「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

2016年08月24日 22時24分04秒 | 取材の周辺


 ここのところ不安定な気候が続いております。一昨日は川越でも道路が川のようになったというニュースがテレビで流れていました。北海道での取材中も、高速道路を旭川北で降りた途端、川のような道路に出くわし、怖い思いをしたことがありました。例年、台風銀座は沖縄と決まっていたはずでしたのに、今年は北海道が台風銀座の座を奪ったかのような感があります。

 さて、今回の北海道取材では、13人の方にお話を伺ってきました。

「No.12」「No.13」「No.14」「No.15」「No.16,17,18,19」と、周辺の証言「早期帰国者 坂本先生」「麻山事件の生き証人 鈴木幸子さん」「満蒙開拓青少年義勇軍、シベリア抑留、北海道開拓 山田さん」「行軍中、麻山事件を通りかかった里瀬さん」「ノモンハン事件の生き証人 武田さん」です。

 昨年の夏、北海道の温泉に滞在中、「NHK北海道テレビ」の戦後70年特集番組をいくつか見る事が出来ました。中でも、麻山事件の生き証人が、北海道に住む日本語教師で絵本も2作出版している友人、米山博子さんの故郷、大樹町の隣町の広尾町に住んでいることがわかりました。彼女のご縁で高校時代の恩師で広尾町に住む旗手清先生と旗手先生の元同僚の坂本先生が全面的に協力してくださって、今回の「周辺の証言」インタビューが実現しました。米山博子さんは20年間ガーナ大学で日本語を教えていましたが、昨年帰国し、お父様がオーナーの宿泊施設、インカルシペを引き継いでおられました。私の開設直後のホームページにも素敵な投稿を寄せてくださっております。それは「ゲストブック&ブログ&メッセージ」の2番目に古い記事、「ガーナからの便り」(2013年10月07日)で、今も読む事が出来ます。

 白樺林の中にあるインカルシペに到着早々、よく冷えた「白樺の樹液」をご馳走になりました。その美味しかったこと。ほのかな香りと甘みに運転の疲れも癒えました。夜は「樹液しゃぶしゃぶ」を博子さんが用意してくださり、旗手先生ご夫妻とご一緒にご馳走になりました。不思議とお肉の灰汁が出なくて、野菜もお肉も一段と美味しく感じられました。「科学的な根拠はわからないが、とにかく美味しい。」と、博子さんは話されておりました。そして旗手先生からは、私の知らないたくさんの事を教えていただき、楽しい夕べでした。

 また、昨年に引き続いて今年もK先生に大変お世話になりました。ありがとうございました。いろんな繋がりがあって、いろんな人に助けられて、今回も13人の方にインタビューすることが出来ました事、感謝申し上げます。

 予定していたインタビューがすべて終わって、北海道の大地をレンタカーで走っている時、ふと、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」という短歌のフレーズが浮かんできて、その問いは、頭の中で何度も繰り返されました。インタビューした13人の皆さんは、それぞれ置かれた立場、環境の違いはあるものの、語りつくせない大変な思いをしていらっしゃった。そんな中でもちょっとした偶然や運が味方して、今ここにいることが出来ているのです。それはもう奇跡と言ったらいいような偶然で生かされているとしか言いようがないのです。数限りない人々が背後でお亡くなりになっている。

 中でも、飢えや寒さ、機銃掃射や襲撃にあって亡くなったのではなく、集団自決で亡くなったと言うのは、どこまでも悲しい。

 集団自決と言っても、麻山事件のビデオを見ていただければわかる通り、開拓団に残った数人の老人や徴兵を免れた年少者達が、銃で同じ開拓団員を殺害したのです。しかしその人たちをだれも責めることはできない。彼らの戦後は、誰かに責められることがないとしても、その罪を背負って生きなければならないというのは、もしかしたら、それ以上に辛く悲しいことだろうと想像します。

 集団自決の生き証人は、私のホームページにも二人登場します。「アさん」と「No.2さん」。長野と山梨の開拓団でした。

 よく知られているのは、瑞穂村開拓団の集団自決で、犠牲者は495人とされています。麻山事件は、哈達河(ハタホ)開拓団で、421人が死亡したと言われといます。犠牲になったのは、ほとんどが婦女子と老人でした。

「周辺の証言」の「麻山事件の生き証人 鈴木幸子さん」のお話と、「翌日行軍し、惨状を目撃した里瀬さん」のお話は、両方聞いていただければわかりやすいかと思います。

 集団自決に追いやられた当時の時代的背景、皇民化教育で育まれた価値観や倫理観、例えば「「生きて虜囚の辱めを受けず」や「凌辱よりは死を」の玉砕を美化した考え方が支配的だった当時にあって、それを否定して生きることは難しかったものと容易に想像ができます。それは、軍隊にあっては桜花作戦(人間爆弾、タコツボ作戦)や特攻隊などに如実に現れていて、異を唱えることは、死をも意味する結果になったかも知れません。また、真岡郵便電信局の乙女の自決なども広く知られています。

 身捨つるほどの祖国はありや

 しかし、そんな時代にありながらも、「命だけ残しなさい。」を合言葉に生きてきた残留婦人もおりました。私はとても鈍感な所があって、いろいろなことに気づかない。ずいぶん後になって、同じことを言っている人を取材したことがある。「命だけ残しなさい。」その言葉が澱になって、どこかに引っかかっていた。ある日、取材ビデオを見返していると、「命だけ残しなさい」の言外の意味が浮かんできた。電話をしてそのことを尋ねると、「あんたは馬鹿だね」と言って電話は切られた。その残留婦人とは、私が30代後半の時に初めてお会いし何度もお話を伺って来た方なので、すぐに飛んで行った。そしてとても詳細なお話をビデオなしで聞かせていただいた。最初は見聞きした話として、それがいつの間にか、ご自分の話になっていた。

 集団自決から残留婦人の話にいささか話がずれてしまいました。嫌な言い方ですが、残留婦人達は、「侵略戦争のツケを払わせられた。」という言い方をよくされます。

 ある人は、「嫁らにゃしょうがないもんで。」現地の人の嫁になって、命を繋ぐ事が出来た。またある人は、逃げないように顔に火箸を当てられて大きな火傷の跡を付けられ奴隷のように生きてきた。またある人は、第一夫人がいて、第二夫人として、中国人家庭に引き取られた。寝床は家畜と一緒だった。そしてある人は、ソ連兵から逃れるために、コーリャン畑のトイレから月経の汚れ物を拾って偽装し身を守った、と。想像を絶する辛酸を舐め、自分ではどうすることもできない悲惨な生活を生き抜いて来て、今、日本で暮らす残留婦人たち。

 身捨つるほどの祖国はありや

 しかし、祖国はけっして優しくなかった。

 最初の頃は、中国人と結婚したため、日本に国籍があっても、外国人として扱われた。そして、親族の同意がなければ、身元引受人がいなければ、日本に帰ることさえできなかった。成田空港に泊まり込んだ「12人の強制帰国」は記憶にある方も多いと思います。多くの方々の涙と努力、紆余曲折があってやっと現在の穏やかな生活を手にする事が出来るようになったのです。

 身捨つるほどの祖国はありや

 沖縄では、命どぅ宝(ぬちどぅたから)、「命こそ宝」と言う言葉が、戦後大事にされてきました。そこここで数限りない集団自決があった沖縄の地、だからこそ、命どぅ宝(ぬちどぅたから)と、思います。ぬちどぅたから ぬちどぅたから ぬちどぅたから 身捨つるほどの祖国はありや ぬちどぅたから ぬちどぅたから 

 集団自決という歴史的事件も、直接伺ったお話の中から、リアリティが浮かび上がってきます。こうして、お会いしてお話を伺える事そのものが奇跡のように感じています。残念ながら、もう、時間はあまり残されていません。


北海道取材旅行から帰って、とりあえずの報告

2016年08月10日 12時48分32秒 | 取材の周辺



 お暑うございます。

 7月下旬から昨日まで、北海道に行って来ました。北海道もここ3日間くらいは大変暑く、日中はクーラーが欲しいような気温でした。

 今回は、旭川、稚内、音更町、広尾町と、13名の方にお会いする事ができ、中国・サハリン残留邦人と「周辺の証言」に貴重なお話を伺う事が出来ました。

 大雪山の麓の温泉をいくつか楽しみ、旭岳ロープウェイ、黒岳ロープウェイ&リフトなどにも乗って、大雪山の花々を写真に収めました。ホテルの裏にあった「風のガーデン」も多彩な植栽が風に揺られて素敵でした。美瑛や富良野のモザイク模様のお花畑は、あまり興味なく、通りすがりに写真を2,3枚撮っただけでした。実は2年前に、友人夫妻と4人で、北海道のガーデン巡りをし、ウインザー洞爺の朝シャン(朝からシャンパン)や、星野リゾートトマムの雲海テラスでの朝食も楽しんだりしたのでした。その時に、ほとんどのガーデンは制覇したのです。印象深かったのは、十勝千年の森と六花亭のお庭、太四郎の森でした。自然の草花や植栽を利用して、おおらかで伸びやかなお庭でした。

 今回はインタビューが中心でしたが、そこはやはり、合間に楽しいことも入れ込みました。海を見渡す温泉に入ったり、食べきれないくらいの量のウニがのったウニ丼(稚内)やら、半分に切った富良野メロンをスプーンで掬って食べるという幸せなこともしました。

 ところで、毎回取材では、私の知らない多くの事に気づかされます。ノモンハン事件の生き証人である100歳の翁は、「小学校の時、クラスの半分近くはアイヌだった」とインタビューの中で話されています。そういえば、『角川短歌8月号』の「時田則雄 まず農があり、歌がある」の記事の中に、「やっぱりアイヌ語地名はきちっと残す事が大切だと思うね。北海道の貴重な文化ですよ。財産ですよ。アイヌ語地名というのは。昨年馬場あき子先生がここへ来られた時ね。「福島にも、アイヌの人たちが暮らしていたわよ」って。「集団を成して暮らしていたわよ」って。すごく興味深かったね。その話。だから、まず先住民族がいて、あとから入ってきたものたちと混血して、今の日本人が形成されたのかなと、私は思っています。そんなことで「みんな、友達」と。」

 古い記憶の中に、たぶん20歳前後に読んだ『津軽の野づら』深田 久弥 (著)という本がありました。手元にはないのですが、ネットで調べたら1948年 (新潮文庫)出版の本でした。記憶では、アイヌめのこのチャシヌマという天真爛漫な女の子が主人公で、ストーリーらしいストーリーは思い出せないのですが、津軽の野原を駆け回っているイメージだけ覚えています。当時は青森にもアイヌの人たちが暮らしていたということでしょう。

 また、サハリンにもアイヌの人々は暮らしていましたが、日本人が入植するといつの間にかいなくなったということです。

 きちんとした統計的な経年変化がわかるような資料はどこかに残されているのかも知れません。

 知れば知るほど知りたいことが増える。

 自由に使える余裕の1日を、半日はスタバでネット(旅館のWi-Fiが不安定で)。その後、川村カ子トアイヌ記念館にするか、三浦綾子記念館にするか、両方いけるか、悩んだ結果、三浦綾子記念館に行って来ました。来館者の少ないそこで、偶然にも友人に再会するというハプニングもありました。展示も見応えがあり、それはそれでよかったのです。高校時代から好きな作家でした。今回、川村カ子トアイヌ記念館に行けなかったことは、「また、いらっしゃい。」と、神々が手招きしてくれているものと考えましょう。

 近日中に、13名のインタビューは公開します。北海道在住の友人の高校時代の恩師と言う方とその方の元同僚の先生に、ずいぶんお世話になりました。多くの方々との出会いと繋がりがあって、今回もインタビューが出来ました事、感謝申し上げます。

*大雪山はアイヌ語でカムイミンタラ「神々の遊ぶ庭」という意味だそうです。


サハリン帰国者のテレビ番組紹介(モさんとユさん)

2016年07月12日 12時51分01秒 | 取材の周辺

 お暑うございます。猛暑が続いております。じりじりと8月6日、8月9日、8月15日が近づいております。

夏になると例年、終戦がテーマのテレビ番組や新聞の特集などが組まれることが多くなります。そんな中でも、サハリン帰国者を取り上げたテレビ番組を三つ、ご紹介します。

①②は、私のホームページ「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言」で、「モさん」「ユさん」として登場します。「モさん」の奥様の「メさん」も是非視聴してください。

 吉武輝子『置き去りーサハリン残留日本女性たちの六十年ー』や、近藤孝子、笹原茂、小川よう一著『樺太(サハリン)の残照ー戦後70年近藤タカちゃんの覚書ー』の中に、実名で登場する方々も出演します。テレビを見て、興味が湧きましたら、「ヒさん」のお話を聞いてください。カザフスタン送りになった「トさん」「二さん」の壮絶な経験も、同じ日本人として共有すべき記憶だと思います。「ナさん」は、サハリン帰国者の中の数少ない残留婦人です。終戦直後の苦労話などもあります。2,3年早くお会い出来ていたら、もっと鮮明な記憶を呼び戻してお話が伺えたのですが、そこのところが少し残念です。

715日(金)19:30~19:56(北海道のみ)<北海道クローズアップ> 「日本とサハリン 引き裂かれた10人の兄弟」

 太平洋戦争の直前、もとの樺太・サハリンに出稼ぎに渡った両親。その後、戦争と冷戦により、 B一家は引き裂かれる。80歳を過ぎた今も「自分には親はいない」と複雑な思いを抱える長女。サハリンで結婚し、帰国を夢見ながらも異国の地に留まる妹。苦難に満ちたそれぞれの戦後を生きた10人の兄弟は、この春、初めて全員そろっての家族の時間を過ごす。戦後71年目にしてようやく実現した、家族の心の交流を密着取材する。

http://www4.nhk.or.jp/P2866/  ←番組のHPから予告が見られます

 ②731日(日)7:00~7:45(全国放送)  「おはよう日本」内の12分 

*どちらの番組も、今年5月の一時帰国で10人きょうだいが初めて会うことができた一家の物語で、514日の共同墓所落成式の模様も放送されます。

 ③BSフジ】8月20日(土)15:00~17:00 「誰も知らないカラフト物語~なぜ宝の島と呼ばれたのか~」

 *写真家でサハリン協会会員の後藤悠樹さんがスピードスケート金メダリストの清水宏明さんとサハリンを旅する番組。7月一時帰国のときの共同墓所のお参りの模様も放送されます。


会うこと能わず。 関西取材(録画データ、一部消失!?)

2016年06月18日 10時30分41秒 | 取材の周辺

 


 ブログの更新をしばらく怠けている間に、季節は確実に春から夏に代わってしまいました。5月の薔薇の季節は、例年、 旧知の友人達が代わる代わる遊びに来ます。1年に1度の行事のように会う方が多いです。庭の薔薇と友人達に囲まれて賑やかに過ごしている間に、6月も中旬になってしまいました。

 4月下旬に1週間ほど京都、奈良でのインタビューと、前から一度行きたかった舞鶴引揚記念館に行ってきました。その報告もまだでした。

 なかなかホームページにアップロード出来ず、今になってしまいました。それとて完全ではありません。データの一部が消えてしまいました。たぶん私の誤操作によるものと思われます。SDカードがいっぱいになり、内臓メモリーに記録したつもりが、データが見つからなかったりしました。あるいはまた、インタビューが始まって直ぐ「記録容量が少ない」と言う表示が出て、新しいSDカードに換えてインタビューを始めから撮り直したにも拘らず、編集作業で本番を捨ててしまって、最初のビデオが何故か残っているという状態。または編集作業中にアップロードが終わったと勘違いして削除してしまったのかも知れません。何とか復元が出来ないものか、電気屋さんに2枚のSDカードを預けましたが、そこにはデータがありませんでした。残っているカードをすべて電気屋さんにお願いするとたいへんな金額になりそうだったので、「消失データの復元ソフト」なるものを買ってきて、1枚づつ気の遠くなるような作業を試みました。もともとパソコン操作の苦手な私は、そんな日が1週間くらい続くと、頭がモヤモヤしていろんなことが嫌になり、しばらくそのままにして置くことにしました。もう少し元気が出たら、再度挑戦してみます。このままでは取材に協力してくださった皆さんに申し訳なくて、何とかしなければ、と、思います。出来る事なら。自分の非力さに「もう限界かも」と、弱気になってしまいました。

 

 今回の取材では、大阪中国帰国者センターの理事長を引退なさった竹川先生と奈良の竹田さんにお会いしてお話を聞くことを楽しみに、取材の中心に据えて計画しておりました。しかし、両方とも果たす事が出来ませんでした。竹川先生には、20数年前、文化庁の中国帰国者定着促進センターのプロジェクトでインタビューさせていただいたことがあります。細かなことは覚えていないのですが、破天荒で壮大な、それまでの稀有な人生経験に圧倒されたことを覚えています。全国残留孤児問題同門会の庵谷巌氏の紹介でした。今回の取材申し込み時、お忘れになっていると思い、そのことも伝えましたが、ご自分が書かれた「本を読んでもらえばわかる」とのご返事が繰り返されるばかりでした。ご本に書かれていない初期の引き揚げ支援の実態や支援団体の全国的な組織化とその終焉の経緯などについて、お尋ねしたかったのですが、頑なに断られてしまいました。当時の事を知る支援者はほとんどの方がお亡くなりになってしまいましたので、大変残念です。

*参考『帰り道は遠かった ―満洲孤児三十年の放浪―』竹川英幸著 毎日新聞社

 

 また、竹田さんは、ご年齢を考えると健康状態も優れないかも知れないし、今回が私にとっては最後のチャンスと思って、支援者の方にかなり前からお願いをしておりましたが、残念でした。支援者の方は、「自分の責任において、手記も裁判の時の意見陳述書もホームページで公開していい。」と、おっしゃってくださったのですが、本人の同意を得ておりませんので、私にはそれもできません。しかし、彼女は非常に稀有な人生を生きて来られたので、是非多くの方に知っていただきたいと思います。満洲と朝鮮とモンゴルと日本、、、。ここに11年前の毎日新聞の記事がありますので、それを公開させていただきます。これからも、お会いできる方法を模索したいと思います。

毎日新聞 2005年8月13日の記事。以下斜字は転載

戦後60年:中国残留孤児・帰国者、竹田順子さん(64) /奈良

 ◇「日本人」隠し生き延びた日々

私の養父母は朝鮮族です。養母は父親を日本人に殺されたのに、私を大学まで勉強させてくれました。私が日本人なのを隠すため、朝鮮半島北部で1年暮らして言葉を覚えさせられ、延吉に戻りました。

 しかし小学校の算数の時間、黒板に書かれた数字を「いち、に」と読んでしまい、先生や友達に殴られ、黒板の前に立たされました。夕方養母が迎えに来て「私が教えなかったせいだ」と、抱き合って泣きました。それから教科書を丸暗記し、名前を変え、中学卒業まで7回引っ越しました。

 近くの高校に入学を許されず、3000キロ離れた内モンゴルの朝鮮族の高校へ進学し、大学で初めて中国語を勉強しました。文化大革命では、弁当も凍るほど寒い製材所で、夫と一緒に労働しました。文革が終わり、少数民族や外国人がいじめられなくなりましたが、日本人では私の仕事に差し障る恐れがあり、日中が友好関係になっても秘密にしました。

 私が38歳の時、養母が半身不随になり、私の本名は「まさこ」だと初めて詳しく教えてくれました。養母は、長年枕の中に隠していた小さなスカートと、実母が託した金の指輪を渡しました。

 中国には「落葉帰根」ということわざがあります。外国で暮らしても、最後は故郷で死にたいという意味です。養母は故郷の韓国・慶州に一度も帰れず、88年に亡くなりました。「日本へ帰り、本当の両親を探して生活して下さい」が最後の言葉でした。

 それから日本大使館などに手紙を書きましたが、帰国は53歳の時で、家族11人がそろうまでさらに5年かかりました。三つの言葉が話せるので就職面接を受けましたが、年齢で採用されません。若ければ就職できたでしょうが、苦労をかけた養父母や夫の親を看取るまで帰れなかった。孤児は日本人なのに保証人がいなければ帰国できず、何年も待たされました。

 美しい夢を描いて帰国しましたが、生活保護のため自由がなく、近所付き合いも心苦しい。裁判をしているのは、残留孤児の老後の保障が何もないから仕方なくです。残りの時間は短いですが、祖国を信じたい。肉親とも会いたいです。

【聞き手・松本博子35歳】

■人物略歴

 ◇たけだ・じゅんこ

 終戦時4歳ぐらいで中国吉林省延吉の通訳に預けられる。64年内蒙古大卒業後、公務員に。79年、預けられた経緯を初めて聞く。93年11月帰国。現在、奈良県中国残留孤児協会長、中国残留孤児京都訴訟原告団長。

毎日新聞 2005年8月13日

竹田さん家族とは長いおつきあいになりましたが,彼女の歴史を聞くと涙なしには聞けませんが,まさに1本の映画になるドラマです。概略を話しますと

「幼い頃に朝鮮族に拾われて,その後ある別な人に(売られてと聞いた記憶があります?)その方に育てられ、その方が本当に良い人で,「お前は日本人だから」と言ってかばってくれて、中国の大学まで出してくれたそうです。大学に在学中にその養父が亡くなった時も、村長からは帰ってこいと言われたが,「帰ってこなくて良い,勉強を」をいう手紙が来たそうです。

 そして同じ大学の現主人と結婚をされたそうですが,このご主人もまたすごい方です。竹田さんが,残留孤児として帰国の意思を現した時,たまたまご主人の母親が病気で竹田さんが看病をしなければならないので帰国を止められたそうですが,お母さんがお亡くなりになってから,「あのとき自分の母親の世話のために帰国させる事が出来なかったので」といって、内モンゴル自治区ハイラル市の教育長、全人代委員の職を捨てて,妻のために日本に来られました。

幼くは,朝鮮語。大学生になって中国語。50数歳になってから日本語。語学の面だけを見ても本当にご苦労があった事と思います。また,「文革時代』の事は彼らは語ってくれませんが,その時代を生き抜いてきたのはすごい事だと思います。そして、妻のために自分の地位や名誉や過去をを捨てて,日本に来られたご主人。お二人の計り知れないご苦労を思うといつも私は辛くなるとともに,日本国に対して怒りを覚えます。しかし、竹田順子さんの前を向いて生きる生き方に勇気をいただきます。


『伊那の谷びと』小林勝人さんと、法政大学の高柳俊男教授の対談記事紹介

2016年03月27日 23時54分52秒 | 取材の周辺

 3月19日、満蒙開拓平和記念館で、イベントが行われた。その新聞記事を三つ転載し紹介させていただきます。

対談「わかち合う歌集『伊那の谷びと』の経験~満蒙開拓、中国帰国者、そして・・・」

 2015年10月04日のブログ、「中国帰国者の支援に明け暮れる日々の中から生まれた歌集 『伊那の谷びと』小林勝人著」に書かせていただいた小林勝人さんと、法政大学の高柳俊男教授の対談です。

 お二人は、かつて旧満洲を訪ねる旅で同行して以来の交流仲間とのこと。高柳先生は、小林さんの地道な努力を研究者として高く評価してきたと言い、先生からこの対談企画を申し出たという。嬉しい!

 本当に小林さんは目立たない地味な仕事を労を惜しまずなさっていらした。奥様が、「仕事をしていた時より、退職してからの方が忙しくなってしまった。」と苦笑されていらした。どこかで引越しがあると不用品を貰いに行って、建設会社の倉庫に置いてもらい、新しい帰国者が来ると、その中から必要なものを届けたりもした。そんな大変な事も過去のものとなり、今は生活支援というより、帰国者たちの精神的支柱としての役割が大きいように思う。長い時間をかけて築き上げてきた信頼が、多くの帰国者たちの間に醸成されていると感じる。彼はまたとても勉強家で、読書家なのです。彼が書いた平岡ダム建設に関する小冊子の中に、梶井基次郎の『桜の樹の下には』の記述を見つけ、とても嬉しかった。

 そしてユーモアのセンスも。ラーメンをあっという間に食べ、「早いですね」と言うと、「私には残っている時間が短いから。」と。ドッと笑い合った。

 

 最後に、この対談の中で紹介された短歌。

牛がせしその温(ぬく)き糞(ふん)に裸足(あし)を入れ冬の満洲生き延びし孤児

 小林さんの優しい眼差しがとてもよく感じられる歌だと思います。

 飯田のこころ、ここにあり。





 


台北市 二・二八紀念館に行ってきました。

2016年03月25日 16時50分18秒 | 取材の周辺

 

          

 3月13日、台北市の二・二八紀念館に行ってきました。見学が終わったところで、ボランティアの老師から声をかけられました。30分ぐらい質疑応答させていただき、日本統治時代には、差別があったお話をしてくださいました。許可を得てビデオをまわさせていただきますと、その話に水を向けても、「日本はインフラ整備などをしてくれて、よかった」という話ばかりになってしまったように思うのですが、差別があっても、日本統治時代は、その後の白色テロの時代に比べ、「ましだった」というのが、本音に近いのかも知れません。

 話が前後して聞きづらい点もあるかも知れませんが、皇民化政策の下、日本語教育を受けた老師が日本との関係について、今、どのような感慨を持っていらっしゃるのか、一端を知る事が出来ればと思い、迷いましたが掲載することといたします。台湾には外省人、本省人(内省人)、多くの民族等、いろいろな立場の方がおり、政治的な立場も当然違います。小林よしのり氏が台湾への入国を拒否された事件なども、遠い記憶の中にありますが、当時、関心もなく知ろうともしませんでした。これほど複雑な台湾の歴史は、どの立場の人が記述するかで大いに変わってしまう。もともとインタビューする予定などなく、遊びで来た台湾です。たった一人のインタビューでは何もわかりません。しかし、歴史を動かした「大きな人」ではなく、歴史に巻き込まれた「小さな人」、個人が、歴史をどのように受け止めてきたかを知ることは、個人の歴史の集合体から歴史を俯瞰し、歴史の真実に近づける気もいたします。集合体の一人という事で、18年間、ボランティアをなさっている張さんのお話を聞いていただけたらと思います。ホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」の「周辺の証言 二・二八紀念館 ボランティア 張さん」です。http://kikokusya.wix.com/kikokusya#!blank-1/tobf5



日々雑感。この頃短歌。

2016年02月27日 23時06分27秒 | 取材の周辺

<写真は昨年6月にイギリスを旅した時のもの。モティスフォント アビーの搭の上から撮影したもの。夫は大きな木の下のベンチで待っていた。>

 

 この頃短歌に嵌まっている。思い返してみると事の発端は昨年9月、知人から送られてきた一冊の歌集を読んだことにあるようだ。

 その後、アウシュビッツ博物館に旅した時の事。短歌になりそうな言葉の断片が頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かびしていた。それを思いきって手帳にメモし、電車の中やホテル、飛行機の中で推敲を重ねてみた。短歌なぞ作ったこともなく、ルールも何も知らない。しかしその作歌の時の、感情と言葉が一致したと思える瞬間は、最近経験したことのない快感だった。一人旅の寂しさもあってか、20首ほど歌ができた。帰国後、一番身近にいる夫に見せると、「これが短歌か?」と、冷や水を浴びせられる。私は過集中なところがあるので、それから数十冊、短歌本を取り寄せて読みだした。       

 短歌本こそは、斜め読みの出来ない本である。昔は速読を競って多読を得意としていたが、短歌は何を何冊読んだかではない。一首でもいい、どれほど心の芯近くに到達できる歌に巡り会えたかなのだ。その人の心の持ちよう、生活感情などで短歌に込める思いも違うのは当然なのだ。歌は読者を選ぶのだ。

 先日、書店で『角川 短歌』2月号を買った。「推敲法」の特集記事がでていた。初めのページに岩田 正氏の「森の洞」31首が載っていた。

 朝あさの目薬まつすぐさせぬままわれは終わらむこころ残して

  引退後、普段は理論物理学の本を読んで日々を過ごしている夫が、時々短歌の本を自分の部屋に持って行って読んでいるらしいことを知っている。この本を見せると、「いい歌だね。代わりに詠んで貰ったようだ。この人は有名な人なの?」 私は何も知らない。ネットで調べると、なんと憧れの馬場あき子氏の夫君ではないか。夫は戦中生まれなので、老がい(「がい」は老の字の下に毛を書く)の歌に共感する年齢なのだ。

 短歌に興味を持つと、勧めてくれる人があって、最初に竹山広氏の歌集を何冊か読んだ。その中にやはり老がいを歌ったものが多くあった。 

 以下の歌は、竹山広氏の歌集『か年(「か」の字が見つかりません)』『千日千夜』『地の世』より。


  祖母(おほはは)も母も癌にて逝きたるを怖れゐたりし人癌を病む

  われの死がかずかぎりなき人間の死になるまでの千日千夜

  遺さるる場合のあるを思へよと答えのできぬことをまた言ふ

  この妻と生死分つは当然のことなるものを朝夕おびえつ

  老妻にこころ捧ぐといふごとき一首を作り昼深く寝ぬ

  老がいのがいとはこれか歌一首投げては拾ひ疲れてたのし

         (「がい」は老の字の下に毛を書く)

  推敲はほんとに楽しいのです。例えば4句目を違う言葉に変えたいのに、ぴったりした言葉が見つからない。朝に晩に宿題を抱えた子供のように軽い重圧感を抱えながら日々を送っている。ふっと、気持ちに近い表現が浮かんでくることもある。それからしばらくして、もっと近い表現が浮かんでくることもある。そんな時間が「疲れてたのし」なのです。

  以下の歌は、夫が作った歌ですが、4首目は飯田市に住む友人が直してくれたものです。私の歌はいつの日か、、、

 

  中国の領土広げし英雄は俺の事かと鄭和笑えり

  手をつなぎ「さんまの開き」見せし子らあの日の笑顔今も忘れじ

  木枯らしに帽子とられしあと追えば枯れた田の果てかすむ赤富士

  から風に取られし帽子を追ふ妻を車椅子に待つ 遠き富士山(ふじ)見て

  齢経てこの世あの世をつなぐ橋妻より先に渡らんと思ふ

  老ガイの我が身に似たり愛犬も老ガイ故の悲しみ在るか

  足萎えは入浴ならじと咎められ急ぎいづれば外は木枯らし

  (温泉施設で「障碍者は入浴できません」と言われたときに詠んだ。)

  悲しきは小学校の帰り道友を追い抜くともに足萎え

           (足萎え=ポリオの後遺障害)


沖縄に住む残留孤児・残留邦人3人にインタビューしてきました。

2016年02月10日 11時58分52秒 | 取材の周辺


 1月末から2月初めまで沖縄に行き、3人の残留孤児・残留邦人のお話を伺ってきました。「証言(2)」のNo.3さん,No.4さん,No.5さんです。沖縄は桜祭り開催中という事で期待していましたが、コヒカンザクラは紅梅に似た花で華やかさはなく、本部八重山岳桜祭りも今帰仁城桜祭りも名護公園桜祭りも寂しく感じました。満開のソメイヨシノが散りゆく景色を桜の美しさと、無意識に思い込んでいた自分の桜感を認識したのでした。

 No.5さんの疑問に十分にこたえる事ができず、現職の自立指導員に応援を仰ぎました。彼は中国にいる時に、日本人にだけ特別に支給されるべき品を役人がピンハネし自分の手元には何一つ来なかったという経験を持っていました(今までのインタビューで、彼だけでなくけっこう貰ってない人はいたようです)。そんなことも伏線になってか、国民年金が満額支給されるために国が肩代わりして保険庁に支払った支払い決定書に書かれている金額を自分は受け取っていないと主張し、役所がピンハネしたと勘違いしていたのです。また、支援金の額についても、川崎に住む知人と比較し不満を述べていました。生活保護の地域格差基準に準じるため、支援金に差が出る事などの制度そのものの仕組みを理解できていない為に生じた誤解と思われます。

 40代、50代で日本に帰国し、20年、30年と住んでいても、言葉の問題もあり、書類だけ送られてきても、年金の仕組みや地域格差などの制度を理解していないと、このような誤解が生まれてしまうのかも知れません。

 このことから、80年代の帰国者ラッシュの頃の事を思い出しました。中国では都市部と農村部では大きな経済格差があり、中国での農村戸籍を嫌う人が多く、帰国者は出身地の故郷(農村部)に帰るよりも都市部への定住を希望する人が多く、社会問題化していました。もちろんそれ以外の理由、例えば、いったん故郷に定住しても仕事がなくて、やむなく都市部に引っ越す人もおりました。今回の事で、当時の騒動は、生活保護の支払い基準の地域格差が拍車をかけた大きな要因だったかも知れないとあらためて思いました。


公文書と私文書、そしてデジタルアーカイブス

2016年02月08日 01時54分05秒 | 取材の周辺

 最近、国文学研究資料館の加藤聖文氏の論文を2本を読ませていただいた。      

「満洲移民の歴史と個人情報の壁 : 開拓団実態調査表をめぐる問題 (満洲特集)」信濃 [第3次]   67(11) 873-880   2015年11月  と、「市民社会における「個人情報」保護のあり方ー公開の理念とアーキビストの役割」国文学研究資料館紀要. アーカイブズ研究篇 (11), 1-14, 2015-03

 氏は、国内のみならず海外も含めた多くの公文書館や資料館、資料室などを巡って、「旧植民地」関係の記録資料を調査収集し、あわせて植民地統治機関における『公文書管理システム』の実態を明らかにする研究を進めている(ウィキペディア)そうである。二つの論文の中では、その研究活動の中で見えてきたいくつかの問題点を提起している。

 個人情報の壁とその取扱いが市町村の場合と外交史料館の場合の違い、市町村合併にともなう公文書の承継の問題や保存期間が満了した文書の扱い、また、歴史資料(開拓団実態調査票を一例として)として重要であるかの判断に統一基準もなく、時代や部署の判断により消失の可能性もあること等の問題点を知った。そもそも公文書館が全都道府県にあるわけでもないことも初めて知った。彼の指摘は極めて重要で、早急に迅速に困難を乗り越えて資料の収集が進むことを祈らずにはいられない。そしてそれらがデジタルアーカイブス化され、万人の歴史遺産として継承されていくことを期待している。

 私が今関心を持っているのは、個人の歴史(=語り、ライフヒストリー)でありその周辺の時代背景や風俗、情景等(=写真)、また、市井の人の残した日記や記録です。これを仮に公文書に対して私文書と言う事にします。公文書から見えてくる出来事や歴史に、血を通わせ生き生きと浮かび上がらせるのは、私文書だと思うのです。インタビューが終わると、多くの方が自分から古いアルバムを見せてくれます。満州での豊作の写真、中国服を着た人も混じった運動会の写真、田畑や家や農機具、家畜の写真などです。時には父親の日記などもあることがあります。小さな村落でどのような経緯で満州に渡ったか、克明に描いてあることもあります。またある村では、日中国交回復後に、慰霊碑に刻まれていた方々の何人かが中国で生存していることがわかり、ある志のある方が全戸をまわって確認作業をし、死因・死亡場所の特定等し記録している。しかし未だに活字化されていなくて、数名がそのノートのコピーを持つのみである。

 それらは個人のものである故に、人目につくことは少なく、歴史の中に埋もれてしまいがちですが貴重な歴史・文化遺産です。しかし、今の残留孤児・婦人世代が亡くなった後、二世・三世はこれらを大事にしてくれるでしょうか。これらを散逸に任せるのではなく、残留孤児・婦人世代がご存命のうちに、趣旨を理解していただき、デジタル画像に撮らせていただき、アーカイブス化し誰でも見られるような国民の財産としていく。大学生や大学院生に協力を呼びかければいい。それは国立公文書館アジア歴史資料センターが担ってもいいし、加藤聖文氏のいる国文学研究資料館でもいい。問題意識を持ち次世代への継承の意義に気づいている人がいるところがやればいいと思う。民間ではなく公の責任でやるべきだと思う。

 辛い悲しい正義に反する出来事であっても、それが事実であるならば、それを覆い隠さず、その事象に関連するあらゆる写真や日記を保存し、公文書との整合性の再検証などを後世の人ができるように、情報を残し伝える努力をするべきだと思う。

 公文書と私文書(の曖昧さは曖昧さとして)、両方のデジタルアーカイブス化を、不完全でもする努力をして、後世の人々が様々な問題意識を検証できる資料を残すべきだと思う。

 日中戦争を含む先の戦争で、満州では245,400人が亡くなった(厚生省-『引揚と援護30年』 [昭52]-P311)。無念に命を閉ざされて逝った多くの人々がどのように生き、死んだのか、その足跡を検証することは何より彼等への鎮魂になるように思う。 

公文書と私文書、両方のタイムリミットは迫っている。

  


ABCとアイウエオが終わり、「アーカイブス証言2」は無限数に突入

2016年01月19日 11時28分37秒 | 取材の周辺

 関係各位の協力を持ちまして、「アーカイブス 証言」は、いつの間にやら、ABCは終わり、アイウエオも終わりました。深く感謝申し上げます。

これまでのものを「アーカイブス 証言1」とし、これからは「アーカイブス 証言2」とし、ナンバリングしていきますので、無くなる心配はございません。ボチボチと増やしていけたらいいなと思います。おひとりおひとりの経験は、似ているようで大きく違います。養父母の愛情を一身に受けて育った方もいれば、家畜の如く働かされたという方もいます。境遇は選べませんが、その境遇をどのように生きたかは、おひとりおひとり違って、学ぶところが大きいです。これから社会に旅立つ前の、高校生くらいの方々に「中国残留孤児・残留婦人・サハリン残留邦人の証言」を聞いていただけたら嬉しいです。インタビューを聞くと多くの問いが生まれてきます。生きるとは?戦争とは?国家とは?民族とは?

そんなことを一緒に考えられるホームページになれたらいいなと思います。

 

「アーカイブス 証言2」のNo.1には中国「残留孤児」集団訴訟原告団代表を務めた池田澄江さんに登場いただきました。現在は特定非営利活動法人「 中国帰国者・日中友好の会」理事長をなさっておられます。マスコミでも何度か大きく取り上げられましたし、有名人ですので本名で登場いただきました。こちらが質問をしなくても、次々とお話が流れるように続き、聞きたいことの的を得ている。しかもありがちな増長なお話にならない要点を抑えた話し方に、さすがと感じ入りました。おおいに助けられたインタビューでした。

  池田澄江さんは、四つの名前を生きてきた。中国では除明。養父母は大事に育ててくれた。小学2年生の時、抗日戦争映画(?)鑑賞に行き、皆に「打倒日本!」と唾をかけられ叩かれた。日中国交回復後、自分の肉親捜しが朝日新聞に載ると、すぐ、北海道から問い合わせがあり、当時の状況、血液型、生年月日、父の職業等が一致して、日本に一時帰国し、北海道に住む両親と感動の対面をした。吉川明子となった。しかしDNA鑑定の結果、間違いだったことがわかり、家を出るよう言われた。自殺を考えた。新聞記事になり応援してくれる人が出て、就籍手続きをしてくれ、今村明子となった。仕事をして、だんだん日本語を覚え通訳もできるようになった。帰国後15年たったある日、訪日調査団が来た時、通訳をした。その後喫茶店にいると、60代の女性が話しかけてきた。姉だった。本当の自分の名前も生年月日もわかり、やっと池田澄江になった。

  サハリン残留邦人はその多くの方が三つの名前を生きてきました。親がつけてくれた日本名と、小学校時代の朝鮮名、その後のロシア名です。今、北海道にサハリン残留邦人の共同のお墓を作る話が進んでおり、お墓には日本名だけでなく通名(ロシア名)も並記しようというお話が出ているようです。日本人であることを隠していた方も多く、いざ帰国の段になって初めて「ソーニャも日本人だったの?」とびっくりしたという話を聞きました。ソーニャは知っているけれど「山田花子」は知らなかったという事なのです。現在、日本に帰国して暮らしているサハリン残留邦人の背負ってきた歴史が、そのまま名前にも表れているのです。

 ところで、NPO法人日本サハリン協会では、日本に永住帰国したサハリン(樺太)残留邦人のための共同墓所建設賛助金を募っております。

以下は、ホームページからの抜粋です。詳しくは日本サハリン協会のホームページでご覧ください。

《戦前樺太に渡り、終戦後、様々な事情で日本に引き揚げることができなくなったサハリン(樺太)残留邦人の一時帰国事業が始まって25年。この間、多くの方が永住帰国を選択し、祖国の土に還ることを希望なさいました。しかし経済的な理由から個人で高額な墓を購入することのできない永住帰国者は今、高齢となり「死んだらどうなるのか」という不安を募らせています。長年の夢をかなえて永住帰国したにもかかわらず、日本に墓がないために、遺族が遺骨をサハリンに持って帰らざるを得ないケースも発生しています。終戦後も異国の地(しかも対戦国)で筆舌に尽くしがたい苦労に耐え抜いてきた方々が、終の棲家としてやっと戻ってきた祖国。ともに苦労した仲間が集える安住の場としての共同墓所を建設したいという思いでこの事業を立ち上げました。サハリン残留を余儀なくされた皆さんは、戦後日本の高度経済成長期を経験できなかったばかりでなく、バブル期にはロシアのペレストロイカで物資のない最も悲惨な状況下に置かれていました。そしてやっとのことで一時帰国ができるようになったころには、すでに高齢になってしまっていたのです。失われた時間は計り知れません。それでも最後の望みは、日本の土に還ること。そして、次の世ではサハリンでともに苦労した仲間とともに安らかに過ごすこと。ながらくその存在すらも忘れられていた方々の苦難の歴史を後世に伝えていくためにも、この墓所は大切な場所となることでしょう。日本に永住帰国したサハリン(樺太)残留邦人のための共同墓所建設事業にご支援くださいますようお願いいたします。

略)日本とサハリンをイメージした2つの石の間の先端には、日本とサハリンを「隔てる海、つなぐ空」をイメージさせる青いガラスを埋め込みました。さらにそれぞれの石には日本とサハリンを自由に行き来するカモメ(ロシア語は「チャイカ」)が彫られています。わずか43kmという距離に隔てられて、長い間、親きょうだいにも会えずに苦しい生活をつづけた方々の今までの困難を想い、安らかな未来を祈る形です。台座には日本語とロシア語で建設経緯(サハリン残留邦人の概略・共同墓建設由来)を刻みます。納骨は札幌で行われている一般的な形式を採用しますので、骨壺から木綿の晒に移した遺骨を墓石下の土に埋めます。木綿は3年ほどで、遺骨は20年ほどで土に還ります。》


サハリン残留邦人3名。メさん、モさん、ユさんをアップしました。

2016年01月10日 12時11分39秒 | 取材の周辺

 初春のお喜びを申し上げます。

 今年は暖かな新年の幕開けとなりました。我が家の庭には、バラがちらほら咲いております。例年ですと、霜枯れて蕾のままなんですが、ボツボツと咲き続けております。中でも、イングリッシュローズのモーティマーサックラーは、春かと思うほどに窓辺を飾ってくれています。1月2日に撮影したものです。バラ仕事としては冬バラは咲かせずに、木に力を残すため、剪定してしまうのが常のようですが、もったいない想いと多忙に流されてそのままにしておいた結果が「お正月に満開のバラ」となりました。

 さて、新春草々にサハリン残留邦人3名にインタビューしてきました。メさん、モさん、ユさんです。暮れにも皆さんの集まりにご一緒させていただいて、手作りの美味しい料理をご馳走になったのでした。その時の様子は、フェイスブックに料理の写真と共に報告いたしました。彼らのほとんど多くの方は、日本名、ロシア名、朝鮮名と、三つの名前を持っています。多くの方が最初朝鮮人学校に7年通い、その後、ロシア人学校です。通名はロシア名だったということです。朝鮮人学校では日本語を話してはいけない。ロシア人学校でも同じ。家の中以外では日本語は話してはいけない。そのうち家の中でもロシア語になったということでした。

 いろいろな状況から、自分は捨て子だったらしいと語るユさん。終戦直後は北海道に帰りたい日本人が大勢港に集まったが、乗れる人数は限られていた。力のあるものが「我先に」船に乗った。子供を捨てていく人も大勢いたそうだ。肉親捜しで幼い日の写真と本名を日本のテレビで公開したが、名乗り出る人はいなかったそうだ。モさん一家には8人の子供がおり、両親は幼い子供たちを引き連れて奥地から引き揚げ船の停泊している港まで歩いて行けるはずがないと諦めたようだと語る。ユさんは努力してユジノサハリンスクの教育大学を出て教員になった。両親の苦労を受け止め、前向きに明るく生きてきた。

 モさんの子供時代のエピソードで、9月の新学期初日、自分の靴を弟が履いて行ってしまって裸足で登校したという話。貧しくて弟たちに靴を買う事の出来なかった両親を、子供なのに暖かく受け止めている。ソ連時代も多くの苦労があったのに、いつも努力して前向きに物事が進むよう転換している。日本に来てからも、持ち前の前向きさで異文化障壁を越える手立てを掴んでいる。モさんのいわば「人間力」に感心し、これは両親の教育によるものなのか、持って生まれた天性のものなのか、環境によるものなのか、考えてしまいました。

 インタビューの後、駅まで送ってくださる(遠慮はしましたが)道々、お孫さんとの楽しい会話のやり取りを教えてくださいました。健康に気をつけて、「今が一番幸せ」という時間が100年続きますように。


急がなくちゃ

2015年12月27日 10時52分44秒 | 取材の周辺

 日々がどんどん飛んでゆく。家事を積み残し、やりたいこと、やらねばならないことを置き去りにして、あっという間に今日を昨日にしてしまう。

  11月24日から29日まで、山梨県、泰阜村、南木曽村、佐久市とインタビューに行ってきました。以前インタビューした方々の訃報を耳にすることになる。「急がなくちゃ、急がなくちゃ!」と、私を急き立てる私の声が耳の後ろの方から聞こえる。能力もなくミスが重なり、なかなか録画が整理できない。気をとり直して庭に出ると、12月だというのにバラがたくさん咲いている。花束ができるくらいだ。今、バラに元気づけられて、次のインタビューの事を考えています。

  さて、今回の取材では、「周辺の証言」に掲載した早期帰国者 可児力一郎さんと高橋章さんの話を紹介します。可児さんは『風雪に耐えて咲く寒梅のように 二つの祖国の狭間に生きて』を信濃毎日新聞社より 2003年12月3日出版しました。現在は近隣の学校に呼ばれて戦争体験などを話すことが生きがいになっているとのことでした。また、高橋 章さんは、『元満州中川村開拓団ー私の配線回顧録ー』(協有社刊)を2015年6月出版。今の安倍内閣への危機意識から、戦争体験を若い人たちに伝えたいと出版したそうです。二人は、早期帰国者の常ですが細かなことまでよく覚えていらっしゃいます。

 今回のインタビューから、読書開拓団の可児さんと中川開拓団の高橋さんは逃避行なども一緒で帰国の船も一緒だったことがわかりました。お互いの連絡先を添えて、可児さんには高橋さんの本を、高橋さんには可児さんの本を贈りました。その後、お二人は電話で話し合い、「いつか会おう」という事になったとの報告を受けました。

  多くの方々に支えられて、今年もインタビューができたこと、感謝申し上げます。

 

 


中国帰国者の支援に明け暮れる日々の中から生まれた歌集 「伊那の谷びと」小林勝人著

2015年10月04日 13時43分54秒 | 取材の周辺

 9月初め、北海道旅行から帰ったら、ポストにこの本が届いていて、小春日和の金木犀の香り漂うなかで、この本を手にした。一首一首味わいながら、3日間かけて読み終わるのを惜しむように読んだ。

 尊敬できる人との出会いは、人生で最も貴重なものだ。60歳を過ぎて、人生を振り返ってみると、そんな出会いはそう多くはない。それらの出会いが今の自分を形作ってきたと言っても過言ではないと思える。

 そんな貴重な出会いの一人が小林勝人氏である。飯田日中友好協会の理事長で、満蒙開拓平和祈念館の立役者でもある。彼は、平岡ダム建設(1938年に着手。中国、朝鮮半島の人々、捕虜などを強制連行。非人道的な方法で建設工事に使役した。)にまつわる郷土史の負の遺産を冊子にまとめている。緻密な取材調査によって書かれたこの冊子には、深い郷土愛を読み解くことができる。是非インターネットで公開していただきたいものだと思っている。また数年前には、当時、強制連行された中国人を数名長野に招待したりもしている。

日本が強制連行せし終始 通訳介し四人より聞く

 2年前、彼の地で中国残留孤児、残留婦人にインタビューをさせていただいた。多くの方々の彼への厚い信頼を肌で感じた。インタビューのなかでも時折彼の名前が出て来た。例えば、法務省の担当者から、日本国籍がありながら中国籍があるからという理由で帰化を余儀なくされた婦人は、「彼は自分の事のように一生懸命、法務局の人や担当部署の人と何度も何度も掛け合ってくれた。自分のために親戚もしてくれないことを誠心誠意してくれる姿を見て、日本に帰って来てもよかったんだ。と、思えた。」と言っていた。

 彼はまた歌人として、平成19年歌会始お題「月」で佳作。平成24年歌会始お題「岸」入選を果たした実力者でもある。                                                    

     モンゴルの黄砂あらしも夜は凪ぎて植林隊のゲルに月照る                                                                                                                               

     ほのぼのと河岸段丘に朝日さしメガソーラーはかがやき始む

 この歌集の中から、どれか一首を選ぶのはすごく難しいけれど、敢えて一首。私の好きな歌です。

憲法の前文の如き気を放ちおほみづならは空に枝張る

 

 歌はすべて「伊那の谷びと」(小林勝人著  信濃毎日新聞社刊)より転載

 

 

 


福岡放送局制作「極秘裏に中絶すべし~不法妊娠させられて~」

2015年10月03日 13時42分06秒 | 取材の周辺

 前回のブログで、福岡放送局制作番組の紹介をしました。「封印された不法妊娠 ~引き揚げ 70年に刻む墓標~」とNNNドキュメント、「極秘裏に中絶すべし~不法妊娠させられて~」です。後者の30分番組は、YouTubeで今のところ見ることができます。

 何時なくなるかわかりませんので、今のうちに沢山の方に見ていただきたいと思います。以下で見られない場合、「不法妊娠」のキーワード検索で出てきますので、お試しください。

https://www.youtube.com/watch?v=mNLECxMtgjk


封印された不法妊娠 ~引き揚げ 70年に刻む墓標~

2015年09月04日 19時12分46秒 | 取材の周辺

 北海道旅行から帰ってくると、郵便物の中に福岡放送局のプロデューサーから送られてきた2枚のDVDが入っていた。

一つは、番組名「封印された不法妊娠 ~引き揚げ 70年に刻む墓標~」で、終戦記念日に福岡放送局で60分番組で放映されたらしい。もう一つはNNNドキュメント、「極秘裏に中絶すべし~不法妊娠させられて~」で、30分番組になっていた。こちらは8月9日、全国放送で深夜に放送されたらしい。

 このタイトルを見て、違和感を拭えず、「不法妊娠」は「不法中絶」の間違いではないか、と、思った。しかし、DVDを見て納得した。ソ連兵などによる性被害を受け、望まぬ妊娠をしたケースを当時「不法妊娠」と呼んでいたのです。

 拙稿「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」15頁に以下のような記述がある。

「(注4)コロ島を出港する船の中には女性専用の相談室が設けられていたという⑮。 『引揚援護の記録(続・続々)』(昭和25・30・38年)では、検疫所内に特殊婦人相談 所があったことへの言及がある。「上陸地患者状況調」の傷病名欄の妊娠の名目で 診察を受けた者6,386名、内入院したもの2,157名。別の資料「引揚婦女子医療救 護実施要領」によると、6つの上陸港の最寄りの国立病院及び診療所に第1次婦女子病院が設けられ、600床を越える受け入れ体制が整えられて「諸種の事情のため 正規分娩不適切者には、極力妊娠中絶を実施すること 」とされていた⑮。しかし、当時は堕胎罪が存在していた。」

この論文を書いていた当時、このことをもっと調べたくて、大学院に聴講生でいらしていた日本看護師会会長さんに伺ってみた。彼女は広尾日赤病院の図書室(資料室?)に行ってみたら何かあるかも知れないと教えてくれた。資料をあさったが、「上陸地患者状況調べ」「引揚婦女子医療救護実施要領」で数字を示すことしか出来なかった。このことがずっと気になっていたので、福岡放送局のプロデューサーからの問い合わせに、私なりにどんな番組が出来上がるのか、多くの期待を寄せていた。

 やっと日本に帰れた引き揚げ地で、何故そのようなことが行われたのか、誰の命令で、誰が、どのようにして行ったのか?知りたいと思っていたことが、ご健在の方の証言ビデオと今は亡き方の証言ビデオ、現存する隠れた資料なども駆使して、概ねよい番組になっていたと思いました。

 もし、可能であれば(不可能であることはわかっているのですが)、医師や看護師、相談員(の遺族の証言と相談記録)だけでなく、当事者へのインタビューがあったらいいと思いました。当時の価値観では、仕方のなかったことなのかも知れませんが、「大和民族の純血を守る」という考えに、否応なく従ったのか、あるいは、今後の生活再建のために決断したのか、それは本人の意思に基づいてのことなのか、または、自分の意思に関係なくすべての妊婦は中絶手術をさせられたのか。事実は何処にあるのか、知りたいところです。テレビ局の調査力に期待したいところでもあります。

 佐世保や福岡だけでなく、舞鶴、新潟、神戸、横浜などでも当時の事情を知るご存命の医師や看護師さんがいらっしゃるかも知れません。そしてそこにも多くのドラマが存在することでしょう。しかし、それももう限界に近づいていると痛感します。この事実を伝える生き証人はいなくなってしまって、この事実が歴史の塵と消えてしまうのは、時間の問題です。ギリギリセーフでいい番組ができたととても喜んでいます。同じ女性として、彼女達の悲しみや苦しみに光を当て、多くの方に知っていただき、二度と戦争に加担することのない未来を希求したいと思います。