという姿勢が、ひしひしと感じられる。それら多くの証言を通して、日本の庶民にとって満蒙開拓とは何だったのか、先の大戦とは何だったのか、その真相を明らかにしたいという切情に溢れている。彼女たちが、語りにくい話も含めて自分に語ってくださったことへの感謝の気持ちが、聞き書き活動のエネルギーの源泉になっているかもしれないとも思う。
藤沼さんの仕事は、これからもまだまだ続けられる。読者は、満蒙開拓という「被害」と「加害」の入り混じった歴史の重さ、今も残る課題の大きさ、そしてこの聞き書き集の分量の膨大さの前に、一瞬たじろぐこともあり得よう。ただし、まずは一編でもいいので、証言者の生の声に耳を傾けてみてほしい。そこから何か新しい認識や発見が生まれるかもしれないし、時代や環境こそ違え、同じ人間としての喜怒哀楽や、辛酸を乗り越えてきた個々人の生き様から、心に沁みるメッセージが届けられるかもしれない。「若い人にも読んでいただきたい」(前著の「はじめに」)という筆者の希望が、少しでも達せられることを願いたい。
この小文を書きながら、いまの聞き書き集の仕事が一段落したら、藤沼敏子さんの自分史もぜひ読んでみたい思いに駆(か)られた。そのことで、彼女がこれほどまで精力を注いで中国帰国者の聞き取りをする深い背景、藤森成吉を借用すれば「何が彼女をそうさせたか?」がわかり、この聞き書き集がより立体的に理解できるのではないかと思うからである。



「証言22 池田肇さん」の故律子夫人の「旧満州開拓移民記録」が、古いパソコンから出てきた。

2020年08月14日 14時21分30秒 | 取材の周辺
『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上下巻)』を関係各位に送り、早1か月近く経つというのに、たくさんの手紙やメールが今も続いている。
「証言22 池田肇さん」から、「本にしてくれてありがとうございます。とても嬉しかった」という礼儀正しいお電話をいただいたのは、発送直後でした。その時に頂いた電話で、「インタビューの中で、奥様が手記をパソコンでまとめられていると伺いましたが、それは読むことはできますか?」とずっと気になっていたことを尋ねた。池田さんは、奥様は「自分よりもっと大変な生活をしてきた。生きてる間に藤沼さんに話を聞いてほしかった」と。それから三日ほど前に、息子さんの協力を得てプリントアウトして送って来てくれた。新聞の切り抜きは、後半が切れてしまったものしか見つからなかったそう。たぶん11年くらい前の信濃毎日新聞のようだ。

 奥様の律子さんは鹿児島県奄美大島出身、大羅勒密開拓団だった。旧姓は阿世知律子さん。二人とも残留孤児同士の結婚だった。律子さんは帰国当時、全く日本語が話せなかったそうです。息子さんが古いパソコンを持ってきてくれたのがきっかけで、「あいうえお」から勉強を始めたそう。中国帰国者の日本語教室や交流サロンに通い、字を書くことが苦手だったのに、キーボードを打って日本語の文章を書くことができるようになって、大変喜んでいらしたそうです。律子さんは、中国で夜間学校に三か月しか通っていません。
律子さんの渾身の努力が実を結んだ「終戦時記録」と「旧満州開拓移民記録」です。






新刊『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』(津成書院 2020.07.12)

2020年07月20日 18時11分23秒 | 取材の周辺
 この度、やっと、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』上梓いたしました。二冊同時というのは、校正の段階がかなり大変でした。昼も夜も寝ても覚めてもという感じで、「疲れた」が口癖になってしまいましたが、娘の前では禁句で、30連勤とか、33連勤とかしているので、「疲れた」と言うと怒られます。
 最初は1冊の予定でしたが、削ることができず、2冊になりました。それでも原稿はかなり削りました。ルビも振ることができたので、婦人編よりもかなり読みやすくなっていると思います。
 一昨日と昨日、近所の友人に手伝っていただいて、証言者・支援者・関係各機関への発送作業をしました。

 今朝は、一番に池田澄江(中国残留孤児国家賠償訴訟団長)さんから、電話がありました。続いて支援者、証言者、研究者、証言者の奥様、友人…と、献本へのお礼の電話やメールがひっきりなしにあり、対応していました。嬉しかったのは証言者の皆さんの電話です。独特の日本語で「感動した。涙出るよ」や「人生で一番のプレゼントよ」や「苦労多かったね」の慰めの言葉や、「夜寝られない(嬉しくて眠れない)」と言ってくれた皆さん。私も嬉しくてウルウルしてしまいました。皆さん本当に苦労してきた分、情が厚いのです。皆さんの言葉で、疲れも何のその、また頑張ろうという気になります。
 また、古い友人からは昨夜、面白くていっきに上巻を三分の二まで読んだと電話が来ました。前作よりも読みやすいという感想も添えて。
 もう一人の友人からは、「森本毅郎 スタンバイ!」というラジオ番組で、前作の私の本が紹介されたというお話を伺いました。ご主人様がラジオを聴いていたとのことで、詳しい内容はわかりません。残念です。どんなふうに紹介されたのか聞きたかったですが、当方には全く連絡はありませんでした。
 昨年、東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』が取り上げられましたら、驚くほどの反響がありました。まだまだこのような分厚くて地味な本を読みたいと思ってくださる方がいることが嬉しくて、今回の孤児編を書く上で大きな励みになりました。
 次回作、『WWⅡ 50人の奇跡の証言集』では、満蒙開拓青少年義勇軍、元軍人、従軍看護婦、満州からの早期引揚者、サハリン残留邦人、台湾の元軍人等が登場します。
 JRC人文社会科学書流通センターが取次店となり、注文すれば、日本中の書店で買えるようになりました。アマゾンは当分お休みします。
 世界一小さな出版社、津成書院のこのような地味な本が、本当に読みたいと思ってくださる方の手に渡ることを願っています。
 


間もなく『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』(上)(下)二冊、刊行。

2020年06月20日 07時12分13秒 | 取材の周辺

 コロナ禍の中、いかがお過ごしでしょうか。
 昨年7月、『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』を書きあげてから、ずっと家に籠って『孤児編』を書いていました。途中、2か月ほど、食事を作るのが面倒になって、熱海に避難しました。しかしそこでも、熱海市内に感染者が5人出たということで、食堂で食べられなくなり、お弁当になってしまいましたので、帰って来ました。

 やっと、間もなく『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち』(上)(下)二冊、出版されます。たぶん7月12日頃になるかも知れません。500ページ以上の分量の校正を二冊同時期にするので、何時とはっきり言えません。

仕上げの段階に入って、図書館が使えない、調べ物ができないというアクシデントに見舞われましたが、何とか初稿まで漕ぎ着けました。

今回から、(株)JRC(旧人文・社会科学書流通センター)が、発売元になって、流通を一手に引き受けてくださいます。ご不便をおかけいたしましたが、どこの本屋さん、生協からでも注文できます。
一冊目の『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』も、同様の扱いになります。

また、昨年、各都道府県立図書館にはすべて献本しましたが、すべての図書館で蔵書扱いをしてくれていません。どこかに眠っているようです。
どうぞ、是非地元の図書館に、一冊目の本も含めて、発売前からリクエストしてくださいますようお願いいたします。そうすれば利用者の目から消えてしまうことはなくなるように思います。

今回は(上)に法政大学教授 高柳俊男先生が、推薦の言葉を書いてくださいました。読みながら泣いてしまうほど身に余る推薦の言葉をいただきました。また、(下)には、飯田日中友好協会理事長で歌人の小林勝人さんが、これまでの飯田日中友好協会の活動とご自身の活動をまとめた文章を、こちらの依頼に対して寄稿してくださいました。この文章を読むと、これまでの飯田に限らず長野県の中国残留邦人に対する取り組み、姿勢がよくわかります。

目次は以下の通り。
あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)
                   ―北海道・東北・中部・関東編―
はじめに              
推薦の言葉           高柳敏男(法政大学教授)
 第1章 北海道(7人) 
 証言1 國井榮治さん(花園開拓団)       
 証言2 仲野嗣男さん(開拓団名不明)    
 証言3 林 文雄さん(開拓団名不明)    
 証言4 仲野繁郎さん(開拓団名不明 )              
 証言5 木口屋菊夫さん・桂子さん(開拓団名不明)           
 証言6 木村京子さん(開拓団名不明)    
 証言7 高島久八さん(南靠山屯開拓団)              
 《証言の背景》              
第Ⅱ章 東北(9人)            
 証言8  浅黄 勉さん (北靠山屯村山開拓団)              
 証言9  浅黄千代子さん(南都留郷広富山開拓団)           
 証言10 笹原キヌコさん(大平山開拓団)           
 証言11 佐藤安男さん (板子房開拓団)           
 証言12 高橋令子さん (北五道崗山形郷開拓団)           
 証言13 伊藤伝助さん (北靠山屯村山開拓団)              
 証言14 伊藤満子さん (開拓団名不明)           
 証言15 寺崎平助さん (九江神奈川開拓団)    
 証言16 手塚智恵子さん(開拓団名不明)           
 《証言の背景》              
第Ⅲ章 中部(18人)      
 証言17 勝元桂子さん、浩さん(石川県 白山郷開拓団)              
 証言18 島田登美子さん(山梨県 父は軍人)    
 証言19 池田忠さん(仮名 山梨県 日高見開拓団)       
 証言20 北原美智子さん(水曲柳開拓団)           
 証言21 高島金太郎さん(大八浪泰阜村開拓団)              
 証言22 池田 肇さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言23 宮沢順子さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言24 牧 國子さん (大八浪泰阜村開拓団)              
 証言25 松原喜美江さん(中和鎮信濃村開拓団)              
 証言26 牧内春重さん (濃々河飯田郷開拓団)              
 証言27 多田清司さん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言28 小石峰幸男さん(新立屯上久堅村開拓団)           
 証言29 松下トシさん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言30 江本三男さん (小古洞蓼科郷開拓団)さん       
 証言31 横田花子さん (苗地伊南郷開拓団)    
 証言32 井原澄子さん (北哈嗎阿智郷開拓団)              
 証言33 丹羽千文さん (新立屯上久堅村開拓団)           
 証言34 澁谷幸子さん (東横林南信濃郷開拓団勤労奉仕隊、未認定残留孤児)       
 《証言の背景》
第Ⅳ章 関東(6人)        
 証言35 山田正宏さん (小八浪中川村開拓団)              
 証言36 斎藤ヨネ子さん(小八浪中川村開拓団)              
 証言37 萱沼康晴さん (南都留郷開拓団)       
 証言38 高橋秀哉さん (父親は軍人)              
 証言39 大友愛子さん (南靠山屯開拓団)       
 証言40 池田澄江さん (父は軍人)    
 《証言の背景》              

あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)
  ―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母編―
はじめに
寄稿  「伊那谷の中国帰国者とともに」    小林 勝人(飯田日中友好協会理事長・歌人)           
第Ⅴ章 関西(4人)        
 証言41 奥山朋子さん(内モンゴル自治区ハイラル市)奈良県        
 証言42 奥山イク子さん(北靠山屯村山郷開拓団) 京都府 
 証言43 村田日出子さん(廟嶺開拓団) 京都府 
 証言44 林 千鶴子さん(廟嶺開拓団) 京都府 
 《証言の背景》 
第Ⅵ章 山陽(3人)        
 証言45 冨樫ムツ子さん(大田開拓団) 広島県   
 証言46 高杉久治さん(七虎力開拓団) 岡山県 
 証言47 重山 厚さん(七虎力開拓団) 広島県
《証言の背景》 
第Ⅶ章 四国(4人)        
 証言48 高橋公子さん(柞木台土佐郷開拓団)高知県        
 証言49 小原茂さん (柞木台土佐郷開拓団 高知県
 証言50 大西慶子さん(開拓団名不明)香川県    
 証言51 中野ミツヨさん(江川崎開拓団)高知県 
 《証言の背景》 
第Ⅷ章 九州(5人)        
 証言52 原田育子さん(黒頂防長開拓団) 福岡県            
 証言53 川添緋沙子さん(軍事郵便局) 福岡県   
 証言54 木村琴江さん(開拓団名不明) 福岡県   
 証言55 井出誠介さん(興農合作社)熊本県        
 証言56 庄山紘宇さん(父は県庁事業課)熊本県 
 《証言の背景》 
第Ⅸ章 沖縄(5人)       
 証言57 上間敏正さん(今帰仁開拓団) 
 証言58 島尻昇一さん(伊漢通開拓団) 
 証言59 伊波盛吉さん(伊漢通開拓団) 
 証言60 平得永治さん(台北生まれ)    
 証言61 宮里竹子さん(臥牛吐開拓団) 
 《証言の背景》 
第Ⅹ章 日本に帰らない選択をした人           
 証言62 王 振山さん(瀋陽市)           
 《証言の背景》 
第Ⅺ章 中国の養父母       
 証言63 中国の養父母  白 淑雲さん(撫順市)            
 証言64 中日友好楼に住まう7人の養父母たち(長春市) 
 《証言の背景》 
おわりに 
謝辞       
著者のプロフィール           


お尋ね:昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんを探しています。

2020年05月20日 23時56分17秒 | 取材の周辺
 私のホームページに、「大連引揚船の船名」というお便りがあり、何度かメールのやり取りをして、実は、小久保さんという方が、昭和21年冬、大連港から高砂丸で一緒に引き揚げてきた山下さんという方、三兄弟を探しています。

「大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。」

たぶん三兄弟も80代になられていると思いますので、インターネットに繋がっている可能性は低いと思われます。しかし可能性はゼロではありませんので、どなたか心当たりのある方は、ご一報くださいませ。

失礼ながら超多忙につき、ご本人の許可を得て、詳細はいただいたメールとそれへの返信をそのままコピペします。

①メッセージ: 恐らく昭和21年に大連港から確か引き揚げてきました。引揚戦の名称は失念しました。
長崎の佐世保港に上陸し、すぐに熊本の収容所に収容され、名古屋の親戚に保護されれました。 遠い記憶によれば満州里からハイラル、新京、奉天、大連と脱出して来たようで途中岡山、大阪、 東京とたどり着き名古屋で親戚の家に保護をされました。確か弟がいたようですが、今は記憶にあ りません。昭和21年冬だと思いますが、引揚船名前を知りたいのですが、同船していた 山下さん言う方を50年探しております。もうお亡くなりになったともいますが、藁を掴む思いで お便りをしております。 前田一
②返信:




前田様
メッセージありがとうございます。大変なご苦労をなさいましたね。開拓団で行っていらしたのですか?
大連港からですと、ネットで調べて以下の引揚船の名前が挙がりました。
第一次大連引揚船の船名(五十音順)お よび運航便数 雲仙丸 3 回、永徳丸 5 回、永禄丸 4 回、 英彦丸 4 回、栄豊丸 3 回、遠州丸 3 回、 恵山丸 4 回、信濃丸 6 回、信洋丸 2 回、 新興丸 3 回、宗谷丸 1 回、高砂丸 4 回、 辰春丸 2 回、辰日丸 3 回、第一大海丸 4 回、大久丸 3 回、大瑞丸 3 回、大郁丸 2 回、長運丸 3 回、日王丸 1 回、白龍丸 1 回、北鮮丸 3 回、間宮丸 1 回、明優丸 3 回、弥彦丸 3 回、米山丸 2 回 以上、延べ 26 隻/76 便で
この中にあればいいのですが。また、山下さんの故郷とか、下のお名前とか、乗船年月日とか、もう少し詳しい情報がわかれば、インターネットに投げかけてみるのもひとつの方法かもしれません。
ではまた。何かお役に立てることがあったらご遠慮なく、協力できることは協力させていただきます。
③藤沼様、
メールを有難う御座いました。
引揚船名は高砂丸でした。思い出しました。祖父の時代に渡満したらしく、私と血を分けた親族はもう居りません。私にとって満州は思い出したくない所で、記憶から排除しておりました。確か高校の頃でしたが、「アカシアの大連」とか言う小説が何かの賞を取り、そのころ確か「大連会」とか言う集まりが有った様な気がします。私は参加しませんでしたが、最近は私も余命幾ばくもなくなって来ると、妙に満州時代が思い出され、あの頃の知り合いに会えないものだろうか、とか、そのような集まりが現在でも存続しているのなら参加してみたいと思う様になりました。その様な集まりをご存知でしたらお教え頂ければ幸甚です。
山下さんの事ですが、確か3人の兄弟がおり、上からヒロシ、ヒデオ、ススムと言いました。そんな事がヒントで消息がたどれるかもしれません。ソビエト戦車隊や満人の匪賊に追われ、大連に到着した頃は街角で私と同じような子供達が売りに出されていたり、チフスで道端に倒れていたのを今でも鮮明に思い出すことが出来ます。最近までそのような記憶を忘却しようと努めた来ました。しかし今は私一人となり、寿命も尽きかけてくると死後満州の荒野に散骨でもしてもらおうかなどと冗談に考えたりしております。
色々とつまらぬ事を書き申し訳ありません。
お元気にお過ごしください。
前田一
④前田一様
もし、お差支えなかったら、私のブログやFacebook、ツイッターなどで呼び掛けてみましょうか?
ダメ元でもやらないよりはやった方が心残りはないのではないでしょうか?
乗船した頃の前田様の年齢、山下さんの年齢はおいくつでしたか。
山下さんは三兄弟のヒロシ、ヒデオ、ススム、のどの方ですか?
山下さんとどんなお話をしたか、覚えていることはありませんか?方言とか故郷のエピソードとか。
前田さんは現在おいくつでいらっしゃいますか?開拓団でしたか?
質問ばかりですみません。
ではまた。

⑤藤沼様。ご返事ありがとう御座います。       私の本名は小久保 〇と言います。前田一は偽名です。一度SNSで色々私のプライバシーが漏れ、えらく迷惑をした経験があり、現在は偽名を用いております。 引揚時期は昭和21年の冬と記憶しております。祖父は大仕立屋をしており、開拓団ではなかったと思います。当時私は小学校1年か2年であったと思います。8歳か9歳の時で、現在私の年齢は81歳です。 引揚のどさくさで、家族と離散し以後名古屋の親戚(母の姉)の家で成長しました。大連では日本人は一人畳一畳が割り当てられた収容所と言うかアパートに収容され、そこで山下さんご夫婦とは一緒でした。 ご夫婦は現在は生きていたとしても100歳は過ぎていると思います。そのアパートは確か大連の朝日町とか言う街にあったと思います。 ヒロシは長男で、ヒデオは次男、ススムは3男、あと一人弟が居ましたが名前は記憶しておりません。 そのアパートからソビエト軍の監視下で、大連港から高砂丸で長崎に着きました。そこからどさくさの色々な経緯がありましたが、 山下さん家族と引揚列車に乗り、岡山の山下さんの親戚の家にしばらく逗留し、その後、大阪の山下さんの家に短期逗留しました。山下さんは大阪の人だと思います。私の記憶するかぎり彼らは標準語を喋っておりました。 私は当時小学校1年か2年生であったと思います。私はヒロシと親しくしておりました。彼は中学生であった思います。彼から山本五十六元帥の話とか特攻隊の話を聞き、私も特攻隊に志願したいなどと思っていました。年下の子供に優しいお兄さんで今尚記憶に残っております。 満州は私にとっては悪夢の時代でしたが、いま私は肺癌と悪性リンパ腫に罹患し、危うく生き延びております。余命幾ばくもないと思うと満州時代も懐かしく思い出され、満州時代を肯定的な思い出としたいと思う様になりました。 又何かお便りをするかもしれません。その際は宜しくお願いいたします。これから暑くなるでしょう。お元気にお過ごしください。小久保 
⑥藤沼様、
パソコンが不調のようです。2度メールをしましたが
届いておるでしょうか?
⑦小久保 〇様
大丈夫です。届いています。
よくぞ生き抜いてここまで。
ご苦労を察するに余りあります。
日本に帰ってからも、必死で生きていらしたのですね。
三兄弟を探しているということを、SNSに投げかけてみましょうか?
小久保さんの下のお名前は書かず、小久保とだけ書いたらいかがでしょうか?
以前、同じような依頼があり、SNSに投げかけたことがあります。ストライクゾーンではなかったけれど、近い人が見つかり、メールのやり取りをしたようでした。
私は川越に住んでいます。今、「残留孤児編」を書いていますが、7月には出版予定です。その後でしたら少し時間も取れますので、もし、そんなに遠くなかったら、よかったらインタビューさせていただけませんか?『WWⅡ 先の戦争に繋がる51人の奇跡の証言集』という本を出す予定なのですが、これまで経験してきた引揚げの事など、話していただけないでしょうか?本は、ほぼ80%書けています。参考までに以下に目次を貼り付けます。ここに小久保さんの証言を追加し、『52人の、、、』となるわけです。国から意図的に満州が隠されているように感じられてなりません。もし、ご自分の経験を後世に伝えたいという思いがおありでしたら、ご一考くださいませ。
目次には覚書メモのようなものが紛れていますが無視してくださいませ。(省略)
⑧藤沼様、
ご返事が遅くなりました。私は年でもあり、パソコンのskillは大変貧しくfacebookやSNSでの捜索はお任せいたしますので宜しくお願い致します。
ただ、もう私の記憶もあいまいとなり、ポツリポツリで連続性がありません。かなり断片的です。例えば、無蓋列車に乗っていた時、突然満人か支那人の襲撃を受け、その時は必ず女性が襲撃され、凌辱されるのを見ているしかなかったとか、何処の土地かは忘れましたが、軍隊多分、八路軍ではなく国民軍の収容所に拘束されているとき、日の丸の鉢巻を巻き白線の入った学生帽を被った学生が「皆様私たちは表門を突破いたします。その時に裏門から脱出してください。皆様の無事祖国への御帰還をお祈り致します」と言って正面を突破して行ったのは鮮明に覚えています。後でその人達は大連一中か、奉天一中か新京一中かは忘れましたが、兎も角中学校の4年の生徒だと聞きました。以後の私の人生に大きな影響を与えた出来事でした。多分大連に入って一応安全な収容所に居たとき、何処かそこのお姉さんがこれを飲んだらすぐ死んでしまうのよ、と言って小さな小瓶を見せてくれました。赤い粉末で、あとで青酸カリだと言うのは聞きましたが、当時甘いものに飢えていた子供には砂糖のような気がして、私は舐めてみたいと本気で思いました。いまから思えば高等女学校の生徒さんだと思います。自決してしまったのか無事帰還できたのかは分かりませんが、この出来事も以後の私の生き方に大きな影響を与えました。等々断片的な記憶で、繋がりがありません。藤沼様のインタビューを受ける価値があるのかどうか、私には分かりません。それでも宜しければご連絡下さい。
何れも負の記憶ばかりですが、満州時代を生き抜いたと言う事実は戦後を生き残るための大きな力になったと言う事は間違いなく、何とか正の記憶に転換すべく
努力しているところです。
つまらぬことを沢山書きました。
間もなく梅雨に入ります。お元気にお過し下さい。
小久保 
⑨小久保様
メールありがとうございました。
満州国という、いわば現在の歴史史観からすれば、負の遺産である中を生きてきて、おぞましいことも見聞きしてきて、その現実を肯定できないようなこともたくさんあったかも知れません。
これまで親しい紹介者がいて、それでもインタビューできなかった方々は、口を揃えて「満洲のことは忘れた。思い出したくない」と言い、頑なに口を閉ざしています。 私のような若輩者が言うことではないのですが、誰かにすべて話してしまったら、どこかでその記憶が塗り替えられる(変化する)のではないかと思うのです。話しながらひとつの出来事を違う視点で見られるとか、そのようなことがもしかしたら起きるかも知れません。それが自己認識の変化になり、自己肯定感に繋がるかも知れません。
反対に、満蒙開拓義勇軍で満州に行っていらした方の中には、非常に自己肯定感が強く「素晴らしい青春だった」と語る方もいます。ご自身の中に加害者意識は微塵も感じられない方もたまにいらっしゃいます。
どのように歴史の中を歩んできたのか、人それぞれで否定はできませんが、興味深いです。
脱稿したら、是非、お話を伺わせていただきたいと存じます。
コロナ禍の中、くれぐれもご自愛くださいませ。
藤沼敏子

本の購入方法が増えました。

2019年12月30日 23時09分11秒 | 取材の周辺
 世界一小さな出版社、津成書院は出来たてほやほや。出版した本はまだ1冊だけ。取次店も相手にしてくれません。
 そこで、アマゾン以外の販売方法を模索していたのですが、郵便局の郵便振替で買えるようになりました。郵便振替番号 00230-8-107058 津成書院。通信欄に住所、氏名を記入し、2,500円(送料込み)を振り込んでください。通常ですと1週間以内に発送いたしますが、例年、冬休み、夏休みを1か月半ほど取ります。
 津成書院のホームページでご確認ください。

https://kikokusya.wixsite.com/website


本日の東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)の紹介記事が載りました。

2019年12月22日 15時03分59秒 | 取材の周辺
 本日の東京新聞に『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)の紹介記事が載りました。
 法政大学の高柳俊男先生が新聞社に推薦してくださり、取材に至った経緯があります。
 川越支局の中里記者からメールでお知らせを受けていたので、親しい人にはメールしておいたのでした。
 早朝6時、叔母から電話があり、記事が大きく載っているとのこと。叔母の声は泣き声でした。ここのところつらいことがあったので「嬉しいことがあったら10倍喜ぼう」の約束通り、叔母はとても喜んで販売店に電話をし、なんと30部も取り置いてもらったとのこと。
 家族の反応は、写真を見て「老けたねぇ、お婆さんみたいだ」と。中里記者が写真を何枚も撮ってくださった帰り際に、壁に飾ってあったたくさんの家族写真の中の20代の写真を指差し「この写真はどお?」と言ったら、まじめに「それはダメです」と断られました。残念!

 続編を書くことに多くの時間をとられ、様々な雑事がおろそかになっています。『孤児編』では、『婦人編』のガサツさを払拭し、少し丁寧に仕上げたいと思っています。『WWⅡ証言編』も首を長くして待っていてくれる証言者の皆さんの催促に、謝罪ばかり。急がなくてはなりません。
 この記事を励みにいっそうやるべき仕事に邁進します(私のペースで)。

 

訃報 シベリア・カザフスタンに44年 伊藤實さん https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cyio

2019年10月19日 23時23分23秒 | 取材の周辺
 伊藤實さんが、昨日、10月18日午前11時15分に移転性脳腫瘍のためお亡くなりになったとのこと。
 彼は、私のホームページでは、「ニさん」として、また『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』の中では、第28章「シベリアで刑期を終え、次に行かされたのはカザフスタンだった」に登場します。人懐こい優しい笑顔で近所に住む残留婦人のことも気遣っていらした。
 2015年8月 サハリン残留邦人 伊藤實さんに北海道でインタビューした時、すでに87歳だったので、享年92歳になられます。その時はお元気で、記憶もしっかりとしていらして、子どもの頃の話から現在までを話してくださった。

 3歳の時、父親の転勤で酒田から樺太の野田町(チェホフ)へ。44年ぶり、69歳で帰国。直後に花巻で3.11震災に会う。NPO日本サハリン協会(元日本サハリン同胞交流協会)の会長だった小川岟一氏の機敏な対応で、直後に札幌に引っ越した。

 (証言のアブストラクト)
 国民学校、高等科と、15歳まで学校に通っていた。泊居(とまり)で機関紙見習いになり18歳で機関士になった。戦争になりみな徴兵されたが、機関士だったので残された。

 終戦後は、ソ連軍の命令で働かされた。翌年昭和21年の6月に軽微な事故を起こす。働きづめで睡眠不足、空腹で居眠り。目が覚めたらカーブの信号が赤だったところを間に合わず入ってしまった。バックしたがその後、軍に呼ばれ後ろ手にされ罪人にされた。3日目豊原(ユジノサハリンスク)の刑務所に入れられた。6か月後、夜中に起こされ連れ出され、夜中に軍事裁判。通訳付き。2年6か月の刑。車に乗せられ大泊(コルサコフ)に。船でウラジオストクに連れて行かれる。それからハバロフスクへ。シベリアの収容所で森林伐採を2年。アムールというところで鉄道を作った。黒パン1日700グラム。仕事を120パーセントやると120グラムくれた。40代50代60代の日本人が多かった。

 その後カザフスタン送りに。カザフスタンまで2週間かかって移動。途中でパンが無くなる。荷車の柱にしがみついて移動したり。「(ひとつのエピソードを)1分もかからないで話しているが大変だった。よく生きてた」 親切にしてくれたロシア人もいた。

 カザフスタンでは、自分で藁を使って寝床を作らなくてはならなかった。食料はジャガイモ10キロのはずが、腐ったジャガイモの山から直径2センチほどのジャガイモを2キロくらいしか貰えなかった。風呂はなかった。最初は牛の世話をして、その後逃げて山に行き、見つかって、ボイラーの仕事に就くことになった。やっと給料が貰えるようになり、ドイツ人と結婚。38年前、自分が50歳の時、妻は亡くなる。3人の子供はロシア語。自分でもだんだんに子供の勉強を見ながらロシア語を覚えた。

従姉妹と子供の頃、葉書のやり取りをしたことがあり、その住所を覚えていた。ペレストロイカが始まってから、従兄弟の住所を覚えていたので手紙を出した。日本に帰りたいと大使館にも手紙を書いた。長女も次女も母親の国であるドイツに行きたがった。子供たちは母親のドイツの籍になっていた。

 63歳で一時帰国し石巻、酒田にも行った。昔の同僚の機関助手にも会った。ずっと日本で暮らしたいと思った。

 44年ぶり、69歳の時、永住帰国。74歳で東日本大震災に遭遇。津波に合い、逃げられず、泥だらけで一夜を過ごす。山の上で避難生活が始まる。(この間、小川さんたち支援団体が必死に探す) 2週間後、元日本サハリン同胞交流協会の小川岟一氏の手配で仙台から東京に行く。それから4月5日に札幌に着く(小川さんが知事と話をつけてくれた)。4月下旬、心配しているドイツの娘に会いに行く。娘たちが赤十字に頼み、ドイツに住むことができる手続きをしてくれた。しかし「日本で生まれたんだから、日本で死にたい」と日本に帰ってきた。
カザフスタンでは「日本に帰りたい」一心だった。よく生きていた。助かってよかった。(終)

「(ひとつのエピソードを)1分もかからないで話しているが大変だった。よく生きてた」と、話された時、彼の話に応え得るだけの想像力が私に本当にあったのだろうかと自問せざるを得ない。シベリア、カザフスタンでの生活は、想像を絶する飢餓感、空腹感、望郷の念を抱えての苦しいものだったに違いない。ひとつのエピソードの背景には、数百のエピソードが眠っている。極限状況を生き貫いた彼の心情。子どもたちや孫たちと、ドイツと日本に離れて暮らすことを選択した彼の心情。そんなことを想像しています。帰り際にドイツの板チョコレートをいただきました。

衷心よりご冥福をお祈りいたします。


正誤表『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)こんなにあるなんて。

2019年07月28日 11時31分52秒 | 取材の周辺
『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』 正誤表  
*年齢について。証言者のプロフィールでは満年齢を記しました。証言では数え年が多いですが、証言のままと致しましたので、ご承知おきください。 

『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』 正誤表  2019.07.30
P.31 L.14、L.15、P.32 L.1、L.2、L.3、L.9、P.33 L.3 小城子→小城市
P.41 L.12 昭和22年→昭和21年
P.69 L.1 私は18歳で→私は15歳で
P.78 L.5 1954(昭和30)年→1954(昭和29)年
P.82 L.17 歩くけんように→歩けんように
P.99 L.9  そいて→そいで
P.105 L.13 見え来た→見えてきた
P.112 L.8 字がから難しい→字が違うから難しい
P.119 L.1 どうにならない→どうにもならない
P.124 L.3 行ったんだ。かするとは→行ったんだ。結婚なんかするとは
P.127 L.14 最初のうちは、「戦争のお陰で、今は幸せだ」って言ってたけど、今は、
     → 最初のうちは、戦争のお陰で、酷い目に遭ったと思っていたけど、今は、
P.147 L.10 蒋介石が入ってきて→共産党が入ってきて
P.147 L.10 ダンダン→だんだん
P.150 L.3 1940(昭和14)年→1939(昭和14)年
P.175 L.3 7歳で渡満→9歳で渡満
P.195 L.4 鉄砲を打った→鉄砲を撃った
P.199 L.1 トウカイドウ→大古洞(タイコドウ)
P.219 L.5 1976(昭和52)年→1976(昭和51)年
P.245 L.1、P.246 L.3太平山→大平山
P.247 L.17 「の~」からP.248 L.8まで、削除
P.252 L.18 私ばりに→私ばかり
P.259 L.5 佐伯開拓団が→「佐伯開拓団が
P.262 L.11、 P.263 L.8、P.268 L.10 余計→ようけ・ようけい(方言で「たくさん」の意)
P.293 L.1  19328年 → 1932年
P.293 L.7 1988(昭和63)年 一時帰国 永住帰国に切り替える → 一時帰国
P.293 L.8  1990(平成2)年 58歳 長女一家、四男を呼び寄せる(四男は国費)
      →1989(平成元)年 58歳 長女一家、四男と共に永住帰国 (本人と四男は国費)
P.320 L.3 通化→通北
P.364 L.1.4.5. お爺さん→お祖父さん
P.368 L.13 (「いるだからね」、、、、) →(  )は不要。すべて削除
P.378 L.1 2列に別れる → 2列に分かれる
P.386 L.8 1948(昭和22年) →  1948(昭和23年)
P.392 L.12 受付てもらった→受け付けてもらった
P.405 L.5 そうじゃ、ないとね→そうじゃないとね
P.446 L.9 1995(平成7)年 → 1994(平成6)年 
P.502 L.3 小城子市→小城市
P.525 L.1 団員36人→団員360人
P.509 L.9 来ている→着ている
P.542 L.4.5 去年は20人、一昨年は25人→2018年は20人、2017年は25人



『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院)

2019年07月13日 12時28分02秒 | 取材の周辺
 私のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」から、1冊目の本が7月13日に生まれました。
『不条理を生き貫いて  34人の中国残留婦人たち』(津成書院)です。
 中国残留孤児・残留婦人等とその支援者、関係者の方々の協力を得て、200人前後の方にインタビューをさせていただきました。その中の中国残留婦人等(「中国残留邦人支援法」対象者。男性、サハリン残留邦人も含まれる。終戦時13歳以上だった方)34人のインタビューをまとめたものです。
 これまでの一般的な聞き書き集と違うところは、インタビューはノーカットでインターネット公開していますので、本の内容を動画ビデオで検証することができるという点です(一人を除いて)。
 また、ホームページやYouTubeでは、「声を残すこと」はできますが、体系的に何が言いたくて証言を集めてきたのかが明確に伝わりません。当初は、高齢化し鬼籍に入られる方が多い中、とにかく「声を残すこと(=インタビューすること)」にだけ力を注いできましたが、インタビューに協力してくださった方々はほとんどが高齢者でインターネットにアクセスできません。お元気なうちに書籍化してお返ししたいと思うようになりました。                    
 彼女たちの経験が多くの方に読まれ、平和の尊さを伝えることができたら、ご自分の辛酸に満ちた不条理な人生を生き貫いてきた意義を、見出し、肯定することができるのではないかとの希望を持っています。
 続いて、『孤児編』『WWⅡ証言編』も近刊予定です。
 
【購入方法】
①津成書院直販 郵便局にて、郵便振替番号 00230-8-107058 津成書院まで、通信欄に住所、氏名を記入し、2,500円(送料込み)を振り込んでください。
②アマゾンで買うことができます。 定価2,500円+税 A5版 552頁

【本の紹介】
目次をお知らせすることで、だいたいの本の内容を理解していただけるのではないかと存じます。
実際の本のページと、私のワードファイルではズレがあるため、ページは表示致しません。

以下目次

はじめに  語ること、聞くこと、書くこと         
第Ⅰ部 満蒙開拓団           
大八浪(ターパラン)泰阜村開拓団
 第1章  中島多鶴さん(長野県)
「国交回復した時に、国が帰国を進めてくれなかったの、それが一番残念ですよ 」       
 第2章 中島千鶴さん(長野県)                      
 「お祖父さんの葬儀には、中国人も朝鮮人も来てくれた。」     
 第3章 岩本くにをさん(長野県) 
「その収容所で妹を中国人に連れてかれちゃったの。何でもいいなり」              
 第4章 中原なつえさん (長野県)             
 「嫁らにゃしょうがないもんで」
 第5章 川島まさゑさん(長野県)
「オラ、人一倍 仕事はしたでぇ」              
 証言の背景 大八浪泰阜村開拓団                 
小八浪(ショウパラン)中川村開拓団           
 第6章 鈴木サダさん(埼玉県)              
「国には捨てられたと同じだったよ!ほっぽらかされておかれたんだよ」           
 第7章 斎藤タツさん(埼玉県)              
「これが包丁だ!わかったか!」    
 証言の背景 小八浪中川村開拓団              
南靠山屯(ミナミコクサントン)開拓団)
 第8章 佐藤千代さん(埼玉県)
 「開拓っちゅうても開拓じゃない。奪っちゃって。抵抗できないから」
 第9章 山本孝子さん(北海道)            
「鉄砲持った保安隊の人が、私についてきて、農家の人が掠(さら)いに来た」
 証言の背景 南靠山屯開拓団                   
大古洞(タイコドウ)下伊那郷開拓団
 第10章 西山明子さん(長野県)       
「山本慈昭先生たちが、私たちの大古洞開拓団跡に来てくれたんです」              
 第11章 山田庫男さん(長野県)                            
「里帰り(一時帰国)は、全然せんで最初から永住帰国で帰ってきた」              
 証言の背景 大古洞(タイコドウ)開拓団                       
板子房(バンズファン)置賜郷開拓団
 第12章 小野ますよさん(山形県)
「竹腰さんに誘われて 12人の強行帰国」  
 証言の背景 板子房置賜郷開拓団                           
密山千曲郷開拓団              
 第13章 神津よしさん(長野県)
 「友達は、鉄砲担いだ男に銃を突きつけられ、あとでその人の嫁になっただよ」
 証言の背景 密山千曲郷郷開拓団              
大平山開拓団
 第14章 石沢さだ子さん(山形県)
「うちの姉ちゃん、ソ連兵に引っ張られて行って死んだ。」     
 証言の背景 大平山山形郷開拓団              
高田開拓団           
 第15章 篠崎鳩美さん(広島県)
「妊娠9か月の母は、『私の事はね、もう構わんでいいから。』って。」  
 証言の背景 高田開拓団                                
大羅勒蜜(たらろみ)九州郷開拓団
 第16章 中井忠司さん(沖縄県)       
「戦争が始まったら、一番先に沖縄からなくなるわけよ」       
 証言の背景 大羅勒蜜開拓団                       
平安高知開拓団
 第17章 田中信子さん(高知県)
「吹雪の夜、二人で逃げ出し、姉は私を抱きかかえながら凍死した」
 証言の背景 平安高知開拓団                    
開拓農業実験場 北海道興農公社の酪農開拓団
 第18章 家村郁子さん(北海道)
「匪賊(ひぞく)ちゅうのは、日本人がつけた名前ですよ。普通の農民なんですよ」       
 証言の背景  開拓農業実験場 北海道興農公社の酪農開拓団 
孤児たちと日本をつなぐ役割を担った残留婦人           
 第19章「鈴木信子さん(仮名)
「孤児たちに慕われた代書屋さん」              
 証言の背景 孤児たちと日本をつなぐ役割を担った残留婦人              

第Ⅱ部 農業以外の自由移民           
 第20章 高場フジヨさん(埼玉県)・・・・・・・・・・・・・・             
 「チャーズ(卡子)を生き延びて」           
 第21章 山下栄子さん(山梨)
「逃亡防止のため、火箸で顔に焼き印された」
 第22章 加藤とくさん(北海道)
「大連の大和ホテルに勤務して」
 第23章 山崎倶子さん(北海道)
「島に住んでいたので、日中国交回復も知らなかった」
 第24章 上村品子さん(奈良県)
「私のおじいちゃんが、朝鮮の咸鏡南道で知事をしてたんです」
 第25章 樋口春枝さん(群馬県)
「橋のこちらが中央軍、橋の向こうが八路軍、チャーズ(卡子)だった」
 第26章 桜井光枝さん(石川県)
「私みたいに働いた者は中国人であろうが、日本人であろうがおらんわ」
 証言の背景 農業以外の自由移民                           

第Ⅲ部 サハリン残留邦人
 第27章 三浦正雄さん(北海道)               
「ソ連の内務省やKGBに知られると、刑務所に送られるので、帰国したいとは言えなかった」
 第28章 伊藤實さん(北海道)                   
「シベリアで刑期を終え、次に行かされたのは、カザフスタンだった」
 第29章 近藤孝子さん(東京)
「国は、『もう1人も残ってない』って平気で言ってましたからね。見捨てられたんです」
 第30章 伊藤美智子さん(北海道)                
「国家の命令ですから、「帰れ」という命令がなければ帰れなかったので、そこに残ってました」
 証言の背景 サハリン残留邦人                 
              
第Ⅳ部 大陸の花嫁           
 第31章 田口道子さん(長野県)               
「文革の時、18歳の息子は牢屋へ」             
 第32章 福田ちよさん(埼玉県)             
「ソ連兵は「この女を捕まえよう」と決めたら、目をそらさない」       
 第33章 正木はつさん(沖縄県 仮名)
「大陸の花嫁になれば・・・貧乏に生まれたから、金持ちになろうと思って」
証言の背景 大陸の花嫁                 

第Ⅴ部 日本に帰らない選択をした残留婦人              
 第34章 須浪厚子さん(中国)
 「子供たちは日本に行って初めて日本語習う。結婚してるでしょ。もう歳が」

 証言の背景 日本へ帰らない選択をした残留婦人        
おわりに                          
謝辞                          
著者のプロフィール                             
 


「戦後中国残留婦人考」

2019年06月16日 06時14分42秒 | 取材の周辺
 昨日、自主上映映画「戦後中国残留婦人考」を見に行きました。
第1印象は中途半端な感想を持ちました。帰り道、なぜだろうと考えた時、神田さち子さんを主役にするか、小林千恵さんを主役にするか、はっきりしたスタンスで作るべきだったんじゃないかな、と、思いました。
 
小林さんが主役なら、神田さんによりかかりすぎで、映画の三分の一近くを(もっと少ないかも)、神田さんの北京公演の場面を使っているのは、断片的とはいえ、「帰ってきたおばあさん」はDVDにもなって販売もされているわけだから、映画としてどうなんだろう、ルール違反じゃないかな思います。出演料を払って本人は了解していたとしても。神田さんの一人芝居で残留婦人を語らせるやり方は安易だなと思いました。それに、最初の頃は小林さんがインタビューしていて途中から神田さんがインタビューしている。この辺も違和感の湧き出るところ。
 思い切って、神田さんを主役にして、神田さんの一人芝居「帰ってきたおばあさん」を中心に、神田さんのインタビューでまとめる。それを小林さんが取材している。という作り方だったらスッキリするように思いました。
 
 小林千恵さんが、自分で折った折り鶴を残留婦人にプレゼントするシーン。「千羽鶴を折るのがこんなに大変だとは思わなかった。」と言って泣くんですが、そのシーンも引きました。何の涙?残留婦人のつらさの何がわかっているの?と、ちょっと心の中で噛みついていました。辛口ですが正直なところ。

 最初、私がインタビューした方が、8人中2人いると思いましたが、田中信子さんは同姓同名でした。岩本くにをさんは、2013年にインタビューしました。岩本さんも中平先生もご家族もいい感じで映っていました。ただ、岩本さんが残留することになった原因がちょっと事情を知らない人にはわかりづらかったのではないかと思いました。
 私が一番いいと思ったのは、後半シーンです。残留婦人が、複数の子、孫、曾孫世代の大家族に囲まれてみんなで食事をしているシーンです。カメラを意識しないで思い思いにみんなが好きなことを言っている。一人の残留婦人からその大人数のテーブルを囲む人たちが広がったっていう命のつながりにも敬意を表したいと思いました。野垂れ死なないで、自決しないで、よくぞ命をつなぎましたねって。拍手を送りたいような気持になりました。

 ただ、ざっくりいうと、なんでもいいのです。残留婦人のことを世に知らしめて、人々の記憶に残るなら。それは映画とか演劇の力はとても大きいと思います。だから、よく映画にしてくれましたね。って感謝の気持ちです。

 神田さんも会場に来ていて、久しぶりにお会いしました。今、本を書いていて忙しいということでした。七月出版予定とのこと。
 ちょうど私も残留婦人の本を書いておりまして、同じころ出版できるでしょう。神田さんは有名人ですからきっと話題になって売れることと思います。私の本は、「書き残しておかなくちゃ」というだけのものですから、少数の興味のある方に読んでいただけるだけでしょう。売れる本ではありません。研究書ではなく読み物です。彼女たちがどんな人生を歩んできたか、それを伝える本です。本人と支援者、全国の都道府県立図書館やお世話になった方々に送ります。
 題名は、『不条理を生き貫いて 35人の残留婦人たち』です。A5サイズで約600頁。何部刷ったらいいか、定価をいくらにしたらいいか、わかりません。自費出版ですので、詳しい方がいらしたらアドバイスをお願いします。

 1日10時間以上パソコンに向かっている生活を続けていると、目、肩、腰にきて、この歳でこんなことをしている自分が幸せなのか不幸なのか、時々わからなくなります。この後、『孤児編』も『WWⅡ編』も出版予定です。




秩父の旧中川村開拓団 Tさんの証言

2019年03月02日 15時42分19秒 | 取材の周辺

 Tさんのページ  https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/untitled-c1lrs

しばらくホームページのブログを更新していなかったので、友人から問い合わせメールがありました。ご心配をおかけしてすみません。元気です。

 ホームページで「Tさんの証言」をご覧になった方から、ずいぶん前にいただいた感想メールを、昨日再び目にする機会があり、私自身ゲラゲラ笑ってしまいました。本人の許可を得て公開します。以前スクールカウンセラーをしていらした方の感想です。

 Tさんのお話はぜひたくさんの方に聞いていただきたいと思います。秩父の旧中川村開拓団でした。終戦時12歳ですが、残留婦人と同じような不条理な運命を生き貫いて、今ふるさとに帰り、穏やかに生きています。お庭には色とりどりのダリアが咲き誇っておりました。

以下、いただいた感想です。

(略)すごく、個性的な方ですね。「わすれた。」が多くて、さぞかし、インタビューには苦労されたでしょう。特に年齢を聞き出すところは、最後の最後まで、先生があきらめず、子供さんの事や、結婚した年齢など、いろいろな視点から、永住帰国の年齢を探り出そうとしている様子が、漫才の掛け合いみたいで、一人で笑いながら聴いておりました。

  (先生)  「・・・・何歳の時でした?」

  (証言者) 「覚えてない。」

  (先生) 「覚えてないかー。」

 先生の開き直りとも、あきらめともとれる、このオウム返しが面かったですよ。ただ、この方は本来「終戦」というべきところを、ずっと「戦争」と言ってました。終戦がこの方には戦争

だったんだと思いました。最後に、自分のお母さんや弟達の死んだ経緯を語ってくれましたが、私には胸が締め付けられるような思いでした。

 12歳で一人ぼっちになった彼女は、まず、「一人で逃げた。どうして、弟と一緒に逃げなかったのだろう。私のせいで弟が死んだ。」「お母さんが自殺した。私はお母さんと弟を守れなかった。お母さんは私を置いて死んでしまった。」

 12歳の少女の心に残ったトラウマを見ました。子供は、自分を守るために、ものすごく怖い体験は忘れようとします。この方が最初に年齢を「忘れた」と言ったのはこの強烈な敗戦の体験、家族を無くした体験があったから。まだ、よく知りもしない人には話せなかったのだと思います。それは、「逃げた。」という言葉が何度も使用されている事と無関係ではありません。自分一人逃げて、生きてきた事にずっと負い目を感じていたのだと思います。一人だけ助かった事を、外の人に咎められはしないかと、ずっと怯えながら隠し続けきたと思います。その一方で、目の前の過酷な現実は、いやが上にも、どうにかして生きていかなければならない、悲しみに浸っている場合ではなく、自分の明日の命を守らなければいけない現実があります。彼女の口から、「しかたのなかった事だったのだ。」という言葉をきいた時には、彼女は救われたと思いました。自分を自分で責めなくて済みます。先生と話をするうちに、だんだん心を許していったのでしょう。最後は笑い声さえ出して。この心の奥の重い記憶は、先生に打ち明けることで、また少し軽くなったと思いました。最近、戦争体験者、原爆の体験者、大陸からの引揚げの体験者など、次々と話をしてくれるようになりました。それは自分たちが老いて、戦争が風化していく事を恐れたからだと思っていましたが、もちろん、それもあろうかとは思いますが、この、トラウマによる事も原因ではないかと思ってます。終戦直後は、忘れたかったでしょうし、公表してはいけない事もあったでしょう。長い年月が過ぎて、やっと自分達のトラウマから少しずつ、心が解放されてきたのだと思います。

 「誰も悪くない・戦争が起ったことが一番悪かったのだ。仕方の無かった事だった。」と考えられるようになったのでしょう。

 この方の、「今は幸せ」という言葉が、悲しみをいやしてくれます。(略)


集団自決を生き延びて アさんの場合

2018年10月21日 10時30分09秒 | 取材の周辺

 これまでインタビューしてきた中で、集団自決を奇跡的に生き延びる事ができた人が5人おりました。北海道に住む麻山事件の鈴木幸子さん以外は、あまりマスコミに取り上げられることもないので、紹介しようと思います。是非、ご本人の語りを聞いていただきたいと思います。

 

アさんの証言

「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言」アさんの場合http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cysu

【満洲生まれ】

昭和15年(1940)1月18日、中国で生まれた。父は開拓団の先遣隊で満州に行っていたが、日本に戻り、母と結婚して、数か月後また開拓団に戻る。その時、私は母のお腹の中にいた。満州で生まれた。田んぼではお米を作っていた。小さい頃はお米を食べていた。

【終戦】

終戦の時、私は5歳。その時の記憶は全部覚えている。父は、終戦前の3月に兵隊に行った(徴兵された)。家は母と私と弟の3人だった。隣に住んでいたSさんと村の人みんなで集まって、歩いて本部に行くことになった。一晩大きい家に泊まった。次の日、朝ご飯はなかった。本部まで何時間かかるかわからなかったけど、ずっと歩いて山の中で、みんな日本人のSさんに殺された。その村だいたい60人くらい。みんな殺された。なんで殺したかわからない。おばあちゃん、お母さん、年寄り、子供、病気のおじいさんとかいた。最初泊まった夜、みんなに白い薬を渡して飲んだが、次の朝、誰も死ななかった。次の日、山に行って皆をナイフ(短刀)で殺した。Sさんの他に女の人二人いたけれど、わからない。弟がお腹すいたというので、弟をおんぶしてとなりのトウモロコシ畑に入って、トウモロコシを生で食べていた。もどったらお母さんはナイフで殺されていた。みんな死んでいた。なんで殺されたのかわからなかった。私はSさんに鉄砲で撃たれて気絶した。雨が顔に降ってきて生き返ったら、おんぶしていた弟は顔が血だらけで顔が分からなかった。お母さんは生きていなかった。私は5歳、弟は3歳の時だった。私は目が覚めて殺されるかと思ってその山から逃げた。二晩くらい逃げた。水を飲んでお腹がすいたら、新芽や草を食べて、二晩くらい山の中にいた。

養母が山でまきをとりに来たときに私を発見して家へ連れて行った。養父は私の体が血だらけで、ハエの卵がたくさん付いていたので、その卵、ウジ虫が動いていたのをナイフで着物を切って、古い肉を取ってくれた。そして、柔らかいごぼうの葉を揉んで、ごま油ぬって唾をつけて、傷口に貼ってくれた。毎日毎日痛くて泣いていた。それを見た隣の人は「日本人ひどいことするなあ」と言ってた、と、養父に後で教えてもらった。2年くらいその傷が治らなかった。養父には感謝している。

終戦の一,二年後、Sさんが養父母のうちへ来て日本におじいちゃん、おばあちゃんがいるからと言って、私を日本に連れて帰ろうとしたが、私はまた殺されるかと思ってこわくて一緒に帰らなかった。

【中国での生活】

中国が飢饉で大変な時、小さい頃はどんぐりの粉、木の葉とトウモロコシの粉とまぜてむしたものを食べていた。大変だった。

1957年頃、一人ひとり中央政府が調べた。その頃私はハルピンの病院で働いていて病院の寮に住んでいた。調べられても私は小さくてわからない。日本に誰おるかわからない。といった。養父母が中国の戸籍に入れた。養父母、なぜ日本の子を育てたかわからない。スパイかと思われて調べられても私は小さいから何もわからない。でも私は日本人だからスパイだから仕事ダメと言われた。結局調べても分からないからまた仕事をした。介護や看護婦さんの手伝いやった。

【結婚】

19歳で結婚し、子どもは三人生まれた。近所にも結構日本人(残留孤児・婦人)がいて、おばさんたちが教えてくれた。会ったりもした。KさんとかTさんとか。文化大革命の時、私は中国籍だから何も変わったことはなかった。

【日中国交回復】

お父さんは、終戦になって三年シベリア送りになり強制労働をして、その後日本に帰っていた。父は私が死んだか生きているかわからなかった。父が私を探してくれた。

1957年くらいに政府が当時中国にいた子(残留孤児)を調べて私のことがわかり、刑事さんは、日本人の子どもだという事を手続きしないと困るといって手続きをした。私は日本のこと、何も覚えていなくて手がかりはなかった。

実父が、一時帰国していたMさん(開拓団で一緒だった)に、娘(私)が生きてるか死んでいるか探して欲しいと頼んだ。そのことがきっかけで、そのおばさんは私をさがしてくれた。信じられなかった。お父さんが生きていることも信じられなかった。そのおばさんに電話して会いに行ったら、「あなたはお父さんの子どもよ。お父さんとあなたの顔が同じだから。」っていわれた。小さい時の写真を父に送って、「あなたは私のお父さんですか。」って、手紙を書いた。お父さんも小さい頃の写真、お父さん、お母さん、写真を全部送ってくれた。私は小さかったので覚えていなかった。養父母に写真を見せたら、山へ行ったときお母さんを見たことあるよと言った。父の顔を見たかった。父は一時帰国してくださいと言った。父は二度目の結婚をしていた。子供がひとりいた。

【一時帰国】

私は1976年に子供二人連れて一時帰国した。日本は素晴らしいと思った。また子供と中国に戻った。お父さんの日本の家が良くて、子供は「中国は嫌だ、日本に帰りたい。」とうるさいくらい日本に帰りたいと言った。それで公安局に相談に行った。その時は、主人は離婚しないと日本へ行けないと言われた。子どもは連れて行ってもいいと言われた。私は36歳、子供たちは16歳、13歳、10歳。子ども達はお父さんと一緒じゃないと嫌だといっていた。父は「身元引受人にならない。嫌だ。」といった。「日本に帰ってくるな。」と言った。おばさんたちにも手紙を書いて身元引受人を頼んだが、「お父さんが断っているのに、お父さんの手前、私たちはできないのよ。」といった。困っていたら、中国にいたことのある中国語のわかるおじさんが、「言葉わかるし保証人になってもいい。」と言ってくれた。その人が父に電話してくれた。「どうして自分の娘の保証人にならないのか。ならないならわたしがなるよ。」と言ったら、父が保証人になってくれた。

【永住帰国】

1981年、5人で永住帰国した。けっこう同じような境遇の人で離婚して日本に帰ってきた人もいた。1976年頃は離婚して女の子だけ連れて男の子は中国において帰国した人を見送ったこともあった。当時離婚して帰国した人は大勢いたと思う。

 帰国したあとも父のほうはいろいろ事情があって、友好協会を頼って実父とは離れて住んだ。私は41歳、子供は21歳18歳15歳だった。上の子は働いた。下の2人は中学校にいった。私と子供三人は国費で帰国。主人は中国人だからダメだって。夫の交通費は中国の仕事の退職金をあてた。駒ヶ根の日中友好の家のSAさんの家に入って、仕事しないと生活できないので、仕事を探した。帰国後10日ぐらいで、長男と主人と3人で工場で働いた。言葉も何もわからなかった。友好協会がバックアップしてくれた。あのころ賃金が8万円60歳以上10万円くらいだった。いじめられた。言葉わからなかったから障害者の扱いで働いた。下の2人の子は中学校で3年勉強した。先生が親切だった。半年くらいして、下平の養鶏場に転職したけどつらかった。たいへんだった。2年くらいして駒ヶ根に住んで福岡の会社で定年まで働いた。主人は別のところで定年まで働いた。

【定年後】

主人は定年後もつらかった。主人の年金は3万円くらい。主人は自分より年上で9年間働いた。自分は19年間働いて、2人で8万円ちょっとの暮らしで大変だった。田中知事になって3万円支援された。今は国からの支援金もでて医療費が無料になった。今は二人で年金で暮らせる。中国で苦労して日本に来て苦労したけど、今から考えると帰国してよかった。一番つらかったのは日本に帰って来て3,4年間がつらかった。買い物わからない、洗濯機もない、言葉もわからない。今は子ども達は自立して働いている。今の生活の楽しみは家でゴロゴロ。のんびり暮らして今が一番幸せ


ホームページ Zさんの場合の感想

2018年10月19日 11時39分20秒 | 取材の周辺

アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言  Zさんの場合 http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya

 ホームページ視聴者様より感想が届いています。最近ブログも更新しておりませんでしたので、よい機会。このような感想は大きな励みになります。いくつか感想が届いていますので、ホームページの紹介も兼ねて、折々、発表していこうと思います。

 このホームページを本にしようとすると、膨大な文字起こしと膨大な調べ物が発生し、当初1冊に収めるつもりが2冊になり、ついには5冊(婦人編、孤児編2冊、周辺の証言、歴史と援護政策・検証)で何とか纏めることになりそうです。来春にはたぶん1冊目が出版できそうです。この仕事を終わらせないと、友人とランチを楽しむにも罪悪感が伴います。温泉に行きたい家族にも我慢を強いています。早くすべてを完成させて、身軽に自由になりたいと思っています。

感想は以下のようなものでした。以下転載。

 このような、日本語が話せない人たちが、通訳の方を交えて、自分のつらかった体験を話されるのは御本人にとってもありがたい事ではないかと思います。自分だけが大変な目に遭わされて、日本にいる人たちは、この方達の存在さえ知らないでいたのですからね。今でも、世界のあちこちに、日本兵の遺骨が放置されている事を考えても、この国は国民を大切にしない国だと思っています。この方達に,パスポートだけは発給して、帰国したら、「受け容れるかどうかは決めていない。」という。日本国民だから、パスポートを発行したはずなのに、自分の国にどうして帰国してはいけないのか。不思議です。政府にとっては、招かざる客のような存在だったのでしょうね。客ではないのに。こんな冷たい国に、どんな我慢をしてでも帰りたいと思った人たちが、本当に可愛そうに思えます。最近、NHKで、戦争孤児たちが声をあげ始めました。この夏は、NHKは『ノモンハン事件』を取り上げていました。今までも、夏は必ず戦争関連の特集があります。最近は民放もやってます。この人たちの声を残してくださるのは、大変ありがたいです。一人の人の話がたっぷり聞けるという事に、このホームページの意義があると思います。

 

以下は、私のホームページのアブストラクトの転載です。2013年11月にインタビューしました。

 昭和14年生まれ。残留孤児。インタビュー時74歳。天竜村出身。1歳の時、3人姉妹と両親の5人で満蒙開拓へ。19年に父親が招集。5歳で終戦。方正県に避難した。20日間くらい歩いた。道路脇に死んだ人がたくさんいたが誰もかたずけもしなかった。私も置き去りにされたが、母が思い直して連れて行ってくれた。 

 収容所では食べ物がなく、9歳、6歳の姉、5歳の私はそれぞれ貰われて行った。母はどこかでご飯炊きをしていた。半年で母の元に戻された。言葉もわからずそこにいたくなかった。その後、母は再婚した。農地改革があり、私が10歳の時、山東省へ引っ越した。3,4年後養父が亡くなった。養父との間の妹は学校に行けたが私は行けなかった。19歳までずっと農業をしていた。生活は苦しかった。食べられるものは、木の皮、草の根、何でも食べた。1969年、母は餓死した。大勢が餓死で亡くなった。

 母が亡くなってからは、中国人として生きてきた。日本人を隠し中国籍だったので、文革の時いじめられることはなかった。結婚する時、相手にも言わなかった。一時帰国を3回した。日本の叔父さん、叔母さんが判明した。

 1999年、次男家族(3人)と一家5人で永住帰国。私59歳、夫58歳。次男31歳、孫5歳。4か月帰国者センターで日本語の勉強。その後飯田市で8か月日本語の勉強をした。授産所で夫婦一緒に6年間、65歳まで働いた。収入は少なく生活保護も受けていた。三男も呼び寄せ、次男と三男は日本語も中国語もできるので、日本国籍も。会社から中国に派遣されて立派な仕事をしており家も建てた。


台湾の優しさ

2018年02月04日 18時25分44秒 | 取材の周辺

台湾の優しさ(注1)

 冬になると、暖かい台湾か沖縄に行きたくなる。今年は台湾。大好きな台湾。いつも来るたび思うことは、人々が優しい。

 遠い遠い記憶を辿ると、娘たちが小学生の頃(20数年前)、アメリカのユニバーサルスタジオに遊びに行った時の出来事。アトラクションに並んでいると、娘がティッシュを要求する。バックの中もポケットの中も探したが、もう使い切ってしまって、私はハンカチを差し出した。するとその様子を知ってか後ろに並んでいたご婦人グループが「どうぞ使ってください。」とティッシュを差し出してくださった。そしてお決まりの「どこから来たか」尋ねると「台湾です。」との答えだった。私は虚を突かれて驚いた。〈そうだった、日本は50年間も台湾を支配していたのだった。〉と思い出した。それは美しい流暢な日本語だった。「どこが良かったか、どこへ行くのか。」しばし旅人同士の会話を楽しんだ。それが30代の私が経験した最初の最初の台湾の人の優しさに触れた出来事だった。

 今回もたくさんの優しさの中にいる幸せを感じている。

 最初のホテルをチェックアウトする時の出来事。

 フロントに、「タクシーの運転手さんに、夫は杖をついているので、なるべく駅の切符売り場の近くで降ろしてくださるように頼んでください。」とお願いしたところ、支配人は日本語を話せるフロントスタッフを伴い、自分の車で台北の駅まで送ってくださった。そしてフロントスタッフは切符売り場までトランクを運んでくれて切符の買い方まで手伝ってくださった。信じられない業務を超えた(?)想定外の出来事で、無口な夫も笑顔で、「謝謝、また利用させていただきます。再見。」と口を開いた。

 また、台中のコンドミニアム滞在中、近くのスーパーに買い物に行った時の出来事。

 日用品や食料品など、一通り必要なものを買い、会計を済ませると、スーパーの袋4つ分になってしまった。すると近くにいた店員さんがたどたどしい日本語で、「ホテルまでお持ちします。」と、重たい袋を一緒に運んでくださった。

 また、ある日、バス停でバスを待っている時の出来事。

 隣のベンチの老人が日本語で話しかけてきた。私が日本語のプリントを読んでいたからだろうと思う。公学校(注2)の先生がとてもいい先生だったということを懐かしそうに話された。死ぬまで尊敬し続けると話され、「仰げば尊し」を歌いだした。続けて「蛍の光」と「海」ともう一曲、私の知らない歌だけれど懐かしい歌、「峠の我が家」にも似ているし「埴生の宿」にも似ている歌、を、披露してくれた。これから教会に献金に行くところだという。私が日本人であるというだけなのに、親近感を持って接してくださる。そういう方に何人もお会いした。

 極めつけ。

 先日、果物屋の店先で立ち話をしている人に、バス停の位置を聞いた(言葉がわからなくても、こちらのバスはすべて番号を言えば通じる。しかも台中は悠遊カードで無料なのだ)。すると客らしきバイクにまたがったご婦人から、何か話しながらヘルメットを渡された。「えっ、うそー!」と思いながらも意に反して自動的にヘルメットを被ってしまっている自分がいた。あっという間の出来事。私は彼女の腰にしがみ付いて、狭い路地を右に左に傾きながら(けっこうな体重なので、曲がる時かなり傾くのだ。)命からがらバス停まで送ってもらった。台湾では親切を受けるのも命がけの体験なのだ。日焼けした彼女の笑顔に「再見―!」と大きな声で別れを告げることくらいしか感謝の気持ちを表現できなかった。

  台湾に来るようになるまで、台湾の事を本当に知らなかった。2、30年前に司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの『台湾紀行』を父の本棚から拝借(?)し読んだくらいだった(注3)。その後、司馬遼太郎のガイドをした蔡さんの本や『増補版 図説 台湾の歴史』(周 婉窈)などを読んだ。そして、当然のことながら日本統治時代の事に私の関心は行った。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡したそうだ。できれば元日本軍兵士として参戦した方、従軍看護婦(補助だったらしい。手記も1冊読んだ。)だった方にもお会いしインタビューしたいと思っているが、もはやかなり難しい。ご縁があって数名の方にインタビューできたが、皆さん、90歳前後になっている。遠慮がちな用心深い語りからは、何かを語ることで何かを失う事を警戒しているのかも知れないと思う。ちょうど文化大革命の洗礼を受けた中国残留孤児の警戒心と白色テロを経た台湾の元日本兵の警戒心が重なる。とっくに覚悟を決めて堂々と語れる人々もいる。38年間の戒厳令が解かれ、今年で31年目になる。台湾の歴史が、今後どのように変わるのか変わらないのかわからない。ただ、今を生きている日台時代の方に、どのようにこれまで生きてきたのか、日本語による皇民化教育(注4)と戦後の中華教育、その狭間で、白色テロを経て、時代の変化とアイデンティティーの変遷、台湾人の誇りなど、お話を伺いたいと思っている。

 3年前に来た時に、偶然228記念館の張さんにインタビューできて、ホームページにアップした。すると私の友人達や視聴した方から「知らなかった。」という反響が多くあった。私は張さんが話してくれた歴史は知っていた。しかしそれくらいしか知らなかった。だからもっと知りたいと思う。庶民の生活(個人史)が歴史の中でどうだったのか、知りたいと思う。興味・関心を同じくする私の友人達にも知らせたいと思う。自己満足かも知れないけれど、台湾の事を知る人が増えること、それが台湾の優しさへの恩返しに少しでも近づくことになればと願います。

 

(注1)「台湾の優しさ」については、少し長い文章になるが、その原因を歴史的にも考察したWikipedia「日本統治時代の台湾」に詳しい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE

(注2)日治時代、台湾の子供は「公学校」、日本人の子供は「小学校」に通っていた。教師はほとんど日本人。わずかに台湾人もいた。

(注3)関連記事、 2016.3.25の当ブログ「台北市 二・二八紀念館に行ってきました。」

(注4)『台湾 韓国 沖縄で日本語は何をしたかー言語支配のもたらすものー』(古川ちかし他 三元社2007年刊)は、難しくて何を言いたいのかよくわからなかった。その上、字が小さいので、1時間も読むと字が霞んでしまう。老眼には優しくない本。古川ちかし氏と春原憲一郎氏の論考だけ読んだ。日本語教師時代、ふたりにはお世話になったので。この題名が示す内容、日本語教育の功罪を実証的な論文で是非読んでみたいと思う。