それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

登場人物考

2017-07-01 23:32:07 | 教育

 

 滅多に見なかったNHKの連続朝ドラマを、数回続けて見ている。このドラマは、人によっては仕事や学校に出かける前に目にする時間帯のようである。かつて見たものの中には、ずいぶん暗い世相を描いたり、意地の悪い人間が登場して、朝から不快な思いをすることもあったのであるが、今回のドラマ『ひよっこ』は、展開にメリハリを欠くきらいはあるあものの、爽やかな内容のもので、気分が悪くなるということはない。
 爽やかな感想を抱く原因を考えるに、どうやら登場人物に、一人として意地の悪い人間がいないことによるようだ。多少意地悪風の人物も、他愛がない。朝から、この世は「憂き世」だというような暗い気分にならなくて済む。
 ところが、二回、三回とみているうちに、なにやら物足りない気分になってきた。視聴者のわがままのようでもあるが、善人ばかりが描き出す世界にリアリティがない。つまり嘘くさいのである。
 小学校の国語教科書に採用されることの多かった新美南吉の作品に悪人が登場しないと言われてきた。が、彼の作品、たとえば『ごんぎつね』にリアリティがないとは言えない。その差は何であろうか。おそらく、登場人物が一面的な善人ではなく、心の内に、悪しき面との葛藤を抱えていたり、置かれている状況が複雑で、必ずしも明るくないというようなことが影響しているのであろう。
 小学校の3年生までは、作品が不条理な展開、結末を持つものは理解が難しいと言われる。不条理だけど、人間の世界には、こういうこともあるのだという理解は、小学校児童の発達段階の前半には無理ということである。上記の『ごんぎつね』が4年生の最終単元あたりに位置しているのも根拠のある措置といえよう。
 水戸黄門を見て、勧善懲悪の世界の分かりやすさに感動するというあり方は、3年生以前の段階と言えようが、成人も、こういう分かり方の気分のよさを抱え続けているのであろうか。原始的な感覚とでも言っておこう。
 ところで、一般的に、国語教科書の教材が暗いのは、登場人物の相互あるいは内部の葛藤関係を描くことが多いからであろう。善人、悪人という観点に絞れば、人間は、悪しき面と善き面の両方を抱え込んでいる存在である。
 水戸黄門のように、「○○屋、おぬしも悪よのう。」と言われるような単純な悪人は、稀であるということになろう。
  が、リアルな世界は、複雑で、明暗ないまぜになり、不条理なものも抱え込んでいる。それを理解し、耐え、克服することができるような人間に育てることが、教育の目標あるいは願いであろう。
  教育実習生の授業分析の席で、ある学生が、「この登場人物は、善い人ですか、それとも悪い人ですか?」と真剣な面持ちで質問して、皆をびっくりさせたが、私たちには案外、そのような素朴な認識の基盤が生き残り続けているのかもしれない。幼児の時に接する昔話、民話には、「善人」と「悪人」が、セットで登場に、いつも善人が勝利して、私たちを安心させてきたという長い歴史がある。