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無言館、無言館第2 訪問

2020年12月05日 10時49分36秒 | 取材の周辺
 今朝は真っ白な雪景色。温泉大好きな夫と一時間でも長くパソコンにしがみついていたい妻の利害が一致。また温泉です。今回は長野の温泉、ジム、プールもあります。

ずっとホテルに籠っていたので、一昨々日、無言館に行ってきました。昨日の朝日新聞夕刊に大きく出ていたと、友人が記事をメールで送ってくれました。



無言館には第1と第2があって、けっこう若い人がたくさん見に来ていました。車椅子は両方に備えられていました。


<無言館>

<無言館 第2>
 絵画を見るのは問題ないのですが、ショーケースは高すぎて車椅子からは無理でした。ショーケースがもう少し、あと20~30㎝低かったら問題なく見ることができると思いました。そこで大事な資料を発見しました。写真はNGなので、メモしました。賞状には「志那事変に於ける勤労に依り 金参拾円を賜ふ 昭和十五年四月二九日 陸軍省」と、ありました。どのような勤労だったのか、想像するしかありませんが、何か事あるたびに報奨金のようなものが軍人に配られていたことが窺われます。
 
 絵ごとに、その人と背景が書き加えられていて、心動かされました。
例えば「裸婦」日高安典
「大正七年一月二四日生まれ、鹿児島県種子島に出生、昭和十二年四月東京美術学校油絵科入学、一六年一二月繰り上げ卒業し、一七年に出征、二〇年四月一九日ルソン島バギオにおいて二七歳で戦死。『あと五分、あと十分、この絵を描かせておいて欲しい』」と言って、出征直前まで恋人の裸身像を描いていたということです。
 
 また、自画像が多かった。それぞれの自画像は出征を前に静かに自分自身と対峙しているように思えるのだが、またそれは、絵を見る人(私)に自分自身の内面を覗かせるという役割も果たしていた。
 ほとんどの方が20代前半でなくなっている。特に目についたのは、南方諸島。フィリピン、ビルマ、ニューギニアなど。それから沖縄、満州など。結核による病死も多かった。
 絵の作者名しか記録のないものもあり、できるならばその背景、人となり、絵にまつわるエピソードなどを調べて記録しておいてほしいと思いました。

<以下は朝日新聞12月4日夕刊より転載>
「無言館」を残したい 79歳館主、私財投じても「あと6年」 長野・上田、戦没画学生の作品展示
戦争で亡くなった美術学生の絵画などを集めた美術館「無言館」(長野県上田市)が、作品や遺品を次世代にどう引き継いでいくかの模索をしている。遺族の多くは世を去り、作家で館主の窪島誠一郎さんは79歳になった。根強いファンがいるとはいえ、来館者数は年々減り、今年は新型コロナウイルスの影響で激減。資金面での苦境が続く。そんな中、作品をデータベース化する構想も始まった。
10月下旬、色づいた里山の中に立つ無言館に着くと、平日にもかかわらず120人あまりが訪れていた。だが、窪島さんは「冬は一人も来ない日もある。維持費などを考えると、一年中開館するべきかどうか迷っている」と打ち明けた。
無言館に展示されている画学生らの絵は、画家の卵たちの未熟な作品とも言える。しかし、遺族が語った学生の生い立ちや、戦地から恋人や家族に宛てた手紙などとともに見ると、日本が国を挙げて戦争へと突き進んでいた時代に、夢中で絵を描いていた若者たちの姿が浮かび上がる。
「無言館にはファンが多い。それは窪島さんと分かちがたく結びついているから」。そう話すのは無言館の財団の理事で、分館を持つ立命館大学国際平和ミュージアム(京都市北区)の名誉館長、安斎育郎さん(80)だ。
窪島さんは、戦後の混乱の中で養父母に育てられた。作家の故・水上勉が実の父親だと知ったのは、35歳のときだ。水上との再会で養父母をないがしろにしてしまったとの思いや、高度経済成長の波に乗りスナック経営で金もうけ一筋に生きたうしろめたさ。「画学生の遺族を回り、感謝されることで、そんな悔恨が一つずつ消えるように感じてきた」。窪島さんは、全国の講演先や著作でも、そう赤裸々に語ってきた。
自らの「戦後処理」という私的な感情と結びついた美術館。その物語が多くの人を引きつける。
しかし、戦後75年が経ち、戦中や戦後の混乱期の記憶は薄れつつある。入館者数は、ピーク時には年間約12万人を記録したが、昨年は約2万8千人。今年は新型コロナの感染拡大もあり、11月末までで昨年の約半分だ。絵の修復や施設の維持管理にも費用がかさむ。
開館時に220人以上が存命だった学生の遺族は、いまや6人。窪島さんもこの数年、病気を患い、無言館の行く末は重い課題となってのしかかる。
無言館は一般財団法人になっており、収益を支えるのは主に寄付と1人1千円の入館料だ。昨年には、窪島さんが私的に収集した絵画などのコレクションを長野県に約2億円で売却することで当面の資金を確保した。ただ、運営は苦しく、「入館者数が回復しなければ、あと6年ほどで運転資金が底をつく」と窪島さんは明かす。
公的な資金援助の話もあったが、あえて受けてこなかった。「国に命を奪われた画学生の美術館を、国のお金で運営するわけにはいかない。市井の人がお金を出してくれることに意味があると思ってきたんです」
しかし、安斎さんは「無言館の社会的な存在意義は大きい。戦争の記憶を残す責務を第一に考えるべきだ」との考えだ。
将来が見通せないなか、次の世代が少しずつ動き始めている。昨年8月、東京・神田の出版社「皓星(こうせい)社」社長の晴山生菜さん(33)が、絵や遺品のデータベース化を持ちかけた。
昨春、初めて無言館を訪れた晴山さんは「ぼろぼろになった絵を見て、作品や遺品を写真でデータベース化し、どこからでも見られるようにしたらどうかと考えた」と話す。窪島さんの長男でIT系の会社を経営する剣璽(けんじ)さん(46)も、作品や作者に関する基本情報をデータベースとして整理しようと、システムの構築に着手し始めた。
窪島さんがこだわるのは、作者の学生に関する正確な情報を残すことだ。どのような状況で絵が描かれ、学生たちはどのように死んでいったのか。それは戦争の記憶が薄れゆくとき、無言館が「戦争で美しく散った学生たちの美談」になることへの警戒心からでもある。(宮地ゆう)
 <無言館> 1997年5月、長野県上田市に開館。画廊を経営していた館主の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんから「多くの有望な美術学生が戦争で亡くなった」と聞き、2人で遺族を回って作品を集めた。現在も作品や遺品が持ち込まれており、2008年には近くに第2展示館を開館。現在、約130人の作品や遺品約600点を展示・保管している。(以上)

マディソン郡の橋のような屋根付き橋を散歩の途中で見つけました。









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