(実のたくさんついたリンゴの木を購入)
2 「言葉」の重さ:
「言葉」「ことば」「コトバ」を重く見る立場、場合と軽く見る場合、状況とがある。
このところの、政治家の言葉は、限りなく軽い。軽いだけでなく、虚偽であることさえ少なくない。謝罪会見における当事者の言葉は、その場を言い繕い、逃れる姿勢に基づくことばであって、真実の響きが欠落しており、私たちは、言葉を信じることができなくて、憤るか、失笑するかしかない。
教育の場においてはどうか。「言葉」と「経験」が対置される場合、経験、実体験が、リアリティの有無の観点から、相対的に「言葉」は分が悪い。言葉は、中身のない形式にすぎないことが多いと思われるのである。これは、理論と実践の関係にも近い。「理屈ではそうだけど……」「理論倒れ」などに象徴されるような場合がないわけではない。
verbalismという言葉がある。多様な語義のうちに、内容の軽い表現、内容よりも形式を重視するなどがある。言葉が、このように扱われることがあり、しかも現実、世間などといういかにもリアリティのあるものを持ち出されるので、言葉の立場は弱くなるが、果たしてそうなのか。
言葉は、形骸化してしまっていることもあり、虚偽のものもあるが、人間しか持ち得ないこの「道具」は、人間にとっていかなる意義を持つのか。
言葉は、経験を対象化し、抽象化し、意義づけたり分析・批評の対象に据えるための手段となる。経験、体験は、そのリアリティには特筆すべきものがあるにせよ、個別性を有し、一過性のものでもある。そのような経験の意味や問題を問い、価値付け、関連づけ、整理、統合を可能にするのは言葉の機能による。また、人間の知見の多くは、文字言語の形で表現され、記録され、共有される。言葉なくして、人間は、人間たり得ないのである。私たちは、自分以外に読者を想定できない場合でも、自己に向けて、生活の事象や認識、思考、行動のあれこれを言葉にする。言葉にすることによって、表現されたものを対象化することができるのである。
軽い言葉も多いことは事実である。もてあそばれ、玩具にようになっている言葉も多い。「ヤバイ」などという言葉は、厳格な意味規定を拒否して、あらゆる場に適用された結果、本来の意味を失ってしまった.便利な言葉は不便を生む。
日本語は、様々な文字によって表記される。ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字と外国人が驚嘆し、落胆するほどに多彩である。せっかくの豊かな表記方式を無視して、KYなどという語が、女子高生によって拡散した。気の利いたようなこの手の操作は、日本語をダメにする。先日は、塾のちらしに、「YDK」とあって、何事かとおもったら、「ヤレバデキルコ」(yareba dekiru ko) なのだという。では、ヤッテモデキナイコはどういうのか。「空気が読める」はどう言うのか。私たちの用いるコミュニケーション手段のうち、その精密性の点で最上位に位置するのは「言葉」であるが、これらは、その精密性を台無しにしている。
言葉の重要性を再認識するためには、言葉のない世界を想像し、言葉を用いない生活に挑戦してみることである。ものの半日も言葉を使わないではいられない。まず独り言という内言が発生する。これは自己内で行われ得る思考言語の活動である。こういう言葉があるから、私が人間であり、私が私であり得ること、また、私とあなたが交流できることを体験してみよう。