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サハリン残留邦人3名。メさん、モさん、ユさんをアップしました。

2016年01月10日 12時11分39秒 | 取材の周辺

 初春のお喜びを申し上げます。

 今年は暖かな新年の幕開けとなりました。我が家の庭には、バラがちらほら咲いております。例年ですと、霜枯れて蕾のままなんですが、ボツボツと咲き続けております。中でも、イングリッシュローズのモーティマーサックラーは、春かと思うほどに窓辺を飾ってくれています。1月2日に撮影したものです。バラ仕事としては冬バラは咲かせずに、木に力を残すため、剪定してしまうのが常のようですが、もったいない想いと多忙に流されてそのままにしておいた結果が「お正月に満開のバラ」となりました。

 さて、新春草々にサハリン残留邦人3名にインタビューしてきました。メさん、モさん、ユさんです。暮れにも皆さんの集まりにご一緒させていただいて、手作りの美味しい料理をご馳走になったのでした。その時の様子は、フェイスブックに料理の写真と共に報告いたしました。彼らのほとんど多くの方は、日本名、ロシア名、朝鮮名と、三つの名前を持っています。多くの方が最初朝鮮人学校に7年通い、その後、ロシア人学校です。通名はロシア名だったということです。朝鮮人学校では日本語を話してはいけない。ロシア人学校でも同じ。家の中以外では日本語は話してはいけない。そのうち家の中でもロシア語になったということでした。

 いろいろな状況から、自分は捨て子だったらしいと語るユさん。終戦直後は北海道に帰りたい日本人が大勢港に集まったが、乗れる人数は限られていた。力のあるものが「我先に」船に乗った。子供を捨てていく人も大勢いたそうだ。肉親捜しで幼い日の写真と本名を日本のテレビで公開したが、名乗り出る人はいなかったそうだ。モさん一家には8人の子供がおり、両親は幼い子供たちを引き連れて奥地から引き揚げ船の停泊している港まで歩いて行けるはずがないと諦めたようだと語る。ユさんは努力してユジノサハリンスクの教育大学を出て教員になった。両親の苦労を受け止め、前向きに明るく生きてきた。

 モさんの子供時代のエピソードで、9月の新学期初日、自分の靴を弟が履いて行ってしまって裸足で登校したという話。貧しくて弟たちに靴を買う事の出来なかった両親を、子供なのに暖かく受け止めている。ソ連時代も多くの苦労があったのに、いつも努力して前向きに物事が進むよう転換している。日本に来てからも、持ち前の前向きさで異文化障壁を越える手立てを掴んでいる。モさんのいわば「人間力」に感心し、これは両親の教育によるものなのか、持って生まれた天性のものなのか、環境によるものなのか、考えてしまいました。

 インタビューの後、駅まで送ってくださる(遠慮はしましたが)道々、お孫さんとの楽しい会話のやり取りを教えてくださいました。健康に気をつけて、「今が一番幸せ」という時間が100年続きますように。