2月6日、母は天国へ旅立っていきました。
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ALSの診断を受けてから約1年4ヵ月。
辛く苦しい日々でした。
看護型の施設に入り約5ヵ月。
私の家からは車で20分と近いので、週に2、3回は母に会いに行っていました。
会う度に病気の進行を目のあたりにし、今年に入ってからは更に症状が進んできていました。
すべての筋力を失っていく残酷な難病。
1年以上前から喋ることが出来なくなった母は、筆談という唯一のコミュニケーションがとれていたのに、今年に入ってからはその力もなくなっていました。
そして1月24日の朝、施設の方から私に連絡が来ました。
母の容態がいつもと違うという連絡が。
酸素濃度は78しかなく苦しんでいると聞いて、私はすぐ施設に向かいました。
私が施設に着いてすぐ、外部にいる主治医の先生も駆けつけました。
そして先生が私に言った言葉は、
「ここ2、3日が山です。会わせたい人を呼んでください」。
「え!?」
思いもしていなかった言葉。
「もしかしたらこのまま…」
と、更に主治医は踏み込んだ言葉まで。
その後は妹や弟に電話をして、そして母の孫達にも連絡が行きました。
「お母さん頑張って、お母さんお母さん…」
私はとにかく母に呼びかけました。
そのうち驚くことに母の酸素濃度が上がって来て、なんとなく意識も戻って来ました。
しかしまた2、3日経つと容態が悪化。
その度に医師からは「山」という言葉。
そんな繰り返しを3度しました。
私は施設の母の部屋に寝泊まりをしていたけど、3度目の山を乗り越えた後は、もう大丈夫じゃないかと思い、自宅に帰りました。
だけどその時は4度目に来てしまいました。
2月6日の午前0時を過ぎた頃、母がまた容態が急変したとの連絡を受け、急いで施設へ。
呼吸困難に陥った母は酸素濃度がまたしても78しかなく、血圧にいたっては低すぎて数値さえも表示されないとの看護師の話。
足の方を見るとチアノーゼで色は紫を通り越し黒くなっていました。
私は母を励ましながらとにかく必死で足や脛をさすった。
「お母さん、お母さん」
それでも母の苦しそうな様子を見て、辛くて辛くて私は言ってしまった。
「お母さん、もういいよ。頑張らなくていい。充分頑張ったね。もう頑張らないで」
多分、私は3時間近く母をさすっていたと思う。
そのうち母の呼吸が穏やかになってきて、表情も苦しさが和らいできている様子になりました。足の色もいくらか紫がひいてきていました。
時計を見たら午前3時過ぎ。
そのうち看護師が来て、酸素濃度を測ると91まで上昇!ただ、血圧はまだ数値に出てきませんでした。
それでも母が苦しそうではなくなり、寝息も聞こえてきたので、ああ、またお母さんは山を乗り越えたんだ、なんて人だ、と思い安心して、私もそのまま母の傍でうっすらと眠りにつきました。
そのうち、「○○さん!○○さん!」と、誰かが母を呼ぶ大きな声でハッと目が覚めました。
え!?まさか!と私はすぐ事態を理解して飛び起きました。
母は、永遠の眠りについていました。
でもきっと眠ったのだと思います。
やっと苦しさから解放されて、眠りながら逝ったのだと思います。
闘病の苦しい日々、
これが母の限界でした。
もう充分です。
母は本当に頑張りました。
葬儀は2月10日でした。
まだ実感がしません。
遺骨を拾ったのに、母の死を受け入れたはずなのに…
少しずつ少しずつ、気持ちを整理しようと思います。
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