最近、国文学研究資料館の加藤聖文氏の論文を2本を読ませていただいた。
「満洲移民の歴史と個人情報の壁 : 開拓団実態調査表をめぐる問題 (満洲特集)」信濃 [第3次] 67(11) 873-880 2015年11月 と、「市民社会における「個人情報」保護のあり方ー公開の理念とアーキビストの役割」国文学研究資料館紀要. アーカイブズ研究篇 (11), 1-14, 2015-03
氏は、国内のみならず海外も含めた多くの公文書館や資料館、資料室などを巡って、「旧植民地」関係の記録資料を調査収集し、あわせて植民地統治機関における『公文書管理システム』の実態を明らかにする研究を進めている(ウィキペディア)そうである。二つの論文の中では、その研究活動の中で見えてきたいくつかの問題点を提起している。
個人情報の壁とその取扱いが市町村の場合と外交史料館の場合の違い、市町村合併にともなう公文書の承継の問題や保存期間が満了した文書の扱い、また、歴史資料(開拓団実態調査票を一例として)として重要であるかの判断に統一基準もなく、時代や部署の判断により消失の可能性もあること等の問題点を知った。そもそも公文書館が全都道府県にあるわけでもないことも初めて知った。彼の指摘は極めて重要で、早急に迅速に困難を乗り越えて資料の収集が進むことを祈らずにはいられない。そしてそれらがデジタルアーカイブス化され、万人の歴史遺産として継承されていくことを期待している。
私が今関心を持っているのは、個人の歴史(=語り、ライフヒストリー)でありその周辺の時代背景や風俗、情景等(=写真)、また、市井の人の残した日記や記録です。これを仮に公文書に対して私文書と言う事にします。公文書から見えてくる出来事や歴史に、血を通わせ生き生きと浮かび上がらせるのは、私文書だと思うのです。インタビューが終わると、多くの方が自分から古いアルバムを見せてくれます。満州での豊作の写真、中国服を着た人も混じった運動会の写真、田畑や家や農機具、家畜の写真などです。時には父親の日記などもあることがあります。小さな村落でどのような経緯で満州に渡ったか、克明に描いてあることもあります。またある村では、日中国交回復後に、慰霊碑に刻まれていた方々の何人かが中国で生存していることがわかり、ある志のある方が全戸をまわって確認作業をし、死因・死亡場所の特定等し記録している。しかし未だに活字化されていなくて、数名がそのノートのコピーを持つのみである。
それらは個人のものである故に、人目につくことは少なく、歴史の中に埋もれてしまいがちですが貴重な歴史・文化遺産です。しかし、今の残留孤児・婦人世代が亡くなった後、二世・三世はこれらを大事にしてくれるでしょうか。これらを散逸に任せるのではなく、残留孤児・婦人世代がご存命のうちに、趣旨を理解していただき、デジタル画像に撮らせていただき、アーカイブス化し誰でも見られるような国民の財産としていく。大学生や大学院生に協力を呼びかければいい。それは国立公文書館アジア歴史資料センターが担ってもいいし、加藤聖文氏のいる国文学研究資料館でもいい。問題意識を持ち次世代への継承の意義に気づいている人がいるところがやればいいと思う。民間ではなく公の責任でやるべきだと思う。
辛い悲しい正義に反する出来事であっても、それが事実であるならば、それを覆い隠さず、その事象に関連するあらゆる写真や日記を保存し、公文書との整合性の再検証などを後世の人ができるように、情報を残し伝える努力をするべきだと思う。
公文書と私文書(の曖昧さは曖昧さとして)、両方のデジタルアーカイブス化を、不完全でもする努力をして、後世の人々が様々な問題意識を検証できる資料を残すべきだと思う。
日中戦争を含む先の戦争で、満州では245,400人が亡くなった(厚生省-『引揚と援護30年』 [昭52]-P311)。無念に命を閉ざされて逝った多くの人々がどのように生き、死んだのか、その足跡を検証することは何より彼等への鎮魂になるように思う。
公文書と私文書、両方のタイムリミットは迫っている。
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