今日の読売新聞 朝刊に、長春の「中日友好楼」、残留孤児 最後の養母が亡くなったという記事が出ていました。私は2000年8月2日から5日にかけて、「中日友好楼」を訪ねて7人の養父母にインタビューしました。あれから20年以上経ってしまいました。
7月に上梓した『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(下)―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母編―』の中に、最後の養父母 催 志崇さんのことを書いています。この時には、養父 秦 家国さんもお元気でした。本から一部抜粋して転記します。
「証言64 中日友好楼に住まう7人の養父母たち(長春市(チョウシュンシ))
(証言1)関 秀蘭さん以外の方のビデオテープは、劣化のため、再生、デジタル処理ができませんでした。関 秀蘭さんのビデオも、前半部分が復元できませんでした。一部、取材ノートのメモをまとめたものです。
~略~
(証言6)催 志崇さん(養母 1922年生まれ 78歳) 秦 家国さん(養父 84歳)
1946年7月、第7道路で泣いていた女の子を拾ってきた。私が25歳、夫が30歳のとき。私たちには子どもがいなかった。あとで3人(男、男、女)生まれた。文革のときは何もなかった。
1960年代の生活は大変だった。夫はチャーズのとき、中にいた。誰も死ぬまで出られない。食べ物がない。いっぱい死んだ。チャーズの6か月間が一番厳しく大変だった。
養女は1986年、日本に帰った。親が見つかった。父母は元気で日本にいた。1990年に夫は1回日本に行った。東北地方の養父母40人くらいが一緒だった。日本政府から1回だけ1万元もらった。
日本からの仕送りはない。夫は昔の会社の年金が300元。私は200元。3人の子ども(実子)は近くに住んで会社に行っているが、仕事はあまりない。仕送りもない。」