ぶろぐのおけいこ

ぶろぐ初心者は書き込んでみたり、消してみたり…と書いて19年目に入りました。今でも一番の読者は私です。

学生と読む『三四郎』

2006-07-01 21:08:11 | 読んだ本
学生と読む『三四郎』
石原千明 著
新潮選書
   新聞の書評欄で見つけ、読む気になってしまった。著者は現在、早稲田大学の教授である。国文学科における漱石の『三四郎』の読み解き方だと、タイトルから想像する。また書評でも、「『いまどきの大学生』が漱石の『三四郎』を教科書として、講義の受け方、文章の書き方、テーマの絞り方も資料の収集など文学研究の一から学んでいく」なんてことが書かれていたように記憶する。実際、カバーには大きな字でこう書いてある。
   講義の受け方、文章の書き方、テーマの絞り方、資料の収集方法など、大学生活の基本を身につけるために!
   うまくいけば、総合的な学習においての研究の方法やリポートのまとめ方の参考になるかも知れない。こういう浅はかな期待をしながらこの本を開いてみる。
   ところが、である。期待した部分は実は全体の半分である。学生のリポートが登場するのは、全八章のうち、四章からだ。著者は「はじめに」で次のように書いている。
   もうひとつ僕がこの本で書きたかったのは、「いまどきの大学教員」とはどういう存在かということだ。(略)ただはっきりわかるのは、世間には大学教員の生態がよく知られていないらしいということである。(略)この本の書き方は当世大学事情がわかるように「物語」仕立てにしたところもある。
  著者は書評やカバーがいうことのほかに、当世大学事情も書きたかったというわけである。意図ははっきりしないが、つまり、著者の意図を、新聞の書評も本のカバーですら、正しく伝えていないことになる。こういうこともあるのだという発見が、皮肉だが私にとっては収穫であった。
   では、「学生と読む『三四郎』」は面白くないのかというと、これはこれで面白い。
   まず、大学教員と高校教員。結構似た部分があるではないかということ。舞台となる大学で、著者は教務部長をしている(正確には、していた。現在は異動して早稲田大学にいる)。国文科の教授として以外のさまざまな仕事に追われている。年度当初の時間割編成も当然仕事のエリアに入る。専任教員にも非常勤講師にもいろいろな人がいる。そういう教員たちともうまくわたりあって、円滑に進めていくのも部長の仕事らしい。
   大学の教員は「教育」「研究」「校務」がバランスよくできてナンボの商売なのである。両立ではなく、鼎立とでもいうべきか。当たり前の話だ。
   という。だから著者は「校務」を「雑用」とはいわない。三つのうち、「研究」を「生徒指導」と読み替えたら、そのまま私たちにも使えるのではないか。
   授業の中でも、教科書を忘れた学生は退場させたり、代返をした学生は名簿から削除するという。歴史のある大学の教員でも、学生の躾に気を配らなければならないとのこと。
   また、高校で指導する国語と国文科で取り扱う文学が、まったく違うものだということを、久しぶりに思い出させてもらった。テクスト論という研究方法がどんなものかを、わずかだが理解できたように思う。また学生のリポートや、リポートへのコメントを通して、『三四郎』へのさまざまなアプローチの仕方を、少しだが教えてもらった気がする。
   そしてなにより、リポートを通して、著者が学生のひとりひとりを冷静に見つめ、細やかに的確なアドバイスをしている姿が読めるのである。私は果たして、提出物を仲立ちにして、生徒への的確なアドバイスをしているのだろうか。そもそも生徒を冷静に見つめようとしているのだろうか。この本が、教えてくれた一番のことは、この点である。

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