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『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』(ミネルヴァ書房)

2021年02月05日 10時30分03秒 | 取材の周辺
 数週間前に『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』の著者の一人である櫻井澄夫さんから、本が贈られてきました。
 ずっと次の本の執筆以外のことは考えられない状態で、著者には「次の本を出したら、読ませていただきます」と、メールしたのだった。私は過集中のところがあり、今は次の本を書くこと以外、できるだけ手を抜いている。だからブログなど書いてる時間はないはずなのに。
 1月31日、朝日新聞書評欄の記事を、櫻井さんがメールで送って来てくれて、拝読しました。
 評者の加藤聖文先生とは、数年前に開かれた抑留研究会(成蹊大、富田武先生主宰)の先生の本『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』(岩波現代全書、2017年)合評会でコメンテーターをさせていただいたことがありました。また加藤先生は、総合研究大学院大学の准教授でもありますが、知名度が低いせいでしょうか、ノーベル賞受賞者でさえ、以前の大学名を使い、総合研究大学院大学の名前は使いたがらない傾向があるように思います。私は博士課程を過ごしましたが、一番良かったと思える点は、図書室にお願いすると読みたい論文がすぐに入手できたこと、道の向かいには都立中央図書館があって便利だったことです。次によかったのは、ブラジルからの留学生、ハワイからの留学生とその配偶者、バングラデシュの留学生夫婦と親しくなれたことでしょうか。公園で大人数でジンギスカンとかしたけれど、あれよかったのかな?届け出とか出していたのかな?一番年上の私が確認すべきことだったのに。
 後は何も覚えていない。思い出さない。 現在、コロナ禍で都立中央図書館はネットで予約して行っても3時間で入れ替え制。使い慣れた図書館なんですが、利用を諦めました。
 
ブログに書こうと思ったのは、書評欄を読みながら『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院 2019) 第1章 中島多鶴さんの話を思い出したからです。これはやはりブログに残しておいた方がよいと考えました。

 中島さんは、NHKの取材協力で中国に一人で発つその日に、成田空港で天安門事件を知り、新聞を買って現地入りしました。先に現地入りしていたNHKのスタッフは、だれも天安門事件を知らなかったということでした。動画はこちら(https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/nakajima-tazuru-c1svq)

【第1章 中島多鶴さん 一部抜粋 45頁】
【帰国支援】
 中国へ手紙をやると、「日本に帰りたい」ちゅう手紙が返って来る。そいで私は、NHKと一緒に行って、あの『忘れられた女たち』 ができたわけね。これ、1か月行ったんですよ。ちょうど天安門事件のあった頃。NHKはね、大連から機材を積んで、ホッキョウへ行っちゃったの。ホッキョウに泰阜の人が1人いたから。ドウコウケンちゅうところに。そいで私、1人で行ったの。佳木斯まで。そいでもね、北京からガイドさんがついてくれた。北京空港で、「中島多鶴さん」っていう旗持って迎えてくれたもんで、「はー、やれやれ」と思って。ほいでもう、天安門事件でしょう。「これは行けるかなあ」と思ったが、終戦の時の事を思えば、「そんな弾が何? 怖くないわ」と思って。もう、ここまで来ればね。「しょうがないわ」と思って。
 NHKが航空券を送ってくれてね。成田から1人で乗って、新聞を買ってリュック入れて。哈爾浜行きに乗ったんだ。哈爾浜へ行ったら、小さな15人乗りの飛行機。プロペラ機、初めて乗った。佳木斯はね、空港じゃなくて、草むらへ降りたんな。ま、乗っちまえば、度胸が据わるもんで。7日にNHKと落ち合う約束だったもんで、何がなんでも、佳木斯のホテルへ着きさえすればいいと思って。ほで、女のガイドさんがついとってくれるしね。でもね、みんな戸が閉まってましたよ。天安門事件があったもんで。そしてね、報道はしないの。そういう事を。だけど知ってる人もおってね。みんな、戸閉めちゃったんだね。NHKの方も、知らないの。7日の日にね、落ち合うわけだったの。ほんで、私が5時に着いて待ってたら、「黒竜江から船で来た」って言って、カメラマンと2人だった。通訳が2人。英語の通訳と日本語の通訳と、合計4人が来てくれたの。「あー、中島さん、よく来てくれましたね」って。そいで、あの新聞を見せたの。「あー、やっぱりそうか」天安門事件が怖かった。「中島さん、よく1人で来る気になった」って言うもんで、「そりゃそうですよ。あの敗戦の時の事を思えば、問題じゃないですよ」て、私言ったの。北京に降りた時ね、夜中にパンパーンって音がするの。ほんと、怖かったですよ。そいで1か月おったの、中国に。ずっと回って。佐藤治さんから、山下一江さんから。山形県とかそういうとこの人もいっぱい集まって来てたけれど、泰阜の人を中心に6人に会った。それぞれの家庭を訪ねるの。方正だけじゃなくて、延寿(エンジュ)県とか牡丹江、佳木斯まで行った。そのテレビのビデオを見てもらえばわかるけどね。
 この取材の前に、昭和33年の5月に、佐藤治さんが紅十字会のお世話で一時帰国してて。で、佐藤治さんから、近所に20人ぐらいの日本人が残ってるっていう話を聞いて住所を調べたら、みんな「帰りたい」って泣いていたっていうようなことで、それから帰国支援が始まった。1984年 、昭和59年の9月に村長さんたちを連れて方正に行って、いろんな方が生きてるってことがわかって。それが、NHKの1989年のあの取材の原因になったっていう感じですよ。取材が6月。放送は、9月3日だね。1時間番組が出来たの。
佐藤治さんも数奇なっていうか、一時帰国で帰って来ている時に、「長崎国旗事件 」が起きて。治さんとしても、子どもとか置いてきちゃったから、「ここで中国に帰らなかったら、もう帰れないかもしれない。帰る約束してきたから、「帰る」っていう選択をして帰ったんですよ。その事件が元で、結局、日中国交断絶になっちゃって。今度は中国から日本に帰れなくなっちゃって。
 NHKの方たちと一緒に、佐藤治さんにもお会いして。それが2時間、荒野に連れてってね。家では家族がいるから、本当のことをしゃべれないら。そこらはNHKですよ。荒野でね。私もそばに行けないから、こっちおったけど、治さんが上手いこと言ってくれたの。本当のことを言ってくれたの。それで、いい番組になったの。あの人、頭のいい人でな。もう、テレビ見たとおりの事をね、全部話してくれた。中国の政府の通訳はついとるけど、政府の悪口だって言ったりしたけど、政府の人いないもんで。そいでこの「忘れられた女たち」っちゅう番組ができたわけ。(抜粋終り)

 中島さんが歩んできた道は、まさに歴史の証言そのものです。インタビューの1年後にお亡くなりになってしまいましたが、お会いしてお話を伺うことができ、動画で残すことができたのは幸いでした。多くの方からも感謝の言葉をいただきました。

「蟻の兵隊(注)」という映画を数年前に都内の大学で見ました。その映画の後半で、主人公のおじいさんが、民家(旧軍部?)の周りをうろうろしながら、「何百人もいた孤児はどうした!」と罵声を浴びせるシーンがありました。とってつけたようなシーンで、違和感がありました。私がもし、中島多鶴さんに会う前だったら、このシーンを見て、「何百人もいた孤児を始末してしまったのか?!さもありなん」という印象を持ったことでしょう。しかし、彼女が葫蘆島で帰国を待つ多くの日本人の中で、泰阜村帰国第1号になれたのは、看護婦として400人の孤児を日本に引率するという任務があったからです。映画の後、製作関係者のところに歩み寄って、そのことを話しましたが、まったく関心を示してもらえませんでした。

【400人の孤児を引率して帰国】39頁抜粋
 そして、今度は列車が通っていたので、奉天まで列車に乗してもらって行ったの。日本人がいっぱいいるの。「日本へ帰りたい」って言う人ばっかり。もう、収容所が、あちこちにあってな。したけど、高碕達之助 っていうね、満州国の総領(?)をやってた偉い人がね、日本人を世話してるんだね。そいで、私、そこへ行ったの。兵隊が外へ出れないから。ソ連軍が来ると連れて行かれちゃうで、だめだっていうことになって。ほいで、「あんた、お使いをしてくれ 」ちゅうもんで、高碕先生とこへ、私、2日通った。「私たちは、北の方から、歩いて、歩いて、歩いて、何百里歩いたかわからんけど、やっとここまで着いたんで。早く、日本に帰りたいと思って。何かできることがあったら、お手伝いしますから、先生教えてください。私は看護婦してたの」って、こう言ったの。その一言が、「あ、そうか。そいじゃなあ。ここに孤児がいっぱいいるで」「10か所にね、400人くらいいる」って言った。その時。「400人?」ってびっくりしちゃってな。「行って、見てくるように」って言うからね。行って見たらね、骨皮。みんなこんなに(元気の無い表情)なっちゃって。そんな子どもを預かってもね。「もし、列車の中で亡くなりゃ、困る」って言ったら、「ここにおっても亡くなる。毎日。だから亡くなるのはしょうがない。そいじゃ、列車を出すで」って。1週間以内で列車が来た。無蓋(むがい)列車ですよ。 ちょうど、雨が降らなんでよかったけれどね。それで、子ども全部兵隊が集めて、列車に乗せちゃったの、22両の無蓋列車に。カンパンが1人に1袋、1週間分。ビスケットの味の無いの。「これを食べさして、水をとにかく飲ましてきゃ、いいで」って言うんだよ。水だけ飲ましたって、生きていけるんだでって。1日に5個くらいしか無いんだ。もっとあったかな。10個くらいあったかな。そいで、子どもたちにね、10歳くらいの子どもは、もうお手伝いもしてくれたしね。だけど、夜になるとね、小さい子どもが泣いてね。「お母ちゃん、お母ちゃん」って泣くじゃない。子どもたちが私のとこ、みんな集まって来て、「先生、先生」って言ってくれて、かわいかった。みんな10歳以下だった。あまり大きい子はいなんだ。3歳ぐらいから10歳ぐらいの子。大勢ですよ。もうものすごい大勢ですよ。それからね、列車の隅にね、草を刈って来て置いて、兵隊が「ここを便所にするんだよ」って、決めてね。夜になるとみんな私のとこに集まって来るの。そだけど、私はここだけじゃない。次のとこ、また次のとこ行かんならん。私を入れて14人で、その400人を見たの。ってわけで、もう、自分が死んじゃうかと思った。このお腹が、ここ(背中)ついちゃってな。病気上がりだから。そいで歩いて来たでしょう。ほいでも「頑張らにゃ、しょうない」それが若さ。21歳。そいで頑張ったんですよ。生きるということは、我慢せにゃだめだっていうことを覚えてね。ほいで兵隊が心配してくれた。「大丈夫か?」って言ってくれた人もおった。親切にね。だけど、兵隊だって大変だったですよ。
それでもね、列車に乗っちゃって1週間で葫蘆島(コロトウ)に着いたの。葫蘆島へ着いたら、アメリカの兵隊が来てて。もう夏だもんで暑くてねえ、炎天でね。水飲むよりしょうがない。子どもたちに、「日本へ帰るんだから、みんな元気出してな」って言っちゃ、みんなをなだめてきたの。親の名前も知らんような子どもばっかだったから、可愛そうだと思ったですよ。葫蘆島へ着いたらね。アメリカの兵隊がトラック持って来て、日本の兵隊も手伝って、亡くなった子どもは亡くなった子どもで別にして、そして、イバラヤマちゅうとこあって、そこへみんな持って行ったの。葫蘆島まで着いても、船に乗れなかった子どもたちも、いっぱいいた。100人近くおった。300人くらいが生きとって船に乗れたかも知れない。そんなの数えたことないから、わからんけど。朝、起きてみるとね、眠ってるんだと思うと、そうじゃない。亡くなってるの。ま、そういう目に遭ってきたけどね、とにかく、私、自分もね、「自分が死んだら、この子ども預かったんだで」と思ってね。頑張ったんな。そいでも、水は飲んでね。乾パンを2つばか食べちゃあおったけどね。やっぱり体力があったんなあ。歳が若かったもんでね。
博多に着いたのは、昭和22年の8月16日。(抜粋終り)


(注)昭和二十年八月、日本は無条件降伏した。だが彼らの帰還の道は閉ざされていた! 北支派遣軍第一軍の将兵約二六〇〇人は、敗戦後、山西省の王たる軍閥・閻錫山の部隊に編入され、中国共産党軍と三年八カ月に及ぶ死闘を繰り広げた。上官の命令は天皇の命令、そう叩き込まれた兵に抗うすべはなかったのだ──。闇に埋もれかけた事実が、歳月をかけた取材により白日の下に曝される。


『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院 2019)は、まだ多少在庫があります。ご希望の方は、地元の本屋さんか、ネット書店に注文してください。宣伝になってしまいました。
















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