「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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満州建国大学の卒業生 Mさんの奥様が逝かれる

2018年01月14日 10時21分31秒 | 取材の周辺

 今日は、いつにも増して富士山がくっきりすっきりと綺麗。早朝、Mさんの訃報が届く。昨日午後、お亡くなりになられたと。Mさんの事、Mさんのご主人様の事など、いろいろ思いながら、眩しい朝日の中でグズグズしている。

 リタイア前、ストレスの多い職場で、私はMさんの慈悲深い無言の笑顔にどれだけ救われたか知れない。毎年、香りのよいテイカカズラを数枝、持ってきてくださっていたのがMさんだったと、リタイアしてから知る。仕事上の長いお付き合いがあったにもかかわらず、奥様と個人的にお話しするようになったのは、リタイアしてからだった。夫には幾人かの熱心なファンがおり、個人だったりグループだったり、電話や、自宅に訪ねてくる方も多くいらした。リタイアして何のお役にも立っていないのに、玄関先に白菜や大根を置いて行ってくださる方が今も散見される。夫も慕ってくださる方との談笑を楽しみにしていて、相談に応じていた。Mさんはその中のおひとりで、彼女のグループは毎年薔薇の季節にいらして、共にゆっくりとお茶とおしゃべりを楽しんでいた。昨年5月、初めて、ご主人様がある新聞社の論説副主幹だったこと、満州建国大学の卒業生だったこと(奥様が私の本箱の『五色の虹』を発見したのだった。)を知った。インタビューをお願いしたいと思ったが、時すでに遅しでご主人様は96歳になられていて健康状態その他にも不安を抱えていらっしゃる状況だった。この時、奥様が先に逝かれるとは、想像もできなかった。暮れに2,3度相談のお電話をいただき、ずっと気にかかっていた。

 ご本人の希望通りご自宅で最期を迎えられた。いつも穏やかな優しい微笑みをたたえ、クリスチャンらしい人生を全うされた。社会問題などの話題が出ると、不思議に意気投合した。私の好きな紅茶、レディーグレイをとても気に入ってくださっていらした。

 ご冥福をお祈りいたします。


(読者のご指摘により、編集副主幹は論説副主幹に変更いたしました。)


毎日新聞山形版 連載記事

2017年12月25日 12時17分57秒 | 取材の周辺

 毎日新聞の山形地方版に、昨年取材した山形の帰国者の記事が連載されていると、関係者が教えてくださった。幸いウェブサイトで読むことができるので、ここに紹介します。

 また、毎日新聞の告知で、「来年スタート予定の第2部に向け、毎日新聞山形支局では引き続き、旧満州(中国東北部)と開拓団に関する情報、資料などの提供をお願いいたします。」とありますので、何かご存知の方は、yamagata@mainichi.co.jp。【毎日新聞山形支局】 まで。

 昨年の取材については、このブログにも書きました。「山形取材報告」(2016年11月22日)

 思い起こすと山形取材では、小林百合子さんに大変お世話になりました。短期間でとても充実した取材ができましたこと、この場を借りて深くお礼申し上げます。

 

 新聞記事は新しい記事から古い記事への順番になっています。

 高橋令子さん、小林百合子さんのお父様 寺崎平助さん、笹原キヌコさん、佐藤安男さんについては、私のホームページでお話を聞くことができます。全員、本名でのホームページ掲載を承諾していただいておりますので、リンクを張りました。

高橋令子さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26-1

寺崎平助さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-7

笹原キヌコさんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26

佐藤安男さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/no-26-4

 

https://mainichi.jp/articles/20171222/ddl/k06/040/094000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/6止 平和の碑 貧困と差別、言葉の壁も /山形

毎日新聞2017年12月22日 地方版

中国残留帰国者墓苑に建つ「平和の碑」=山形市柏倉で

「棄民」の歴史刻み、友好願う

「日本の中国侵略戦争で、国策として旧満州に送り込まれ、敗戦で荒野に見すてられました」

「帰国しても孤児らの多くは日本語を習得できず、貧困と差別の境遇におかれました」

 (一部抜粋)

 その石碑は物言わず、山形市柏倉地内の高台にひっそりとたたずんでいる。中国残留帰国者墓苑の「平和の碑」。約1200人の寄付金を集め、日中友好協会県連合会と中国残留帰国者山形の会が2014年11月に建立した。終戦から、70年を迎えようとしていた。

 中国残留婦人が日中国交回復2年後の1974年にせきを切ったように帰国を果たしたのに比べ、残留孤児は取り残された。日本語を忘れ、実の両親も特定できないことが原因だった。身元引受人制度が整ったのはさらに11年後の85年。一方で国の腰は重く、不十分な自立支援法が改正されたのは2008年になってからだった。「国はなぜ、もっと温かく迎え入れてくれなかったのか」(日中友好協会県連の高橋幸喜常任理事)。今もまだ、疑問の声は上がる。

 そして、言葉の壁。ある程度の意思疎通ができるのは1割程度だろう。夫婦でホテルに住み込みで働きだした高橋令子さん。「中国人の夫が夜中に逃げ出そうとしたこともある。説得し、力合わせて勉強しようと約束した」。厨房(ちゅうぼう)にある野菜の名前から覚えたという。孤児たちの帰国後のエピソードは苦労に満ちている。

 手を差し伸べたのは国ではなく、市井の人々だった。国籍は関係ない。敵国の戦争孤児をこき使う養父母もいれば、わが子のようにかわいがった養父母もいた。佐藤安男さんの養父母は小学校で「小日本鬼子」といじめられるたび、転校のために2回も引っ越しをしてくれた。帰国してからは世間並みの生活ができるよう、手弁当で支援したボランティアがいた。

 「平和の碑」には「夢にまで見た祖国に眠りたい」と刻まれている。願いはかない、孤児たちは支援者に支えられた穏やかな老後を過ごしている。一方で、碑には「とわの日中友好と再び戦禍の起こることのないように」ともある。そのためには「棄民」と呼ばれた満蒙開拓団の歴史を、さらに明らかにしていくことが必要だ。【佐藤良一】=おわり

 

 ◆満蒙開拓団に関わる県民数◆=2017年11月現在

 

                全国    山形県

 

団員数        約270000 約17000

犠牲者         約80000  約7000

残留孤児          2818      -

国交回復後の永住帰国    6721    142(孤児2556)

生存孤児             -     46

現残留者             -     18

 ※「満蒙開拓史」、厚労省、県の資料など参考

 

https://mainichi.jp/articles/20171221/ddl/k06/040/046000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/5 交流の場「いきいき広場」 恩師と再会「今は友人」 /山形

毎日新聞2017年12月21日 地方版

再会を果たし、手を握り合う木村春代さん(右)と小林武子さん=山形市の霞城セントラルで

自立研修で日本語を学ぶ

 夜来香 白い花

 夜来香 恋の花

 ああ胸痛く……

 中国語で、夜来香(イエライシャン)のフレーズが情感豊かに歌い上げられた。李香蘭こと、山口淑子(2014年死去)の名曲。11月中旬のある日曜日、山形市の霞城セントラルビル2階・県国際交流協会研修室には70歳を超える30人ほどの男女が集まっていた。

 この「いきいき広場」は毎月1回、中国残留孤児のための定例の交流の場だ。かつては県中国帰国者自立研修センターがあったが、新支援法の成立に伴い、役割を終えたとして2007年に閉鎖されている。

 自身は孤児2世で、「県中国帰国者を支援する会」の笹原堅会長(60)は「帰国者は日本語を十分に話せず、コミュニケーションが苦手。広場があることで、引きこもり防止にもなっている」と語る。芋煮会、新年会、花見会などの年間行事も頻繁に開いている。

 歓声が突然、上がった。広場を初めて訪れた小林武子さん(74)=山形市=に1人の女性が駆け寄った。「老師!」。孤児の木村春代さん(76)=山形市=は18年前に帰国した際、当時は自立研修センターの講師だった武子さんから、日本語を学んだという。

 終戦時には4歳で、日本人としての記憶がほとんどなかった。中国人の養父母に「親兄弟は亡くなった」と教えられ、中国人「王春霞」として育てられた。結婚し、1男2女を育てた。大阪府在住の女性が娘と認めてくれたが、帰国前に病没。満蒙開拓青少年義勇軍に所属していた山形市の男性が「木村」の姓を分けてくれたという。

 約10年ぶりの偶然の再会。「勉強は大変だったけど、あの頃は楽しかったね」と春代さん。武子さんは「当時は先生でも、今は老朋友(大切な友人)ですよ」と応えた。しわが刻まれた2人の女性の四つの手がしっかりと重ね合わされた。

 県によると、県内の中国残留孤児は現在、計46人(村山34人、庄内6人、置賜5人、最上1人)。75~87歳と高齢化が進んでおり、県は医療・介護のための通訳16人を配置するなど支援制度を設けている。【佐藤良一】=つづく

 

https://mainichi.jp/articles/20171218/ddl/k06/040/051000c

 

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/4 山形市の小林百合子さん 文集で知った父の体験 /山形

2017/12/18 毎日新聞/山形

 

 ◇つらい思い、娘に話さず

 父の名前は白世全。中国人のはずなのになぜ、日本人からの手紙が送られてくるのか。中国遼寧省撫順市に生まれ、現地の中学校に通っていた小林百合子さん(51)=山形市=は当時、その疑問をぶつけてみたという。「子供は知らなくていい」。普段は優しい顔が無表情となり、会話は続かなかった。

 寺崎平助――。それが本名だと知ったのは間もなくのこと。1984年11月に生まれて初めて飛行機に乗り、両親と共に18歳で「祖国」の土を踏んだ。やがて、日本人と結婚。1男2女に恵まれることになる。

 平助さんは横浜生まれだった。黒竜江省の九江神奈川開拓団に入植した44年は既に日本の敗勢が色濃い。ソ連軍から逃れるためにハルビンまでの150キロを歩き、一家6人は継母、父、弟の順番に息を引き取った。兄は行方知れず。姉は中国人の養女となり、平助さんは撫順近くの農家に預けられた。

 養父からは野菜泥棒を強要され、失敗すると殴打された。12歳になると牛15頭、ロバ2頭の放牧が仕事。雨が降ると、てんでに駆け出し、泥まみれで泣きながら追い回した。日本の方向を向き、「お母さん」と叫んだこともあった。

 隣家の白世忠さんが弟として、引き取ってくれた。18歳で独り立ちし、鉄工所に勤務。高素芹さんとの結婚を契機とし、中国籍を取得する。育ての兄の姓と名前の一文字をもらった。日中国交回復がなければそのまま、中国の大地に骨をうずめていたかもしれない。

 「そうした半生を知ったのは帰国後20年もたってからでした」。百合子さんは振り返る。しかも、残留孤児の文集「すてられた民の記録」に寄せていた体験記を読んでのこと。「つらい過去を必死で忘れようとしていたのかもしれない」と涙を浮かべた。

 平助さんは帰国後に実母チヨノさんの兄を頼り、寒河江市に住んだ。旋盤工として大阪などで14年間働き、98年に退職。81歳の今も、1歳下の妻と元気に暮らす。孤児への新支援制度で年金が増え、月約14万円の収入となり生活は安定した。

 百合子さんはバイリンガルを生かし、県嘱託職員として高齢化した孤児を助ける日々。「2世だからできることがあり、やるべきことがある」。今の願いは両親がのんびりと残りの人生を過ごしてくれることという。【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 <上>アルバムを手にしながら、思い出を語る寺崎平助さん(左)と娘の小林百合子さん=山形市桧町の県営アパートで<下>満州に渡る前の寺崎平助さん一家(左から兄、父、本人、弟、実母、姉)=本人提供

 

https://mainichi.jp/articles/20171217/ddl/k06/040/089000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/3 山形市の高橋令子さん 背後の銃声、今も耳に /山形2017/12/17 毎日新聞/山形

 ◇ソ連軍侵攻、荒野を逃げ惑う

 飾り気はないが、きれいに整頓された山形市の市営住宅の一室。高橋令子さん(82)=山辺町出身=は遠くを見つめつつ、かみ締めるように口ずさみはじめた。

 一つちょうだいさくらんぼ

 胸の勲章にするのです

 さくらんぼ兵隊さんおいちにすすむ

 山形こどもは勇ましい

 この歌が、古里に連れ戻してくれたという。「王麗雲」の名前を持つ中国残留孤児。1972年の日中国交回復を受け、帰国を夢見るようになった。しかし、「自分がどこで生まれたのかはまったく、覚えていなかった」。

 「山形」という歌詞が重要な手掛かりとなった。80年6月に長男長女と共に成田空港に一時帰国。「迎えに行くと約束したのに、ごめんね」。奉天(現瀋陽市)の収容所で別れ別れになっていた同じ開拓団の女性が出迎え、しっかりと抱きしめてくれた。

 令子さんが家族と共に入植していたのは、ハルビンから800キロ離れた第6次北五道崗山形郷開拓団(東安省)。45年8月9日のソ連軍の侵攻を受け、荒野を逃げ惑う。

 匪賊(ひぞく)には衣類や食料など全てを奪われた。病気の父は「足手まといになる。殺してくれ」と他の団員に懇願した。母に連れられ、その場を去った令子さんと兄妹。背中をたたくように聞こえてきた銃声は今も、耳にこだましている。

 ソ連軍に入れられた収容所の部屋は、コンクリートの床にムシロを敷いただけ。栄養失調でまず、兄2人が亡くなる。母のいまわの際の言葉は「内地に帰るんだよ」。3歳の妹とは生き別れとなった。令子さんは中国人に引き取られ、朝6時から夜10時まで厳しい労働を課せられた。

 94年に永住帰国してからも闘いは続く。2005年には国家賠償請求訴訟の原告団の一人となり、国の責任を追及した。孤児への支援制度が一新されたのは08年。14年には配偶者への支援制度も整った。ただし、苦楽を共にした夫の任秀徳さんはその2年前に病死。日本語は話せなかった。それでも、共についてきてくれた。「どんなにさみしかったことか。ありがとう」。令子さんはいつも、仏壇に語りかけているという。【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 開拓地にあった北五道崗山形国民学校の児童と教師ら=高橋令子さん提供

◆写真説明 「体験を語り継いでいきたい」と高橋令子さん=山形市南松原で

 

https://mainichi.jp/articles/20171216/ddl/k06/040/145000c

傷痕は消えない:満州と山形 第1部・孤児たちは語る/2 山形市の笹原キヌコさん 

2017/12/16 毎日新聞/山形

 

 ◇解放軍入隊、文革後差別も

 中国で撮影された1枚の写真が残っている。4人の年若い女性。身に着けているのは中国共産党指導者の毛沢東が率い、日本軍、国民党軍と死闘を繰り広げた歴史を持つ人民解放軍の制服だ。後列右側の10代後半の女性は現在、山形市内に暮らす。上山市出身の笹原キヌコさん(84)。かつて、中国名で「石桂珍」と呼ばれていた。

 「14歳で入隊しました。今の自分があるのも、人民政府のおかげ」。もうすぐ米寿を迎えるとは思えないほど背筋がピンとしていた。軍では食事が保障され、教育も受けさせてくれたという。「党の宣伝隊にも所属しました。歌うことが大好きだったので、舞台で活躍しましたよ」

 1941年3月、第8次太平山山形郷開拓団(黒竜江省)に入植。ソ連参戦後の逃避行で、両親と一番上の姉が亡くなり、生き延びた4人の姉妹とは離れ離れになった。10歳を過ぎたばかりだった。

 キヌコさんは一人、地主の家で働くことになる。1日の食事はトウキビのマントウ2個だけ。ネズミやカエルも食べたという。「小日本鬼子」とさげすまれ、棒でたたかれることもあった。夜はゴザ一枚。世話をする牛5頭と豚15頭が友達。家畜小屋で寒さをしのぐ。5斗のトウキビと交換で売られそうになったところ、人民解放軍が受け入れてくれたという。

 入隊時は国共内戦が最後の段階を迎えつつあった。衛生隊では負傷兵を看護し、満州から海南島まで大陸各地を従軍した。互いの苦しみを打ち明ける定例の「訴苦会」での証言に衝撃を覚えた。「戦時中の日本軍による犯罪行為を知りました。祖国の侵略行為を深く、恥じました」

 しかし、文化大革命の中国は、日本の戦災孤児に手を差し伸べてくれた中国ではなかった。「日本人であることが理由で、息子が大学受験で落とされました。露骨な差別を受け、自由がほしかった」。日本に帰国できた4番目の姉から、手紙が届いた。80年8月、子供2人と共に永住帰国する。

 ゴミ収集、ビル掃除、皿洗いなどで生活をつないだ。2年後に戸籍が回復し、「石桂珍」にサヨナラを告げた。「国家という権力は信じられない」。養父母もなく、一人で生き抜いてきた自負がある。「子供たちも独立しました。朝昼晩食べることができ、今が幸せです」【佐藤良一】=つづく

◆写真説明 人民解放軍時代の笹原キヌコさん(後列右)と同僚=本人提供

◆写真説明 「人生が私を強くしてくれた」。笑顔の笹原キヌコさん=山形市飯田西の市営アパートで

 

https://mainichi.jp/articles/20171215/ddl/k06/040/036000c

満州と山形 第1部・孤児たちは語る/1 高畠町の佐藤安男さん 感謝の念、複雑な思い /山形2017/12/15 毎日新聞/山形

 

 ◇「中国では日本人、日本では中国人」

 中国東北部に日本が樹立した傀儡(かいらい)国家「満州国」にはかつて、山形県民約1万7000人が開拓団員として送り込まれた。2017年は日本と中国の国交正常化45周年にあたり、来年には平和友好条約締結40周年を迎える。この節目に県内の開拓団生存者の生涯を軸とし、両国の絆を考えていく。【佐藤良一】

 引きつったケロイド状のやけどの痕がくっきり、背中の腰の辺りに残っている。焼け落ちてきた屋根の破片が直撃した痕跡だ。「死ぬのは嫌だ。その一念で、火の海から逃げ出しました」。佐藤安男さん(80)=高畠町=は当時8歳。その痛みのせいで、惨劇の記憶は鮮明に焼き付いてしまった。

 1945年8月18日夜、匪賊(ひぞく)に包囲された開拓地の学校。約380人の日本人が身を寄せる教室に灯油がまかれた。集団自決だった。生存者は三十数人。母、安男さん、弟、妹の2カ月間の逃避行が始まる。隠れていたトウキビ畑で、泣き声が匪賊を引き寄せないように女性たちは泣きながら幼子の首を絞めた。妹は1歳になったばかりだった。安男さんは無言でやけどの痛みに耐えた。その後に病弱だった母も力尽きた。

 満州に行けば誰でも20町歩(約20ヘクタール)の地主になれる――。その日本政府の宣伝文句を信じ、家族6人が高畠町から移住したのは40年のことだった。第9次板子房置賜郷開拓団。山形時代に比べ、一家の生活は向上した。しかし、もともとは他人の土地。各地の開拓団を襲った匪賊の中には土地を奪われた農民もいたとされる。

 2歳下の弟と二人ぼっちになってしまった安男さんに救いの手を差し伸べたのもまた、中国人だった。開拓団と交流のあった商人に助けられ、兄弟はそれぞれに養父母に預けられた。11歳で小学校に入学させてもらったが、同級生に「小日本鬼子」(シャオリーベングイズ)とからかわれる。文化大革命では紅衛兵が「なぜ日本人を育てたのか」と養父を尋問し、安男さんも非難された。

 「養父母は喜んで、見送ってくれました。内心はどうだったでしょうか」。日中国交回復後の80年1月、日本に帰国する。義妹は「私がいるから大丈夫」と後押ししてくれたという。シベリア抑留後に帰国していた実父と、35年ぶりに高畠町の病院で再会することになる。

 ところが、日本語を一言も話すことができなかった。意思疎通ができず、泣くばかり。1年足らず後、実父は息を引き取った。政府の方針で、戸籍上は死亡扱いにもなっていた。職を転々とし、生活は安定しなかった。「中国では日本人、日本では中国人と呼ばれました」。さまざまに感謝の念を抱きながらも、安男さんは複雑な思いを抱き続けている。=つづく

◆写真説明 やけどの痕を指さす佐藤安男さん=高畠町安久津で

◆写真説明 旧満州に渡った当時の佐藤安男さん(前列中央)と家族=本人提供

 

 

https://mainichi.jp/articles/20171214/ddl/k06/040/117000c             

満州と山形(その2止) 満蒙開拓団、県内からは1万7000人 戦前の国策 大陸に取り残され /山形2017/12/14 毎日新聞/山形

 

 中国残留日本人は国際政治に翻弄(ほんろう)された。「五族協和・王道楽土の建設」という戦前の国策で送り込まれ、ソ連参戦と敗戦で大陸に取り残された。戦後は中華人民共和国が成立し、東西冷戦の影響を受けることになった。

 戦前に旧満州(現中国東北部)に住んでいた日本人は約155万人。そのうち、満蒙開拓団員は約27万とされる。敗勢著しい1945年6月以降、日本の関東軍は開拓団の男性約4万7000人を現地召集した。

 残された女性、子供、高齢者らはソ連軍、地元住民らによる暴力と略奪にさらされた。戦闘や集団自決で約1万2000人、寒さと飢え、発疹チフスなどで約6万7000人が死亡したとされる。

 戦後の集団引き揚げは46年5月に開始。国共内戦が激化する48年8月までに約104万7000人が帰国した。一時中断後に日本赤十字社など民間ベースでの日中交渉により、再開(53年3月~58年7月)。新たに約3万3000人が故国に戻ることができた。

 72年の日中国交正常化は戦後27年が経過していた。「残留孤児」(終戦時13歳未満)は日本語を忘れ、「残留婦人」(同13歳以上)は中国人と結婚するなどしていた。政府レベルでの交渉が可能になり、3年後には政府による初の身元調査を実施。81年には孤児47人が肉親を捜すために初来日した。

 しかし、失われた四半世紀余りは大きかった。帰国者自立研修センターの開所はさらに84年のことだった。「言葉の壁」が立ちはだかり、社会的孤立や2世の低賃金労働などの問題は現在も解消されていない。【佐藤良一】

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 ◆中国残留日本人をめぐる年表◆

 1945年 8月 旧ソ連の対日参戦・ポツダム宣言受諾

 46年 5月 中国からの集団引き揚げ開始

 49年10月 中華人民共和国成立。東西冷戦激化

 52年12月 中国・北京放送が日本政府に対し、残留孤児問題への協力求める

 59年 3月 未帰還者の特別措置法を公布。生存・不明者1万3000人以上の戸籍抹消

 63年 5月 中国政府がハルビン市に「日本人公墓」を建立

 66年 5月 文化大革命始まる(~76年)

 72年 9月 日中国交正常化

 73年 3月 長野県の住職らによる「日中友好手をつなぐ会」設立。残留孤児の肉親捜しが始まる

    10月 残留日本人の一時帰国(里帰り)の旅費を国が全額負担

 78年 8月 日中平和友好条約調印

 81年 3月 残留孤児47人が来日。日本政府による第1回の肉親捜し

 83年 4月 「中国残留孤児援護基金」が設立

 85年 3月 永住帰国希望者への身元引受人制度設立

 94年 4月 残留日本人の帰国・自立支援法が公布

 2000年 9月 残留日本人らが「中国養父母謝恩の会」を結成

 02年12月 東京地裁で残留日本人ら629人による国家賠償訴訟。計15都市で提訴

 07年12月 残留日本人に対する改正支援法公布。老齢基礎年金の満額支給など

 ※厚生労働省、満蒙開拓平和記念館(長野県)などの資料を基に作成

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 ◆ことば

 ◇満蒙開拓団

 中国東北部で、1932年に日本が傀儡(かいらい)国家「満州国」を樹立。45年8月の終戦直前まで、全国約27万人が送り込まれた。出身県では長野の約3万8000人が最多。山形県の約1万7000人が続いている。国内の人口問題解消と食糧増産に加え、ソ連との国境地帯強化を狙ったとされる。45年8月9日にソ連が対日参戦。約8万人の開拓団員が集団自決、餓死、凍死、病死などで犠牲になった。

◆写真説明 帰国した陳家東さん(中央)一家を迎える父親の冨井英男さん(左)=大阪空港で1981年

◆写真説明 政府に謝罪と賠償を求めて山形地裁へ提訴に向かう残留孤児、家族、弁護団ら(山形市で2005年6月17日に撮影)=日中友好協会山形県連より提供

 

https://mainichi.jp/articles/20171214/ddl/k06/040/094000c                                                                      

満州と山形(その1) 72年後の「再会」に握手 二つの家族・佐藤家と高橋家、逃避行で離れ離れ /山形2017/12/14 毎日新聞

 

 2017/12/14 毎日新聞/山形

 

 旧満州(現中国東北部)に戦前日本政府が送り込んだ「満蒙開拓団」の県内関係者2人が13日、米沢市内で対面した。ソ連国境近くの同じ開拓地に植民し、逃避行のうちに離れ離れになった二つの家族。72年後の“再会”となった。2017年は日本と中国の国交正常化45周年。来年には平和友好条約締結40周年を迎える。【佐藤良一】

 板子房(ばんずふぁん)置賜郷開拓団の佐藤家と高橋家。佐藤安男さん(80)=高畠町=は自身も入植した。渡辺憲一さん(77)=米沢市=は、投身自殺した故高橋やおさん=当時31歳=の夫、力介さんのめいの息子。公益財団法人「農村文化研究所」(米沢市六郷町)が仲介した。

 「いろいろつらい体験をなさったのでしょう」。同研究所の運営する戦争資料館。しわの刻まれた2人の手と手がしっかりと合わさった。安男さんは中国残留孤児。中国では日本人としていじめられ、帰国してからはたどたどしい日本語のために差別を受けた。そうした人生が語られ、憲一さんは目頭が熱くなった様子。「二度と戦争を起こしてはいけません」。2人は声を合わせた。

 板子房置賜郷開拓団はソ連侵攻4日後の1945年8月13日、75キロ離れた西南の中核都市・佳木斯(チャムス)へと出発。しかし、地元民の匪賊(ひぞく)に襲撃され、開拓団は二分された。佐藤家は開拓地に戻ることを選択。父親は関東軍に現地召集されており、母親、安男さん、弟、妹の4人だった。高橋家はやおさんの夫が同様に現地召集され、やおさんは娘の弘子さんと共に予定通り、佳木斯に向かうことを選んだ。

 しかし、開拓地も匪賊に囲まれ、合流組を含めた約380人は集団自決を選択。佐藤家は脱出するが、逃避行の過程で安男さんと弟だけが生き延びる。高橋家についてはやおさん、弘子さんが松花江に身投げしたとされる。

 この日の対面に先立ち、憲一さんは亡くなった母が持っていた1枚の写真を同研究所の戦争資料館に寄贈している。やおさんの家族3人が旧満州に旅立つ直前、旧国鉄・米坂線の羽前小松駅で親族が見送ったという。3人のほか、当時2歳の憲一さんも写っている。

◆写真説明 固く握手する渡辺憲一さん(左)と佐藤安男さん=米沢市六郷町の農村文化研究所・戦争資料館で

◆写真説明 旧満州に出発する高橋やおさん一家と見送る親族ら(前列右から1人目が2歳の渡辺憲一さん、同3人目が高橋力介さん、同4人目が高橋弘子さん、後列右から4人目が高橋やおさん)=川西町の米坂線羽前小松駅で1942年6月に撮影、渡辺憲一さん提供



「アクタス村の阿彦ーカザフ人になった日本人」

2017年12月22日 23時18分25秒 | 取材の周辺

 12月21日(木曜日)2時半から、赤坂区民センターで行われたカザフスタン共和国大使館主催のミュージカル劇「アクタス村の阿彦ーカザフ人になった日本人」に行ってきました。阿彦哲郎さんご本人もいらしていて、最後に壇上に立たれた。この劇を、北海道に住む三浦正雄さんと伊藤實さんに見せたいと思いながら観劇した。

 カザフ語はもちろんわからないのだけれど、同時通訳があると聞いていた。受付でイヤーホーンを渡された。音楽の音量が大きすぎて、時々同時通訳が聞き取れないところがあったが、初めての試みとの事。26日の公演では改善されているといいと思う。

 内容は、実話とは微妙に違いがあるように思う。それでドラマとして成功しているのだろうと納得する。収容所で詩人から詩集は預かったけれど、その娘さんと結婚したわけではないのではないかと思う。(まあ、ここはドラマなので。)

 終戦直後、阿彦さんはサハリンから、いわゆるシベリア送りになる。いくつかの収容所(ウラジオストック、ハバロフスクなど)を回されて、最後はカザフスタンのカルラグ収容所に。1956年には一緒にいた6人の日本兵は帰国することができたが、民間人の阿彦さんは帰国できなかった(三浦正雄さんも同じような経験をしている)。その後、現地の女性と結婚し、一男一女に恵まれる。1980年代に奥様が事故で亡くなり、現在の奥様とは再婚。1994年、64歳で、一時帰国が実現する。2009年に、以前取材したことのある伊藤實さん、三浦正雄さんの住む同じ団地に永住帰国をするが、日本に馴染めず(「特に奥様が」と聞く)、またカザフスタンに帰ることになった。

阿彦哲郎さんと同じように軽微な罪でシベリア送りになり、長い年月、日本に帰ることができずアフガニスタンで暮らした伊藤實さんと三浦正雄さんの半生も、是非多くの方に知っていただきたいと思います。伊藤さんは今年90歳になります。

私のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」

伊藤實さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-cyio

三浦正雄さんhttp://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/about1-c1ghb


アウシュビッツ博物館ガイド 中谷剛氏 母校佐野高校で講演

2017年12月05日 12時33分56秒 | 取材の周辺

 先日、満蒙開拓平和祈念館の関係者から電話があり、アウシュビッツ博物館ガイドの中谷剛氏が来館予定であると教えてくださった。私は早速中谷氏本人にメールを出し、関東近県での講演予定を伺った。すると、彼の母校である栃木県の佐野高校で12月4日、講演すると言う。

 佐野高校は、父の叔父がその昔、「博物(生物)」を教えていた。小学生の頃、お彼岸やお盆に、バス停に彼を迎えに行くのは私の仕事だった。そして家までの道のり、ポケットから明治の板チョコを出して私を喜ばせ、道端の雑草の名前や由来を教えてくれるのが常だった。栃木中学(現 栃木高校)時代の教え子が国会議員になり、彼の忖度で、亡くなる前に勲4等瑞宝章を受章したことを、父は自分の事のように喜んでいた事を思い出す。その父も亡くなり、実家の家屋敷は菩提寺に寄進し、永代供養をお願いしている。

 私は佐野女子高の卒業生なのに、故郷の教育事情にとんと疎遠になっていた。クラス会もしばらく開かれていない。現在は、佐野高校も佐野女子高も共学になっていて、母校は佐野東校と名前も変わっていた。佐野高校は中高一貫校になっていて、中学で3クラス、高校入試で1クラスの募集だという。私の頃には9クラスあったので、その話を聞いて今更ながら少子化を実感する。隣の足利高校と足利女子高も、近々統合されて1校になるという。

 また、佐野高校は、平成28年度から、文部科学省のスーパーグローバルハイスクール(SGH)の指定を受けたそうで、今回の中谷さんの講演は、その一環であった。

 体育館には、中高生、700名以上と教職員、PTA関係者、報道関係者など、総勢800名近くが集まっていた。講演全体が中高生向けのものなので、最初は、ご自分の子供時代の経験から現在の自分につながる出来事を話してくれた。

 「よそ者」という言葉が講演全体のキーワードになっていたように思う。中谷氏はもともと関西の出身で、小学生の時、足利市の御厨小学校に転校してきて、関西弁しか話せない自分を「よそ者」と意識し始めたという。それが、ご自分の強みにもなって、現在につづいていると。

 詳細は、講演のビデオを直接見ていただきたい。本人の了承を得ましたので、私のホームページで期間を区切って、12月10日から31日まで、公開します。http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-35

 2年前の10月にアウシュビッツを訪ね、中谷さんの案内でアウシュビッツ博物館を見学した。その時の様子はこのブログに書いたことがある((2015年11月01日 )。その旅行の前に、現・飯田日中友好協会理事長の小林勝人さんから歌集『伊那の谷びと』が送られてきた。その本を読んでいたことが影響していたのかも知れないが、アウシュビッツ訪問時、「短歌のようなもの」が、降りてきた。短歌など作ったこともなく、短歌とは無縁に生きてきたので、ルールも何も知らない。ただ泣きながら作った。いい機会なので、このブログの最後に記録しておくことにする。

 中谷さんは、アウシュビッツ・ビルケナウに毎日いてガイドをしていて苦しくないのかしらと思う。私は3時間余りしかいなかったが、とても苦しかった。

 また、中国残留孤児・残留婦人のインタビューをして背景など調べるために先人が書いた手記など読んでいるととても苦しくなることがある。最近の事では、『さいはてのいばら道―西土佐村満州開拓団の記録―』を読んでいた時もそうだった。「おかあちゃん、死んじゃいややー」と叫んでいるのがいつの間にか自分になってしまっているかのように、感情移入してしまう。そうするとしばらくそういう事の一切合切、すべてから離れて、ミシンを出して悪戯したり、無心に草取りしたり、シフォンケーキを焼いたり、タルトタタンのレシピを探したり、友達を呼んで海の幸の贅沢カレーを作ったり、温泉に行ったりして、気分転換をする。時々気分転換が長引くこともあるが、自分の精神衛生が一番大事と割り切って、気の進まないことは敢えてしない。我が儘を貫いている。今、その真っ最中にいる気がする。彼はそういうつらさに襲われることはないのだろうか?生活の糧と割り切れるのだろうか?アウシュビッツ・ビルケナウの大地からのエネルギーに負けそうになる時はないのだろうか?そんな時はどうするのだろう。抜け出すにはどうしたらいいのだろう。この頃は、抜け出さずにグズグズしている自分と馴れ合って「まーだだよ!」と、しゃがみこんで頬かむりしている自分がいる。

 

<以下、アウシュビッツ連作短歌>

 

七十年アウシュビッツの地に生きる白樺大樹の水脈の音聴く

 

「働けば、自由になれる」逆さのB 込めし反骨わずかな自由

 

一瞥できめられしとふ労働かガス室送りかそこに医師居り

 

博物館(ミュージアム)にジェノサイドの記憶ありありとメガネ、革靴、毛髪の山

 

ありありふれた 家族 日常 そのどれも 愛しきものと遺品は語れり

 

立ち尽くすわが目の前の靴の山小さき靴の赤つきまとふ

 

やわらかき髪を梳きつつ明日を語る果たせぬ明日持つ幾万の髪の毛

 

命を生み育むといふ平凡を生き得ず毛髪の山を残せり

 

毛髪で織られし絨毯見てしより無声映画の中をさまよふ

 

諦めて抗うことなくガス室に走る少女らの裸体「よく見よ!」

 

 クレマトリウムの煙突からは人燃ゆる煙見えけむ人燃ゆる煙

 

生き抜こう生きたいといふ強い意思で死体運びす特命労働隊

 

「死の門」に生への渇望運び来て引き込み線の錆荒びおり

 

降車場の有蓋貨車はそこにある百六十万余の命を運びて 

 

 落ち葉踏み己が呼吸を整えよホロコーストのありしこの地で

 

「死の壁」に花束供えし人のあり近寄りがたき祈りのすがた

 

幾百も連なるビルケナウの収容棟みぞれ降るなり墓石なき墓地

 

 想念をショパンのエチュードに乗せて胸苦しさを回避せんとす

 

土曜には隣の小さな教会で結婚式もある絶滅収容所

 

誰も皆泣くわけではないうろたへる自己をこっそりしまふ午後あり

  

ワルシャワはあまた戦禍を越え来たり修復痕もつ煉瓦に触るる

 

ルブリンの野生林檎の落葉やまず林檎残れり初雪抱きて 

 

ゲットーのあまたありけむルブリンで乳母車坂を登りて消ゆる

 


「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」

2017年12月02日 00時14分49秒 | 取材の周辺

 

 11月11日、高知市自由民権記念館で、高知県中国帰国者の会主催の「日中国交正常化45周年・「中国残留邦人新支援法」成立10周年 記念のつどい」が開かれた。私は参加できなかったが、四国に住む大学時代の友人が参加して、その時の配布資料をわざわざ送って来てくれた。自由民権記念館は平和資料館・草の家のすぐ近くだそう。会場は満席で立っている人もいたという。長い間、県内の分校の教員をしていた友人は、どこに行っても知り合いが多い。この日も受付に友人がいて言葉を交わしたそうな。配布資料は中国語と日本語で用意されていたが、中国語の方はすぐになくなってしまったということだ。

「中国残留孤児がたどってきた道と日本社会に問いかけたこと」というテーマで、最初に神戸大学の浅野慎一先生の講演があったとの事。レジメでは丁寧に時系列に沿って問題点が、整理されていた。そして、たぶん国家賠償訴訟を通して見えてきた政府の考え方と帰国者の受け止め方の違いには、多くの時間を割いて問題点を投げかけたのではないかと推察される。そして、「新支援法の意義と限界」では、「国の責任を明確にしたものではなく、恩恵的な自立支援」と、その例を列挙されたと思う(レジメにあるので)。最後に、「「中国帰国者が日本社会に問いかけたこと」とは何か?」では、「語り継ぐべき戦争被害者」だけでなく、「言葉と文化の壁」だけでなく、歴史・社会・政治・行政・国際平和の問題にまで踏み込んで考えるべき問題と。

 あー!聞きたかったなぁー。20年以上前に会ったきりなので、挨拶しても気付いてもらえないだろう。昔は家人にトドと呼ばれていたが、今は「うちのクマさん」と呼ばれている。時々娘が宇多田ヒカルの「ボクはクマ」を私をからかいながらふざけて歌うと、原曲を聞いたことのない夫まで、相和して歌う。所沢の帰国者センターが閉鎖になる少し前、コピーしたい本があり、伺ったが、先生方は20年間の私の太りように唖然としておられた。その時お会いできなかった先生に、今年4月の聖蹟桜ヶ丘の拓魂祭でお会いし、挨拶をしたら、「誰ですか?」と、言われてしまった。数年間、プロジェクトで月1回は会っていたというのに。

 話を戻そう。レジメを読んだ私の感想。常に帰国者の立場に立って研究を進めてこられた浅野先生らしい講演だったのではないかと推察します。中国帰国者は、ともすれば「語り継ぐべき戦争被害者」としての側面にのみ、多くの光が当てられてきたのかも知れません。それは一番大事なことに違いありません。まず知ってもらう事。彼らのひとりひとりの人生が、日々、どのような喜び悲しみで彩られ形成されてきたのか。日本人には想像もできないことを彼らは経験してきたのですから。そして、そこから彼らは立ち上がった。国家賠償訴訟では、ただ泣いているばかりの戦争被害者から、力強く各地で戦う姿を示した。

 長く中国帰国者問題と言われてきたのは、実は帰国者を受け入れ始めて見えてきた日本社会の問題だった。そしてそれが、ともすれば、言葉(日本語習得)と異文化障壁の問題に安易にすり替えられてきたのだ。それが、押し込めきれず噴出した80年代、各地の第二種県営住宅などで発生した地域コンフリクト、子どもの居場所をめぐる問題として顕在化したチャイニーズドラゴンの発生(暴走族のTOPに残留孤児二世が)、日本語学習に夜間中学が果たした役割(岩田先生はお元気かしら?)、様々な出来事が思い起こされる。

 日々様々な記憶が薄れていくので、覚えていることを記しておこうと思う。最初に東京で先行裁判をしようという話になって、当時の中国帰国者の会の事務局長・長野さんと会長・鈴木則子さんを中心に、岩田先生、庵谷巌さん、石井小夜子(弁護士)さん、私で集まった(名前は忘れたが、もう一人、都の福祉行政に長年携わっていらした方がいたと思う)。

 その後、何度か話し合いがもたれたが、私は一身上の都合(たぶんこういう時に使うのがもっとも適切な言葉なんだと当時を振り返る)で参加できなくなった。その後、結審してから裁判記録が送られてきた。私の修士論文が、裁判の証拠品として使われたことも知った。それは、昔、東京都作成の「自立指導員の手引き」に書かれていた『中国帰国者は、自分が自立(生活保護脱却)してからでないと、家族を呼び寄せてはいけない』という内容だったと記憶している。そのように言われた帰国者の証言と共に、記されていた。

 同志としていろいろなことを話し合った長野さんが亡くなったことも知らずに年月は過ぎた。

 当時、飯田橋にあった弁護士会に呼ばれ、帰国者の援護政策について話をさせていただいたこともあった。その場に弁護士ではないけれど、菅原幸助さんもいらした。資料をたくさん持って行って、しばらくお預けしていた。2年前にそのことを思い出して返していただいた。その資料を見ると、その頃の情熱がどこから湧いて来たのか不思議な気がする。今は、やりかけの仕事を、「やらなきゃ、やらなきゃ。」と思いながら、いっこうに進まないのである。

 老害に入りつつあると感じる日々。大学生から卒論のために問い合わせなどあると、嬉しくてホイホイ協力してしまいます。ただし、紹介依頼があった時は、メールだけでなく学生本人に会って帰国者の承諾を得てから紹介しています。若い人が興味を持って調べてくれるのはとても嬉しいことです。この仕事も、若い人に引き継いでいきたいと感じている今日この頃です。


ハンナ・アーレント『全体主義の起源』

2017年09月05日 16時48分31秒 | 取材の周辺

 昨日から、「100分 de 名著」ハンナ・アーレント『全体主義の起源』が始まった。大学院の頃、「国家とは何か」という問いに占領されていた頃、先輩に進められて読んだ。その先輩は、くも膜下出血で早々にお隠れになった。『全体主義の起源』は訳文が格調高く、難しいけれど読み応えのあるいい本だった。

 それから30年近く経って、昨年、『ハンナ アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 (中公新書) 矢野 久美子 (著)を読んだ。これも若い友人の勧めで読んだ。読みたい本、読まなければならない本が山積しているので、正直、有難迷惑だったが、無理やり渡された本だった。ハイデッカーとの恋愛、ユダヤ人迫害を紆余曲折乗り切った様子などは知らなかったので、あの時代を生きた彼女の人となりや苦渋に触れることができたので、結果的には読んでよかったと思う。

 この番組に接するまで、ここ2、3年、先輩の事を思い出さなかった。お亡くなりになった直後は半年間くらい茫然自失だったのが、今は遠い昔の事のよう。10月でちょうど没後10年になる。研究のアドバイスから子育ての悩みまで、尊敬する素晴らしい先輩に出会えたことは、私の何物にも代えがたい財産だと思っている。

 天国の彼女と一緒に番組を見ているつもりで楽しもうと思っている。

http://www.nhk.or.jp/meicho/


元日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)の会長 小川岟一氏の訃報に接して

2017年08月05日 00時33分18秒 | 取材の周辺

 

 ただいま北海道の最果ての小さな温泉町にいます。7月31日、元日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)の会長だった小川岟一氏がお亡くなりになられた事を、翌朝のメールで知った。8月1日、宿の北海道新聞には、とても小さな死亡記事が出ていた。あれだけの業績をなした方なのに、これっぱかしの記事では、彼の偉大さは一般の人には何も伝わらない。北海道とも縁の深い方なのに、その取り扱いは不満だった。翌日、図書館で読売新聞を開いた。が、今度は記事そのものがない。もう一度探したがない。この小さな図書館には新聞は一誌しか置いてないのだ。販売部数の一番多い全国紙に、彼の訃報が載っていない。ネット検索をしてみるとどこも簡単な紹介ばかり。元会長だったというだけ。信じられない思いと怒りがこみ上げてきた。日本サハリン協会の本箱には、これまで取材に応じた膨大な量の新聞記事のスクラップブックが収まっていた。それらの記事を書いた記者は、もうこの世にいないというのか。彼の偉業を知る記者は、どこにもいないのか。

 2年前、近藤孝子さんの取材をするため、日本サハリン協会に伺った折、お元気そうに書類の整理などなさっておられた。インタビューを申し込んだが、断られた。 

 政府の無関心と戦い、樺太に日本人はいないという政府の強弁を打ち砕き、樺太残留日本人の一時帰国、永住帰国への道を切り開いたのはほかでもない彼だ。彼の口から、ひとつひとつの壁をどのように打ち破って帰国を実現させていったのか、細かな経緯を聞いて、記録として残しておきたかった。

 この小さな図書館には、吉武輝子の『置き去り』も置いていないので、確認もできない、あいまいな記憶だが、「一人でも多く、一日でも早く、時間との闘い」を合言葉に、小川さんは戦い抜いた。もし小川さんがいらっしゃらなかったら、サハリン残留日本人の帰国は今も実現していなかったのではないかと思う。不条理な棄民政策への強い怒りと闘争心、不屈の信念と樺太残留日本人に対する深い想い。その功績は帰国者問題に留まらず、社会的歴史的な偉業だと思います。

 謹んで哀悼の意を捧げます。


二世の生活問題

2017年05月26日 15時58分32秒 | 取材の周辺

 4月24日(月)から5月16日(火)までの22日間、四国、関西、山陽、九州と取材旅行に行って来ました。22日間というのは、リタイア直後のイギリス カントリーサイドドライブ旅行(24日間)に次ぐ長さでした。何もかも車に積み込んで出発し、27名の方にインタビューする事が出来ました。

 当初は6月に計画していたのですが、一番会いたいと思っていた方が、3月に風邪をひいたと聞くと、居ても立ってもいられなくなり、日程を早めたのでした。

 旅行から帰ると、礼状も出す前なのに、数人の方から先にお便りをいただきました。取材で言い忘れたことを補強する内容だったり、関連資料を送ってくださったり、単に取材の疲れを癒すための温かい心のこもった絵手紙だったりしました。大変有り難く、まだ旅の余韻に浸っております。

 大まかな旅程は、東京港からフェリーで徳島港へ。淡路島を通って大阪、京都。岡山、福山、広島。広島からフェリーで松山。宿毛港からフェリーで佐伯港。熊本、長崎、福岡(北九州市、筑紫野市)、新門司港からフェリーで東京港でした。

 毎年5月の薔薇の季節は、我が家で一番お客様の多い月で、旅行に行っていたからと言って恒例行事を取りやめるわけにはいきません。1年に1度、今年も8組の方がいらっしゃいます。その他にも不意の夫のお客様もあり、毎年この季節を連れも楽しみにしています。

 そんな中で、細切れの時間をつなぎ合わせて取材ビデオを聞いていたら、自分が取材したにもかかわらず、初めて聞いたように驚いている自分がおり、如何ともしがたい記憶力の低下に愕然とするばかり。とにかく記憶が消えてしまわない内に早くに記述しておかなくてはなりません。文字起こしもインタビューの2,3倍の時間がかかります。派生する疑問点の解明にも時間がかかります。ご協力くださった皆さんには、しばらくお待たせしてしまいますが、お許しくださいませ。

  満蒙開拓青少年義勇隊 特殊訓練所の事は存在さえも知りませんでした。開拓団の中で集団リンチ殺人があったという事も、初めて聞きました。731部隊にひと夏いらしたという元従軍看護婦さんの話も興味深い。引揚途中、多くの方が壱岐の島で足止めされ、自分の家族だけ奇跡的に助かったという方の話も驚きでした。山口県の「中国残留婦人交流の会」の山田忠子さんにお会いしたいと長い間思っていて、やっと連絡先が分かったのに、昨年お亡くなりになったとご遺族から連絡があり、大変残念でした。多くの残留婦人が彼女の支援で日本に帰国できた事、忘れてはいけない事だと思っています。

 最後に訪れた福岡では、これまで自分が二世の生活問題に目を背けていたことに気付かされた。もともと私のホームページは、「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」で、一世のインタビューが中心だった。高齢化し、年々鬼籍に入られる方々が多い中で、時間との戦いと思い、「急がなくちゃ」とやってきた。そうして私は結果的に二世の生活問題に気付くことなくのほほんと生きてきてしまったのだった。

 日本語教室の終了後に通訳を介して二人の方からインタビューをさせていただく予定だった。ところが、その2名がなかなか決まらない。そして思いもよらない展開になり、会場全体が二世の話を聞いて欲しいという事になった。流れにまかせて通訳を介してお話を伺った。音声のみで映像は出さないことで了承を得た。

 拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」(1998-05-29中国帰国者定着促進センター紀要. (6))で書かせていただいた通り、残留婦人・残留孤児たちは、日本への帰国を希望してもなかなか順番がまわって来ず、長く待たされた。順番を待っている間に、望郷の想いを抱えつつ亡くなっていった残留婦人もかなり多かった。その為、日本の親戚の援助や中国の親類縁者からの支援や借金で、自費帰国した残留婦人・残留孤児は非常に多かった。また、援護政策の変遷を調べるとわかるのだが、最初は18歳未満の子どもしか同伴帰国できなかった。中国人の夫とは離婚してなら帰国が許された時代もあった。それが20歳未満に引き上げられたり、残留婦人の老後の生活をみるという約束のもと、一家族の同伴帰国が許されたりと、帰国援護政策は少しずつ変遷して行った。当然、その時々の援護政策から漏れた家族は多数存在し、中国と日本に別れて、夫婦、兄弟、親子は生活することを余儀なくされた家族が多かった。戦争で家族が分断され、日本への帰国援護政策でもまた、家族は分断されたのです。残留婦人達は昼夜働き、旅費を溜めてはひとりずつ子どもたちを呼び寄せたのです。それが自費帰国の二世達です。

 その自費帰国の二世たちの訴えは以下のようでした。

  同じ母親から生まれたにもかかわらず、国費帰国の兄弟と自費帰国の兄弟では、受けられる帰国者援護政策に差が出来てしまうという理不尽な境遇に晒されている。国費帰国の二世たちは、日本語学習の交通費がでる。自費帰国者には出ない。国費帰国の二世達には医療通訳がつく。自費帰国者にはつかない。

  二世は支援金の対象外なので、ほとんどの方が年金か生活保護で暮らしている。国費で早めに帰国できた方は、年金も満額貰える方が多いかも知れないが、長く待たされて、残留婦人の汗で捻出した旅費で帰国した二世達は、働く期間も短く、年金も満額には至らないケースが多い。また、年齢的なこともあり日本語学習も思うように進まない。生活保護受給では、「あなたたちは国に養われているんだよ。」と言われ、傷つき、人としての尊厳が保たれていないと感じている二世が多い。「あなたたちは自費だから、勝手に帰って来たんでしょ。国は面倒見ない。」と言われているようだ。中国では「鬼日本人」と蔑まれて来て、日本では「中国人」と言われる現実を生きている。と。

福岡の二世の皆さんのお話は、全国の二世の皆さんの問題でもあります。まず、多くの方に知っていただきたいと思います。拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」(1998-05-29中国帰国者定着促進センター紀要. (6))のその後、1998年以降の援護政策の展開について続編を書かなければならないと常々思ってはいるのですが、なかなか果たせずにおります。書くことで果たして大きな宿題をくださった皆さんへの答えになるでしょうか。政治力も何もない私にできるアクションはどんな事があるでしょうか。

福岡の二世の皆さんのお話は、ホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」→「周辺の証言」最後あたりで聴く事が出来ます。http://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/blank-19


満蒙開拓青少年義勇隊 嫩江訓練所 八州会 最後の大会記録

2017年04月13日 01時52分44秒 | 取材の周辺

2017年4月8日、9日。長野県阿智村の満蒙開拓平和祈念館→安曇野ほりでー湯→聖蹟桜ヶ丘 拓魂祭参加→新宿西口 平和祈念資料館

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 旧満洲に勃利(青少年義勇隊)訓練所と並び大きな嫩江(青少年義勇隊)訓練所がありました。略して嫩訓(のんくん)。その中に50前後の中隊があったようです。その一つが八洲会(やしまかい)。4月8日・9日に、最後の大会があり参加させていただきました。
 初日は満蒙開拓平和祈念館見学、安曇野の温泉で大会。翌朝は7時半出発。聖蹟桜ヶ丘の拓魂祭(11時開始)参加というかなりハードな感じの日程でしたが、それぞれの事情で参加できるところだけ参加というゆるい形態で、移動はマイクロバスだったので、予想していたほど大変ではありませんでした。
 全行程、記念館の寺沢秀文氏も参加してくださって場を盛り立ててくださいました。移動は別だったので、羽根付きの空を飛べる車を持っているのか、魔法の箒を持っているのかも知れません。
 拓魂祭は例年より参加者が多く、特に今年は若者の姿が多かったとのことです。最初の頃は会場に溢れるほどの人の波だったそうです。雨模様で残念でしたが、桜は満開でした。その後、新宿のデパートで昼食をとり、住友ビルの平和祈念資料館見学。後、解散という日程でした。
 八洲会は「やしまかい」、五洲会は「ごしゅうかい」、「三洲会」は「みくにかい」と、読みが興味深く、理由を伺いましたが、わかりませんでした。「丸山会」は隊長の名前が丸山さんだったので。ということでした。
 20数年前、自興会や拓友会の事を調べていた時、どこも解散「する」とか、「した」とかいう時代でした。それが現在まで続いて来たのは、会長さんのリーダーシップと面倒見の良さで定評のある事務局長さんの両輪が上手くバランスがとれていたお陰だという事は間違いありませんが、また参加者のそれぞれの熱い思いがあってこそだと思いました。ある方は、大会の宴席で、「160人の内、80人しか帰ってこられなかった。」と、無念の内を話された。平和な時代には考えられないようなことを経験し、平和への想いを一つにしてこられた。毎年全国から集まって、奇跡のように大会を続けてこられた。ほんとうに奇跡です。
 初めての参加にもかかわらず、皆さん、暖かく迎えていただきありがとうございました。

沖縄取材報告②

2017年02月19日 08時43分24秒 | 取材の周辺

 


 昨年の沖縄取材では、3名の方に取材しましたが、その中のおひとり、No.5さんは、インタビューから3か月後にご病気でお亡くなりになっておられ、残念でなりません。今年お会いして、彼の疑問点を晴らすお手伝いをしたいと思い、資料を印刷して持って行ったのでしたが、役には立ちませんでした。

 今年は、「中国残留孤児・残留婦人の証言」で4名(実数は5名)、「周辺の証言」で、8名の方にお会いする事が出来ました。

 

 No,38さんは台湾生まれ。終戦後間もなく母親が再婚した義父の生家のある福建省で育った。帰国後は子供の教育などで苦労した。二胡の名士。

 No.39さんは自動車教習所で親身になってくれる先生と所長に導かれ、日本語が何もわからなかったのに、日本に帰国して8か月で運転免許が取れたとのこと。その恩は一生忘れないと。お母さんは永住帰国を希望していたが、許可がおりた直後に病気で亡くなり、あれほど帰りたかった日本に帰れなかった。

 No.40さんは文革の時、身の安全のため、中国籍をとった。中国の日本大使館に手紙を書いて、第2回目の訪日調査に参加した。テレビを見て、元開拓団の隣のおばさんが、「似ている」と見つけてくれた。

 No,41さんは「大陸の花嫁」だった残留婦人。「声だけ」を希望されました。残留婦人はもう数年でどこにもいなくなってしまいますから沖縄本島では貴重なインタビューです。

 実は、もうおひとり、インタビューさせていただきましたが、ご本人の希望で、ビデオは公開できないことになってしまいました。お会いするのに、待ち合わせ場所を2回変えられ、その意図がわかりませんでした。3回目の待ち合わせ場所である駅の近くの銀行の前で会う事が出来ました。それから彼の指示通りのファーストフード店に入りました。インタビューの趣旨を説明し、同意を得てビデオをまわしながらインタビューしましたが、後半では「戦犯の子孫たちや右翼に自分は狙われている」という不可解な話になってしまいました。インタビューの後、「インタビューは公開しないで欲しい」という風に変化しました。インタビューの中でも文化大革命の時の悲惨な経験は聞いていたのですが、再度当時の事をいくつか確認させていただいた。文革のトラウマを引きずってずっと生きてこられたのだろうと想像できた。昔、ほんの短期間、大学の留学生センターで「日本事情」を教えていた時期があった。その時、文革で下放され、ずっと後に大学・大学院と学び、中年になって中国の大学の講師になった留学生がいた。彼女は最初、時間が出来ると地元の日本語ボランティアサークルに出入りし、積極的に日本語を学んでいた。しかしそのうち、「つけられている」というようになり、日本語ボランティアサークルに行かなくなった。狭い町で、同じ日に同じ人に2度会うと、それは彼女の中では「見張られている」というように自動変換されてしまうらしかった。精神科医でもない私が、多くの言葉を労しても、そのトラウマから救い出す事が出来なかった苦い記憶がある。ビデオは公開できなくても、まだまだ文革のトラウマを背負った方がいるという事実を思い出させていただいたことは、感謝しなくてはならない。

 「周辺の証言」では「元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さん」、「『沖縄と「満洲」の著者、山内ゆりさん、比屋根美代子さん』」、「沖縄満洲会の元会長 名城郁子さん」、「沖縄戦の戦災孤児だった神谷洋子さん」、「元白梅学徒隊の宮平義子さん」、「白梅学徒隊の山中さん」、「元伊漢通開拓団 川満恵清さん」の8名です。


元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さんについては、2月6日のブログ、沖縄取材報告①に詳しく書かせていただきました。

『沖縄と「満洲」』の著者、山内ゆりさんと比屋根美代子さんについては、幸運な偶然が重なりお会いする事が出来ました。本当に素晴らしい本なので、多くの方に手に取って読んでいただきたいと思います。2年間、新聞の関係記事を洗い出すことに専念し、そこから派生する出来事を関係資料で調べ、人にあたり、その取材した人数は300人以上と伺いました。ジグソーパズルのピースをひとつひとつ埋めていくようにして、沖縄の中の満洲(一般開拓民)を完成させたのでした。この本は、沖縄の人々があの戦争をどう生きたか、客観的事実を集めて満洲を基軸に「小さき人々」の歴史を紡ぎ出すことに成功した。それはまさに空白の沖縄の歴史をしっかりと後世に伝えていく礎なのです。この本の存在によって沖縄の歴史が表情を持って浮かび上がってくる。沖縄の財産であるとともに、日本社会全体の財産です。それを歴史家でもない社会学者でもない4人の女性が長い時間をかけて丁寧に誠実に成し遂げたことに、深く深く敬意を表します。




沖縄満洲会の元会長 名城郁子さんは、昨年まで、沖縄満洲会の会長をなさって、沖縄平和記念公園でのシンポジウムなど、積極的に活動をなさっていらっしゃった。会員の高齢化やご自身の多忙、後継者がいないことなどから、閉会ではなく休会になさったとのこと。その活動の中で、貴重な体験記を綴った『沖縄・それぞれの満洲ー語りつくせぬ記憶ー(沖縄満洲会15周年記念誌)』と『戦時下の学童たち -那覇高六期生「戦争」体験記-』(琉球政府立那覇高校六期生(昭和28年卒)戦争体験記発行委員会)の出版は、大きな反響を生んだ。満州での豊かな子供時代の話など、是非ビデオでお話を聞いていただきたいと思います。



沖縄戦の戦災孤児だった神谷洋子さんは、お魚屋さんの女将さんで、店先でインタビューさせていただきました。沖縄では旧正月を祝う風習が残っているらしく、インタビューの最中にご近所の方が「あけましておめでとうございます」と、ご挨拶にいらっしゃった。沖縄戦のさなかを、どう生き延びたのか、肉声を聞いていただきたいと思います。奇跡の人です。

 元白梅学徒隊の宮平義子さんと山中さんは、現在、白梅同窓会の活動と平和のための活動を積極的になさっていらっしゃいます。沖縄の10の女学校すべてで「学徒隊」が結成され、沖縄戦の傷病兵の看護に当たった。おふたりは、沖縄県立第二高等女学校の生徒だったので、「白梅(同窓会誌の名前)学徒隊」として第二十四師団「山」部隊の第一野戦病院に赴いた。多くの仲間が亡くなった、と。

  元伊漢通開拓団 川満恵清さんは、息子さんが、両親から聞き取りし、纏められた『母に生かされて』(非売品)という本に詳しい。当時の八重山の開拓民の暮らしなどが書かれていて興味深い。日本に帰国後は、長く歯科技工士として働き、同じ伊漢通開拓団の方々と「伊漢通会」という会を月に1度、10年前まで開いていたとのこと。その中では一番下だったので、今は誰も残っていないとのこと。

 

 <おまけ・車椅子旅事情>

 

1、ひめゆり平和記念資料館(〇)

 玄関の左前の藤棚に、咲き方はノウゼンカズラに似ているのですが、色はジャカランダの薄紫に似ている花が夢のように垂れ下がってたくさん咲いていました。心を鷲掴みにされ、何枚も写真を撮りました。

 入口には、車椅子が用意されていて、スムーズにお借りする事が出きました。不便なことは何もなく、車椅子返却後も、係の方が帰り道の最短を案内してくださいました。私たちは2回目の見学だったので、記憶をなぞるように思い出しながら見学しました。

 

2、南風原町立南風原文化センター(◎)

 沖縄戦の事や、終戦直後の沖縄の状況について、いくつかわからないことがあり、友人に訪ねたところ、「南風原文化センターの学芸員の方にうかがうといい。」というアドバイスをいただき、沖縄陸軍病院 南風原壕群20号の見学もしたかったので行きました。

 玄関に置いてある車椅子は、自走式と介助式と両方ありました。これはとても便利です。自走式を選びました。本人が本人のペースで展示物を見て回る事が出来るからです。中の展示は驚くほど充実していて、沖縄の移民の歴史については初めて知りました。今回の少ないインタビューでも、親がフィリピンや台湾へ出稼ぎに行っていた話があり、うなずけました。20分間の映写は、沖縄戦の様子、飯上げのひめゆり学徒隊の様子など、わかりやすくコンパクトにまとまっていて素晴らしいものでした。私たちはゆっくり見学をしていたので、陸軍病院20号壕跡地見学の時間が迫っていることを失念していました。受付の女性が時間の確認に来てくださり、「駐車場から壕の入口までは遠いので、車椅子を車に乗せて行ったらいい。」と、親切にも貸してくださいました。

 

3、沖縄陸軍病院南風原20号壕跡地(◎)

 駐車場に着くと、壕の案内の方が待っていてくださいました。そして車椅子を押して壕の入口に連れて行ってくれました。見学者は私たちだけだったのですが、丁寧に説明をしてくださり、当時の壕の中の悪臭(糞尿と血と薬)を科学的に合成した匂いの入った小瓶を嗅がせてくれました。予約の時に車椅子使用の事は伝えてありましたが、せいぜい壕の入口までで、壕の中まで入れるとは思っていませんでした。懐中電灯で照らしながら、狭い2段ベッドの脇を通りました。学徒隊の方が看護する姿を思いました。最後に青酸カリを牛乳に混ぜて患者に飲ませた医師のことを思い、飲ませなかった医師のことを思いました。そしてまた、駐車場まで送ってくださいました。南風原文化センターに戻り、展示を最後まで見て、学芸員の方にいくつかの疑問点を伺いました。新たな問題意識も生まれました。初めての訪問だったせいか、見聞きするすべてが新鮮で、有意義な訪問でした。

 旅行中、私たちはその時の医師と学徒隊だったらどうするかを幾度となく話し合いました。「飲ませる」「飲ませない」の役割を交代して、ディベートのようなことをけっこう長い時間を使ってやりましたが、疲れて私からやめました。 

 

4、沖縄平和祈念資料館・平和の礎(×)

 2度目の訪問。沖縄平和祈念資料館の一番近くの駐車場に車を止めて、入口で車椅子を借りて資料館を見学しました。「証言」の部屋で、気が付いたら2時間くらい経っていましたが、連れも興味があったらしく、充実した時間を過ごす事が出来ました。その後、平和の礎を見学しようと思い、「屋外用の車いすはありますか」と、尋ねたところ、ないという返事。「本来ならば、駄目なんだけれど、特別に短時間ならこのまま使ってもいいですよ。」という、なんともはっきりしない、借りるわが身が卑屈になるような返事。「本来」、「駄目」、「特別」などの言葉が私の気持ちに引っかかり、「本来の方法で借りたいのですが、どうしたらいいですか?」と聞き返した。すると「左に行って右に行くと事務所があります。」という返事。連れに玄関を出たところの椅子で待ってもらい、受付のお姉さんの言う通り、左に行って右に行ったが事務所はない。結局平和の礎の外回りを一周して事務所にたどり着いた。お姉さんの「左に行って」は、左に行って(玄関を出て)という意味で、あったらしい。そこで車椅子を借り、緩い坂を降りて、資料館の玄関に戻りました。たぶん15分か20分くらいは待たせたと思う。二人で平和の礎から海を眺め、お祈りし、もう一度一周した。今度は、資料館の駐車場(資料館にも平和の礎にも一番近い)に置いてある車に車椅子を積み込み、数十メートル離れている平和の礎の事務所に車椅子を返却に行った。そこで、「もっと利用しやすいようにして欲しい」と申し入れた。すると、沖縄平和記念資料館は県の施設、平和の礎は財団の運営で管理母体が違うとの説明を受け、はじめて知って驚いた。同じ敷地にあって(厳密には「あるように見えて」)、運営母体が違うとは、誰が想像できただろう。歯切れの悪いお姉さんの言動が、やっと腑に落ちた。しかし、車椅子を利用する立場からは、資料館で車椅子を返して、資料館からも平和の礎からもはるか遠くにある事務所まで、杖をついて登って行って屋外用の車椅子を借りるのは、不合理である。だったら、平和の礎は、杖をついて歩いた方が、車椅子を借りに行くより歩かないで済む。何とか改善していただきたいものである。


 


嬉しいニュース!

2017年02月09日 15時24分54秒 | 取材の周辺

 

 今日は2月9日、午前10時。このホームページを立ち上げて、今日までで、こんな嬉しい日はない。

 たった今、発信者の登録名のない電話が携帯にかかってきた。第一声は、「お陰様で支援が出来ました。」何のことか、誰からの電話なのか、この頃反応の鈍い私の脳細胞は、理解するのに時間がかかった。

 要約するとこうだ。私のホームページの彼のインタビュー内容を、関係者が聞いて、新支援法の該当者になるのではないかと再調査をしてくれて、支援金を受け取れるようになったという喜びの報告であった。

 思いもよらぬ報告で、こんな形で役に立てたことが本当に嬉しい。実はこれまで、たくさんの方にインタビューしてきて、1番気になっていたことが、新支援法が出来ても、そこから漏れている帰国者の事だった。

 すぐに思い出す二人の事例を紹介しよう。

 その方は、ご本人に新支援法の受給の有無を聞いても、「何のこと?」といった反応であった。彼は1972年の日中国交回復直前に親戚の援助で帰って来ている。新支援法の(資産)調査を受けたかどうか尋ねると、嫌そうな顔をして、「生活保護は受けない。国民年金でなんとか暮らしていける。」と、頑なだった。生活保護と支援金は違うという事の説明はしたが、帰国当初に生活保護でよほど嫌な思いをしたのか、「家もあるし、夫婦二人の葬式費用も貯金している。今のままで何とかなる。」という返事だった。しかし、彼が受給している年金の額は、生活保護世帯の基準額よりかなり少ない。

 またある方は、夫婦二人で暮らしていたが、親思いの息子のひとりが心配して、中古の家を買い、一緒に住むようになった。そのため、新支援法が出来ても、何の恩恵も受けていない。「近所に住む同じ帰国者は医療費が無料なのに、私たちは夫婦合わせてもわずかな年金で、医療費も高く、結局、息子の世話になりながら、暮らしている。息子だって、結婚して家庭を作らなければならないのに、私たちが足かせになっている。」というような話でした。インタビューの中で、世帯分離の事を話しましたが、その後どうなったか、ずっと気にかかっている。

 地元の人々が長い年月をかけて帰国者を支援してきて、その中で築かれた信頼関係はとても貴重なものです。私の不用意な言動で、それを壊すようなことがあってはならないと常々思っている。だから、めったに介入するようなことはしないと決めている。支援者の協力があって、私は取材が出来るのだ。だが、この件に関しては、世帯分離の方法を考えていただいてもいいのではないかと、インタビューの後で、支援者の方にメールを出した記憶がある。心からの支援に携わっていらっしゃる方々なので、きっといい方向に動いたのではないかと、想像している。

  新支援法では、「子と同居している中国残留邦人については、子と同居していることを理由に給付金の支給が受けられないことがないようにする。」とありますが、多くの担当者は、「生活保護を準用」という原則に則って、世帯分離を法の網目の「逃げ道」のように誤解している節がある。東京都では常識でも、まだまだ地方では、担当者にさえ周知されていないことが多い。このようなケースでは、堂々と世帯分離を推し進めていただきたいと思っている。

 また、資産調査も多くの方々の支援金受給を立ち止まらせている。生活保護受給時のトラウマが今も根強く残っているのだ。それはケースワーカーから浴びせられた言葉よりも、親戚から浴びせられた言葉によってである方が多いように思う。昔は、親戚が帰国者を援助できない理由書を、福祉事務所に提出しなくてはならなかった。「生活保護は受けないという約束で、身元引受人になってやったのに」などと、言われたようだ。

  彼らのこれまでのライフヒストリーを聞いていただければわかる通り、満洲で孤児となって取り残され、日本に帰る手段などなく、中国の大地に育てられて成人したのだ。ほとんどの方が、日中国交回復まで日本に帰れなかったのだ。(そしてほとんどの方が、日本に帰国するまで、白米を食べる事が出来なかった。コーリャンやヒエ、粟が主食で、正月にだけ、肉の入った餃子が食べられたという人が多い。食いしん坊の私は、この事をほとんど全員に聞いている。白米を毎日食べられた人はほんの僅かしかいない。)

 それは彼らの意志ではない。この事実だけを考えても、孤児全員に何の制約もつけず、支援金を支給すべきではないかと思う。

 大雑把に考えても、おふたりのように、現在支援金を受けていない方(世帯収入超過、預貯金超過、新築のローン資産算定、生活保護のトラウマ等)は、全国で50人にも満たないのではないかと思う。これは、なんの根拠もなく、ただ、直接取材した人の中に5人いたということから、まったくの私の勘によるもので、もっと本音を言えば全国に30人にも満たないのではないかとさえ思っている。国にとっては大した金額でなくても、財政引き締めを図っている地方自治体にとっては、大きな金額であるかもしれない。そのために、支援金支給抑制が働くことがあってはならない。だからこそ、いろいろな制約を取っ払って、持ち家のローンが(資産として)あろうと預貯金が500万円以上あろうと、世帯収入が386万円を超えていようと、帰国者全員に支援金を支給できるように支援法を改正すべきではないかと思っている。


沖縄取材報告①「元ハルピン陸軍病院 従軍看護婦 金城文子さん」取材の背景

2017年02月06日 17時29分54秒 | 取材の周辺

 友人の紹介で、1月21日、沖縄に住む金城文子さんにお会いした。金城文子さんと友人のお母様は、終戦前、ハルピン陸軍病院の伝染病病棟で一緒に従軍看護婦として働いていた。宿舎の部屋も一緒だった。二人とも、終戦間近に院長の英断によりハルピンを脱出し、釜山経由で昭和20年9月29日、早々に博多に帰還している。その様子は、『7000名のハルピン脱出』『7000名のハルピン脱出 追補』(嘉悦三毅夫著、ハルピン陸軍病院院長。非売品。昭和46年8月出版)に詳しい。この本を友人からお借りし、知らない事ばかりで驚いた。「自序」には、以下の記述がある。 

「私の在職中最も大部分を占めたのは満洲国顧問時代で、満洲国軍の衛生医事関係事項、例えば満洲国軍事衛生部の編成、陸軍軍医学校、陸軍衛生工㡀、治安部病院の新設、満洲国赤十字社の創立などの仕事がありますが、(中略)本書の題名を「7000名のハルピン脱出」としましたのは、私の軍医生活中、ハルピン陸軍病院長として終戦直後、患者と共にハルピンを脱出したことが、私として1番の大仕事でもあり、記憶にも残っておりますので、題名とした次第です。(略)」

 本の題名になったハルピン脱出(引き揚げ)に関する記述は、全474ページの50ページにも満たない。満洲国軍事顧問時代の記述が大半を占める。その中には、高官やお金持ちは、当時一夫多妻であったこと、阿片のこと、住居の事など、日常生活に関する記述も散見され、当時の社会状況を知る上で興味深い。

 その本の中に、ハルピン陸軍病院は、満洲における陸軍病院としては最大のもので、収容定員6000名、医師約60名、看護婦約300名、衛生兵約300名、職員約300名。その他、病院の付属として農地約50町歩、乗馬及び耕作用として馬約25頭、乳牛10頭、豚約600頭、農地耕作農夫約300名を有していたという記述がある。食料は自給自足が出来るほどの規模を抱えていたことがうかがえる。

 嘉悦院長は、ソ連の参戦を予期し、ソ連との一戦を覚悟していた。しかし、衛生兵や傷病兵ではとても一戦が出来ないと思い、軍司令部からの「病気は治らんでもよいから小銃が持てるようになったならば、原隊になるべく多く帰すように」という再三の命令を無視し、引き揚げ数か月前から、治癒した健康な傷病兵約1000名を留め置いていた。彼らがいたために無事帰還できたと述懐している。この本には「傷病兵6000名近くと職員とその家族ら1000名が四ケ師団に分かれ、8月14日から17日にかけてハルピンを脱出した」とある。関東軍司令部とは連絡がとれず、院長の英断で大脱出が敢行された。その後の詳細は省くが、当時、「生きて虜囚の辱しめを受けず。」の戦陣訓が生きていた時代に、戦わずして南に逃げたことは、英断というほかはない。7000名以上の命が助かったのだ。帰国後、陸軍大臣に報告するも軍法会議にはかけられなかったという。当時は、戦陣訓のために、実に多くの命が失われた。満洲における集団自決や沖縄戦の集団自決などの悲劇を生んだ。嘉悦院長の英断のお陰で7000名と共に、金城さんも友人のお母様も日本に帰る事ができ、今沖縄と四国で穏やかな日々を過ごしておられる。

 友人が大学生の時の事。お母様が、沖縄に住む金城さんの事をたびたび口にするのを聞いて、お母様の為に沖縄に行って金城さんを探そうと決断した。結婚して名前も変わっているだろう。ハルピン陸軍病院にいたという情報くらいで見つかるかどうか、賭けであった。当時は沖縄が日本に返還されていなくて、パスポートが必要な時代だった。新聞社に尋ね人の記事を書いてもらうと、その小さな記事が金城さんの姪御さんの目にとまり、その日のうちに連絡がとれ、金城さんと友人は会う事が出来た。そして翌日の新聞の小さな記事になった。友人のお母様は、金城さんより5歳年上、今年97歳になられる。車椅子生活ではあるが、頭も気力もしっかりしていて、お元気に四国に暮らしておられる。沖縄と四国に住む二人の間には、電話と手紙によるやり取りが今も続いているそうである

 


山形取材報告

2016年11月22日 23時30分02秒 | 取材の周辺

 

 

 

 

 10月30日(日)から、11月5日(土)まで、山形に取材に行って来ました。北陸取材の報告もまだでしたが、山形に雪が降らない内に取材に行きたいと思い、急いだのでした。山形に近づくと高速道路上からは、まさに錦繍の山々が広がって、幸福感に浸りながら山形入りしました。
支援者・協力者に恵まれ、11人の方にインタビューすることができました。まだお礼状も出していないのに、お土産にいただいたおみ漬け、つや姫に頬を膨らませ、山形の人々の温かさを味わっているところです。特に、「平和の碑 中国残留帰国者墓苑建設委員会」の事務局長 高橋幸喜様、奥様には大変お世話になりました。ご自宅にお招きいただき、芋煮のお昼御飯をご馳走になりました。帰国者が持ち寄ってくださった餃子と共にいただく芋煮は最高でした。どんなレストランよりも美味しかったです。大変有り難く、この場を借りてお礼申し上げます。また、様々な制約の中、県の担当者様、関係者様には多くのご教示、ご協力をいただきました事、大変有り難く感謝申し上げます。 


 時間に余裕があったので、県立図書館で古い開拓団の資料や郷土史、自費出版された体験記などを探すこともできました。同行の夫と共に、斎藤茂吉記念館をたっぷり楽しみ、蔵王連峰のロープウエイにも乗り、中腹の紅葉や、山頂の雪景色も楽しんできました。充実した滞在でした。

 昔から、数年に一度、扁桃腺が腫れて発熱し、寝込むことがありました。山形から帰って、喉の痛みがあり、ルゴール液でうがいを続けていたのですが、ついに1週間ほど寝込んでしまいました。これまでの経験上、扁桃腺が腫れて発熱するのは決まって、ストレスや難題に悩まされている時でした。1週間寝込んでいる間に、別の視点でものが見られるようになったり、悩みそのものが消えていたりするのでした。熱は下がり、平常どうりの生活に戻ったのに、まだどこか上の空で、依然としてその問題は消えたわけではなく、ぼんやり漂っています。
 インタビュー内容をそのまま公開してしまっていいのだろうか。という疑問。「NO.28さん」からは、失言2点を削除してほしい旨、連絡をいただきました。ピーを入れたりという編集作業はしたことがないのですが、頑張って勉強し、取材を受けてくださった方の意向に沿うように、2点を直さなければなりません。公開はその後になります。
 これまでも公開できないインタビューは数件ありました。例えば、ご本人(残留婦人)は強い公開の意志(大勢の人に聞いてもらいたい)を持っているのですが、息子さんは、「その証言で近所の人が文句を言ってくるかもしれない。町の広報誌に満州の事を書いたら、それだけで○○さんが押しかけてきた。」と、インターネット公開には反対でした。貴重なお話だっただけに私としては残念でしたが、息子さんのお気持ちは十分理解できます。また、残留婦人の公開したい思いはもっと理解できます。時間が経ってから息子さんに再度お願いをしてみようと思い、保留になっております。また違う例、「アさん」の場合で言えば、団長さんが集団自決を先頭だって指揮して約60名が亡くなった。ご自分のお母さんも目の前で団長さんに斬り殺された。弟を負ぶって、畑に逃げる途中、「ズドン!」とやられ、目が覚めたら、弟の頭は無くなっていた。中国人養父母に助けられて暮らしていると団長さんが「日本に帰ろう」と迎えに来た。また殺されると思って泣いて養父母にすがりついて残留孤児になった。このお話も事実ではありますが、団長さんのご遺族が聞いたらつらいのではないかと思う。
 ひとつひとつ指摘しきれないくらい関係者に聞かせたくないお話は、正直たくさんある。そのひとつひとつに理由があり反論があるかも知れない。インタビューの前に、インターネットで公開するという事の説明をし、「誰に聞かれてもいい話をしてください。後で苦情が来ると困りますから。」と、冗談めかして注意を促すお話をする。しかし、インタビューが始まると、ほとんどの方はそのことを忘れてしまうようだ。

 今回のケースでは、本人はこのまま実名で公開してほしいという希望を強く持っている。しかし、親族間の問題があからさまになってしまう。編集作業である程度軽減できても、全体像は変わらない。彼は、これまでも積極的にあからさまにしてきた。例えば、山形で映画「嗚呼、満蒙開拓団(羽田澄子監督)」が上映された時、ご自分のこれまでの詳細を書いた冊子を配ったりしている。「悔しくて山形の人に知ってもらいたかった」と。だからいいではないか、とも思う。彼等親族間の事は山形では公知の事実なのだから、と。本人も本名での公開を強く望んでいる。しかし、もし、反論があるなら、両方を掲載しなければ不公平な気もする。
 インタビューを聞き返してみて、私の態度がとても気にかかった。彼の話に寄り添い過ぎて客観性を失っている。怒っている。例えば、彼が半年間、東京の塗装業(壁塗り)の現場仕事に従事した時の話。仕事が終わって帰る時、頭の奥さんが預かってくれていたパスポートを「30万円よこさないと返さない」と言ったという。仕方がないので払ったと。話を聞きながら私は怒っていた。「帰国直後で日本語もわからない。右も左もわからないのに、騙すなんてひどい。同じ山形の人なのに悪徳ブローカーもいいところ。酷い!」と。しかし、この話を聞き返してみると、30万円はもしかしたら半年間の住居費及び食費として請求されたものが、日本語がわからない為に理解できず、「30万円払わないなら、パスポートは返さない」という理解になっていたのかも知れない。可能性としては否定できない。そこで、電話で本人に確認してみた。すると、食費などは別に払ったとの事でした。帰国直後でパスポートの再発行ができることも知らず、彼らに従わなければ、ひとりで山形に帰ることもできない状況下では、悔しくても従わざるを得なかったようでした。
 冷静にインタビューできていたら、後で電話で確認する必要もないものを、と反省しました。

「No.28さん」は養父母が1日に小さなモロコシパン2個しかくれず、毎日家畜の世話に明け暮れ、お腹が空いてお腹が空いて、ネズミや蛇、スズメ、蛙など、何でも食べたとの事でした。零下30度の真冬には、寝る時は豚2頭の間に納まって寝たとの事。もし10歳の私なら、、、と、考えると情けない。彼女はそんな私の気持ちを見透かしたように、「それが嫌なら、自殺するしかない。私はネズミを食べて生きてきた。」と。また、「NO.32さん」は、とつとつと話される話の中に「収容所にソ連兵が来て、5人の女性を連れて行った。その中に20歳の姉もいた。2日後に死んだと聞かされた。」と。私は胸が痛くなった。その方は、10代の頃、方正の収容所でその事を見聞きし、70年間その記憶と共に暮らしてきたのだ。また、No.29さんは「12人の強制帰国」メンバーのお一人。残留婦人固有のご苦労が多々あったことと思います。もう少し早くお話が伺えたら、また違った内容のインタビューになっていたかも知れません。そして、No.32さんは、幼少期、養父に毎日叩かれ、泥棒をさせられていた。白さんと出会い、そんな生活から救ってもらった。No.36さんは、帰国直後、15歳を頭に4人の子供がいた。地元の学校に入学手続きに行くと「言葉がわからない。教える先生がいないから、受け入れられない。」と、断られた。そ、そんな事があるの?あっていいの?私はアタフタしてしまった。子供たちは家でぶらぶらしていて、4か月後に新たな土地に引越しをし、そこの校長先生が満洲帰りで少し中国語もわかり、熱心に日本語の指導をしてくれたとの事でした。運よくその校長先生と出会えて本当によかった。帰り際にはいつの間にか家族全員揃っていて見送ってくださり、「ずっとずっと誰かに言いたかった。聞いてもらいたかった。胸がすーとした。」と話され、感激屋の私は嬉しくて泣きそうでした。庭の柿を採ろうとしましたが、それは断り、奥様手作りのおみ漬けのお土産をいただいて帰りました。皆さん、ありがとうございました。

 


風の盆

2016年09月04日 12時36分14秒 | 取材の周辺

「風の盆」に行って来ました。小説(高橋治の「風の盆恋歌」)は読んだことがないのですが、以前から、一度行きたいと思っていました。石川に住む友人は何度も行っていて、いわば通。「11時過ぎからがいい。」ということで、駐車場の八尾スポーツアリーナからのシャトルバス9時最終に乗るつもりで行きました。ところが、駐車場は満車で、もうどこも駐車できないという係員の返答に一同蒼白。困り果てて、せめて近くに友人夫妻と夫を降ろして駐車場を探そうと思って移動すると、車の障碍者マークが目についたのか、親切な誘導員の方が、特別なシークレットスペース(誰でも利用できる)を教えてくれて、無事車を止める事が出来ました。

 街はけっこう坂が多く、しかし電動車椅子で不便を感じるほどではありませんでした。最初は「舞台踊り」を遠くから見ました。次に「輪踊り」。3歳くらいの女の子が、お母さんの前に後ろに踊りながらついて行く様は、可愛らしくなんとも愛おしく感じられました。草履を返して決めポーズを作るところ、膝を曲げて2秒間くらいそのままの姿勢を保つところなど、自分で学習したのだとしたら凄い!将来は女踊りの名手となることが約束されています。私たちは12時半頃までおりましたが、小学生、中学生、高校生も輪踊りには参加していました。友人も輪踊りに参加して楽しんでおりました。フラッシュ厳禁なので、写真はあまりよく撮れていません。

その後、「街流し」を見ました。行燈の灯りで照らされた街並みはそれだけでも幻想的ですが、胡弓、三味線、太鼓の音が加わって歌も入り、男踊り、女踊りを一緒に間近に見ると、まさに異次元。男踊りの仕草に目を奪われ、女踊りの手のひらの動きにうっとりして、時はどんどん過ぎて行きました。日も変わろうという真夜中に、「ブラック焼きそばは是非食べて!」という友人の勧めで、夫と半分ずつ食べました。初めての味でしたが、なかなか美味しく、「半分じゃない!」と文句が出るほどでした。

友人の話では、最終電車や駐車場へのシャトルバスが終わる11時以降、観光客がどっといなくなってからが本当の風の盆。しっとりとした風情があって自分たち自身が心おきなく踊り楽しむ祭りになるということです。胡弓弾きも歌い手も、もちろん踊り手も町内ごとに変わるので、町内ごとに味わいが違います。どこの町内で踊っているかはわからないので、それこそ巡り合わせです。最終日は明け方まで踊るということなので、来年は是非最終日に来たいものだと思いました。1時以降は、「この町内の街踊りを見るぞ。」と、狙いを定め、キャンプ用のクッションマットなどを持って行って、まったりおしゃべりを楽しんだり、男どもは寝て待つくらいがいいかも知れません。

初めての風の盆。真夜中の不思議な世界。異空間にいるような錯覚を誘う情念の踊り。足は棒のようになりながらもたっぷり楽しめました。そしてそれは友人夫妻と一緒だったからこそ楽しめたという事が言えます。病気をものともせず奇跡のようにみんな元気に生きている。来年の「風の盆」最終日、4人で元気に来られますように。

フェイスブックに動画をアップします。