古典作品の現場を訪ねてみようというシリーズ。今回は伊勢物語の「筒井筒」。原稿を書くまでに時間がかかってしまいましたが、実際に訪問したのは昨年の5月です。
(1)在原神社・業平姿見の井戸
伊勢物語の筒井筒。幼馴染の女性と結婚したものの、やがては河内に住む別の女のところへ通うようになり、でも元の女とよりを戻しましたよという、あのお話し。遠い遠い昔、高校時代の古典で習った記憶があります。
恥ずかしながら、自分の生活圏に近いところにその筒井筒にゆかりある場所があると知ったのは、そんなに昔のことではありません。ことの始まりは、天理市に「筒井筒」の井戸があると聞いたことでした。西名阪自動車道の天理インター近くだという。
とすれば、業平は天理あたりから西へ進み、山を越えて河内へ通ったことになります。天理は奈良盆地の中でも東の端になりますから、少なくとも奈良盆地をぐっと横切って、さらに山を登って河内入りすることになります。河内に住まいするその女がどれだけ魅力的だったかわかりませんが、その距離を考えた途端に、恋も持続しないのではないかという気が、私にはします。いつか、業平になってその道を体験したいものだと思っていました。
とはいえ、天理から奈良盆地を歩いてさらに山登りは自信がありません。そこで、盆地は歩くのをあきらめバイクで走ってみよう。
5月のある日、私は天理市櫟本町の在原神社にいました。西名阪自動車道のすぐわき。側道に面して在原神社があったのでした。少なく見積もっても20回や30回は通っているはずのこの側道。その脇の神社に今まで気づかなかったのは、どうということのない、児童公園くらいにしか見えない小さな神社だからでした。西側の入り口には、「在原寺」と書かれた石碑がありますが、裏を見ると、「在原神社」と書かれています。もともとは在原寺という寺があったようです。
天理市教育委員会が立てた境内の案内板には次のように書かれています。
在原神社が鎮座するこの地には、明治九(1876)年まで「在原寺」という寺院があり、本堂・庫裏・楼門などが並んでいました。在原寺の創立は承和二(835)年とも元慶四(880)年とも言われ、後者の説を採る『寛文寺社記』には在原業平の病没後にその邸を寺としたとの記述があります。在原寺の井筒を『伊勢物語』にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたと考えられます。
筒井筒のものだとされる井戸もあって、中をのぞくとちゃんと井戸水が見えます。この井戸の周りで、幼い子どもが遊んでいたということになりますが、思いを馳せるには古さが足りないようにも思えます。それに、筒井は円筒形の井戸だと聞いていたのに、この井戸は四角い。「筒井筒」にならんやんと思います。いや、待てよ。外見こそ四角いけれども中は円筒状に掘ってあるんだからそれでいいのか。
井戸の傍には、在原神社史蹟保存顕彰会が立てた案内板があって、それにはこう書かれています。
業平河内通いの恋の道出発の地
在原→鉾立→北柳生→伊豆七條→馬司→今国府→法隆寺門前→大和高安→松並→龍田→信貴山→十三峠→河内高安
できるだけ、この案内に沿って走ってみたいと思いますが、それがどこなのか私にはよくわからない地名もあります。そこでルートにはあまり神経質にならないよう西を向いて走ってみようと思います。
西名阪自動車道に沿って西を目指すと、1kmほどで南に折れ、地蔵寺という寺の向かいに、「伝承 業平姿見の井戸」という案内がありました。まったく田んぼの中、隣はビニールハウスという環境の中に、比較的新しい一角があります。井戸も作ってあるのですが、業平が河内へ通う途中に身だしなみを整えたのだろうか。目的地の河内まではまだまだ遠い、というより出発したばっかり。そもそも井戸に自分の姿を映すのはいいとしても、整えるほどに姿が見えたのだろうか。案内によると、伊勢物語のストーリーではなく、能「井筒」によるもののようです。
西向きに走ると、はるか遠くに生駒山系の山。バイクでよかったと思いながら走ります。南六条の交差点で国道24号を越えます。道路はまっすぐ西へしばらくは走れそうです。
(つづく)
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