善入寺島というところにひまわりが咲いているらしいのでそれを見に行きたいとご主人様。川北街道を西へ走ります。私はスマホの画面で見せられた善入寺島という字をどう読んだらいいのかもわからないくらいその「島」を知りません(ぜんにゅうじとう、と読むらしいことはあとになってわかりました)。音だけ聞くと、松浦党のような「人の集まり」を思い出します。ひまわりが咲いているのはいいとしても、阿波の国の内陸部に「島」があるらしい。なんとも不思議なことと思っていたら、確かに島なのでした。
吉野川の中に川中島があって、その名が善入寺島。日本最大の川中島なのだそうです。へぇ、知りませんでした。私は千田橋から「入島」しましたが、潜水橋を走っての入島になります。欄干はなく、大水の時には沈んでしまう橋。落ちないように気をつけて走ります。中ほどにクルマの待避所が作られていますが、橋の広さはクルマ一台分しかありません。水の流れは勢いがあります。天下の吉野川ですらね。「上陸」するとどこまでも農地。稲が風になびいているところとすでに刈り取りがされたところと。これで川中島なんだ、大きいな。
Wikipediaによれば吉野川河口から30km遡ったところに東西6km南北1.2km、甲子園球場121個分の広さがある。大阪の中之島の7倍くらいの面積になるはずです。明治の終わりにはこの島に3000人の住人があったらしい。そこで俄かタモリは考えるわけです。中州ができるということは、四国中央部から運ばれてきた土砂がここに溜まった証拠。ということは、川に高低差がないということではないか。そこで国土地理院地図で標高を見てみると、約20m。河口から27km遡ってやっと20m。つまり、6~7階くらいのビルの高さから、27km先まで水を流せということですよね。そりぁ、土砂も堆積しますわね。子供のころ、四国三郎という言葉を覚えさせられました。坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)に続き、吉野川の四国三郎です。日本三大暴れ川のこと。吉野川もしばしば暴れるということですが暴れるはずです。傾斜が緩い分、水はどっちを向いて流れるかわからないということ。鳴門金時がうまいのは、土地が肥沃である証拠で、それはしばしば吉野川が氾濫したことを意味すると、なにかの番組で教わったことを思い出しました。ひとつ賢くなりました。
さてひまわりは、この広大な農地を見渡してもどこにも見えない。クルマを停めて刈り取った田んぼで作業をしていたおじさんに、ひまわりがあると聞いてやって来たんだけど…と尋ねてみました。おじさんはトラクターのエンジンを止めて質問に耳を傾けてくけましたが、もぅ遅いよと教えてくれました。咲いているとしたらあの辺りになるんだがひと月遅いよ、と教えてくれました。それからしばらく走ると、たしかにひまわり畑の残骸は見つけられました。やはり、訪ねるのが遅かったのですね。今度は川島橋という潜水橋を通って、四国本土に戻りました。広大な善入寺島は5本の潜水橋(だけ)で「四国本土」とつながっているのだそうです。
川島橋を渡って堤に上ったところで、お遍路さん用の休憩所があることに気づきました。ちょうどバス停に作られた待合室のようなサイズ。「一泊だけなら泊まることを許す」というようなことが書かれていました。お遍路さんの10番札所である切幡寺と11番札所の藤井寺の間にあるのがこの善入寺島。お遍路さんはこの島や潜水橋を渡って藤井寺に向かうことになります。さきほどのお百姓さんがわざわざエンジンを止めて質問に応じてくれたのもお接待だったのかもしれないと思いました。また、読み方すら知らなかった善入寺島ですが、「善が入る」と考えれば仏教やお遍路に関わりのある言葉かもしれないと思ったことでした。
(つづく)
追記
記事を書いた後、たまたま徳島新聞電子版を見たら、吉野川には潜水橋が9橋あると書かれていました。ということはそのうちに過半数5橋はこの善入寺島にかかっているということになります。善入寺島は潜水橋の宝庫!か。それから、徳島では潜水橋と呼ばれるこの橋は、土佐では沈下橋と言うことも教わりました。
上の記事では当初、7本の潜水橋と書いたのですが、グーグルマップで確認すると5本しか見当たりません。時代の変化で2本減ったのかもしれませんね。
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