妹はよく食べよく寝てよく…

2025年02月27日 | 日記
先日の三連休に、東京に住む妹がやって来た。

目的は姉である私を励ましにだようだ。

母が難病を発症して亡くなるまでの約1年半、「姉ちゃんが1番お母さんに寄り添ってくれた。ありがとう」と妹は言ってくれる。

それゆえに私の母ロスが心配だとも言ってくれて、私をホテルでゆっくり休ませ美味しい物を食べさせたいとのことだった。

妹だって母の死の悲しみから立ち直っていないだろうに、私のことをそういうふうに思ってくれるなんて。

でも確かに母の死から毎日私は鬱々とした気分で、1日に何回も母を思い出しては涙が出る。少しリフレッシュも必要なのかもしれない。

ということで、只今無職の私は、遠慮なく妹のお世話になった。

ホテルといっても私の家からは車で30分ちょっとの所。でも私はホテルに泊まるなんてかなり久しぶり。家はすぐそこだが、プチ旅行気分で妹とツインの2泊させてもらった。

1泊目は夕飯にお寿司を食べ、お部屋にマッサージの方を二人呼んで、私達は同時にマッサージをしてもらった。なんとまあ贅沢気分。

こりゃ体の疲れが取れてぐっすり眠れるぞ…と思いきやだったのだが、なかなか眠れず。

眠りに就く前まで妹と母の話などたくさんして、妹はいつの間にか眠っていた。

しかしながら私は眠れない…

仕方ないのでスマホで動画を見たりしていたのだが、全然眠れず焦ってきた。

その頃妹はぐーぐーイビキもかき出した😅

そうしてなんと私は一睡も出来ず朝を迎えた😱

それでも不思議なことに眠くない。

「えー、眠れなかったのー!?」とグッスリ寝た妹はそのままトイレへ。

そう、私は場所が変わると眠れない上にベンピにもなる体質😣

「このホテル、朝ごはんのバイキングが美味しいんだよ」と、出す物は出して今度は食べる気満々の元気な妹。笑

いや私はそんなには食べれないしなあと思ったけど、朝ごはんは確かに美味しかった😄


(1泊目の私の朝食)


(2泊目の私の朝食)


(隣の席の妹の朝食)

二日目はドライブをして、息子の住む町に行き、妹からの差し入れをアパートの玄関先に置いて来た。

実はその時息子はコロナ療養中。
昨日(2/26)からは仕事に復帰したようだ。

その後昼食は焼肉屋。
もちろん妹の奢りで😂

まあ焼肉屋で妹はモリモリと私の倍は食べていた😅

その後はカラオケ店。

カラオケなんて私は10年振り?いやもっと?とにかく久しぶり過ぎるが、カラオケ大好き妹は普段からバンバン行ってるから何かと慣れたもの。

歌も相変わらずパワフルな声量で歌っていた。今どきの歌や今どきのK-POPなど、レパートリーが広い広い。声もデカいデカい。

私なんて久しぶりに歌って「あれ?私ってこんなに声が出なかったっけ?」と思うほど声量がなかった。

しかも歌う歌は70年代80年代のアイドルソングぐらい。

だけど不思議…

「姉ちゃん声が出てきたね」と妹が言う通り、歌えば歌うほど声が出て来たのを感じた。

あら私、まだ歌えるんだ…なんて調子にのってきた。

その日の夜はぐっすりとまではいかないが、だいぶ眠れた。

妹はその前にとっくに眠りについていたが。

そして朝もはよから出す妹。笑
私はそちらはまだ出ず。

そんな2泊3日、気がつけば妹から元気をもらった。

前からそうだとはわかってはいたけど、つくづくよく食べよく寝てよく出して笑、よく動きよく笑いよく泣きよく怒り、そしてコロッと切り替える、そんな妹である。あーうらやましい笑

そしてよく遊んでいる。東京に居れば楽しみは多いようだし、国内外旅行もしまくっている妹。

昨年12月は韓国に、今年の夏は香港に行くそうだ。

でもそれは、妹はよく働いてもいるから。


私もまた働かなければ。




このたった6年間で、義母、夫、そして母を見送った。

思い起こせばもっとこうすればよかったという後悔と、悲しい気持ちがこみ上げてばかり。

今となってはどうすることも出来ないから、仕事を通じてせめて人に優しい人間でいよう、それが供養のひとつにもなると信じて。


先日、派遣会社から紹介された障がい者施設の仕事があったが、なんとまあタッチの差で採用を締め切った後だった😣

次だ、次、切り替えよう。

切り替えが得意なパワフルな妹を見習って。
































泣きながら笑って、笑いながら泣く(追記も)

2025年02月19日 | 日記
寝ても覚めても母のことを想い、毎日何度も「お母さん…」と口に出している。

東京に居る妹も同じらしい。

LINEでそんな悲しい気持ちを二人で分かち合っている。

それでも妹は「姉ちゃんが1番お母さんに寄り添ってくれたから感謝してる」と言ってくれる。

それゆえに私の母ロスが心配なのだとも。


今週末、妹は私を労ってくれるために東京から来るらしい。

そしてホテルを予約してくれたようだ。

私からすればそこはほぼ地元のホテルなので旅行にはならないが、10年以上ホテルなんて泊まったこともないから、まずは気分を変えてリフレッシュさせてくれるのだと思う。

「たくさんお母さんのこととかいろんなお喋りをして過ごそうね、カラオケにも行こう、美味しい物も食べよう、ああ早く土曜日が来ないかなあ」と、妹は私より楽しみにしている様子。

ここはありがたく妹の世話になろうと思う。

たぶん私達のことだから、泣くわ笑うわ大変なことになるだろう。


不謹慎な話だが、火葬の時のこと。

その瞬間、私と妹は堰を切ったように堪えていた感情が溢れて「お母さあん!」と泣いたのだが、

私達以上に泣いた人物がいた。

母の親子ほど年の離れた1番上の兄の娘、私にとっては年の離れた80歳手前のいとこである。

私と妹が、「お母さーん」と泣きながら呼んだのと被るかのように、そのいとこが目の前に出て来て、

「おばちゃーん!おばちゃーん!なんで行ってしまうのー!行かないでー!」

と、泣き叫びながらそしてそのまま崩れ落ちてわんわん泣いた。

「え…」と私は思わずびっくりして固まりそうになったのだが、どうやら妹もそうだったらしい。

それでも私達以上にこんなに泣いてくれるなんてありがたかった。

とはいえ、その後のお葬式では飽きたのか隣の席の人と小声でお喋りをしていて、その変わりようは私と妹の間で笑い話になっている。

笑い話だなんて全く以て不謹慎だが、母もそれくらい笑って許してくれるはず。


許してくれるといえば…


先日私は母が居た施設の部屋の片付けをして来た。

久しぶりに部屋のドアを開けた瞬間、切なさが胸にこみ上げて泣きそうになった。




当たり前だけど、母が居ない。

いつもなら、「お母さん来たよ~」と言いながら入ると、車椅子に座って居る母がそこに居て頷いてくれた。
 
私は涙が出るのを堪えながら次々に荷物をまとめた。

すると母がまだ書くことが出来ていた時のひと言日記が出て来た。

何気にページを開いたそこに私の名前があった。

(名前が出てしまうけど今日のブログだけ…)




読んで私は涙が止まらなかった。

よく母は私だけにイライラをぶつけてきた。だから私も母が病気なのについ怒ってしまうこともあった。

私こそ本当にごめんなさい!

今も思い出して泣いてしまう。

どうすればいいんだろう。

母に会いたい

そしてもっと優しくしたい

時間を戻したい


追記

明日、派遣会社から紹介された職場を見学して来る。前回の飲食店から打って変わって、久しぶりにまた福祉の方に。














母は最期まで頑張りました

2025年02月12日 | 日記
2月6日、母は天国へ旅立っていきました。

ALSの診断を受けてから約1年4ヵ月。

辛く苦しい日々でした。

看護型の施設に入り約5ヵ月。

私の家からは車で20分と近いので、週に2、3回は母に会いに行っていました。

会う度に病気の進行を目のあたりにし、今年に入ってからは更に症状が進んできていました。

すべての筋力を失っていく残酷な難病。

1年以上前から喋ることが出来なくなった母は、筆談という唯一のコミュニケーションがとれていたのに、今年に入ってからはその力もなくなっていました。

そして1月24日の朝、施設の方から私に連絡が来ました。

母の容態がいつもと違うという連絡が。

酸素濃度は78しかなく苦しんでいると聞いて、私はすぐ施設に向かいました。

私が施設に着いてすぐ、外部にいる主治医の先生も駆けつけました。

そして先生が私に言った言葉は、

「ここ2、3日が山です。会わせたい人を呼んでください」。

「え!?」

思いもしていなかった言葉。

「もしかしたらこのまま…」

と、更に主治医は踏み込んだ言葉まで。

その後は妹や弟に電話をして、そして母の孫達にも連絡が行きました。

「お母さん頑張って、お母さんお母さん…」

私はとにかく母に呼びかけました。

そのうち驚くことに母の酸素濃度が上がって来て、なんとなく意識も戻って来ました。

しかしまた2、3日経つと容態が悪化。

その度に医師からは「山」という言葉。

そんな繰り返しを3度しました。

私は施設の母の部屋に寝泊まりをしていたけど、3度目の山を乗り越えた後は、もう大丈夫じゃないかと思い、自宅に帰りました。

だけどその時は4度目に来てしまいました。  

2月6日の午前0時を過ぎた頃、母がまた容態が急変したとの連絡を受け、急いで施設へ。

呼吸困難に陥った母は酸素濃度がまたしても78しかなく、血圧にいたっては低すぎて数値さえも表示されないとの看護師の話。

足の方を見るとチアノーゼで色は紫を通り越し黒くなっていました。

私は母を励ましながらとにかく必死で足や脛をさすった。

「お母さん、お母さん」

それでも母の苦しそうな様子を見て、辛くて辛くて私は言ってしまった。

「お母さん、もういいよ。頑張らなくていい。充分頑張ったね。もう頑張らないで」

多分、私は3時間近く母をさすっていたと思う。

そのうち母の呼吸が穏やかになってきて、表情も苦しさが和らいできている様子になりました。足の色もいくらか紫がひいてきていました。

時計を見たら午前3時過ぎ。

そのうち看護師が来て、酸素濃度を測ると91まで上昇!ただ、血圧はまだ数値に出てきませんでした。

それでも母が苦しそうではなくなり、寝息も聞こえてきたので、ああ、またお母さんは山を乗り越えたんだ、なんて人だ、と思い安心して、私もそのまま母の傍でうっすらと眠りにつきました。

そのうち、「○○さん!○○さん!」と、誰かが母を呼ぶ大きな声でハッと目が覚めました。

え!?まさか!と私はすぐ事態を理解して飛び起きました。



母は、永遠の眠りについていました。



でもきっと眠ったのだと思います。


やっと苦しさから解放されて、眠りながら逝ったのだと思います。
 

闘病の苦しい日々、

これが母の限界でした。

もう充分です。

母は本当に頑張りました。


葬儀は2月10日でした。


まだ実感がしません。


遺骨を拾ったのに、母の死を受け入れたはずなのに…


少しずつ少しずつ、気持ちを整理しようと思います。