それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

教育・国語教育におけるいくつかの誤解-その1-

2017-07-19 10:34:14 | 教育

 (道の辺の花) 

1 知識、技能の位置づけ: 私たち、教育に関与している者は、知識中心とか技能中心主義などということを否定しがちである。知識中心、詰め込み型教育は古くさい教育の典型であり、大学入試も、ずいぶん多様かつ柔軟になった。
 一見客観的に見える学力評価、しかもその評価の結果が数値化される知識を主体とした設問と回答が主流になることにはやむを得ない事情があることは理解できる。多種多様な知識を溜め込んで、それを復元することは、学力の一部であることは否定できないが、最も重要なことであり、人生の方向を規定するほどの存在ではないことも自明のことである。
 入試では、いろいろな改善策が講じられ、例えば、選択肢型を超える長文解答、小論文、面接などを重視する大学が数多く見られるようになった。AO入試なる、学力をほとんど問うことにない試験も、私大では必須の存在になって来ている。これなどは、学力を評価することなどは投げ捨てて、入学学生数の確保という事情によるもとと考えられ、論外である。企業の採用試験などの内容も、大学入試に近い問題があり、おおよそその曖昧さを否定できない。そこで、所属大学が重く見られることにもなる。根拠の希薄な採用は、退職、転職する若者が大量に生まれるという現象の原因でもあろう。
 断言するなら、大学教職員に、面接で受験生の質を判定する能力はないと思ったほうがよい。また、小論文を分析、評価する能力も、ごく一部の専門家以外には期待できない。結局、知識、記憶を問う試験を廃止するというよりは、多様な方法で学力、能力という複合的で分かりにくいものを手探りし、多様な方法によって評価した結果を総合して判断するというしかないであろう。

 ところで、本稿で主張したいのは上記のようなことではない。
 果たして、知識や記憶は存在悪なのかどうかということである。
 私たちが物事を認識したり、創造したりという高度に複合的な活動をする場合に、知識や記憶はどのように貢献しているであろうか。 
 知識や記憶は、それのみでは、クイズ学力と同じような性格のものに終わり、生きていく上で大した役割を果たさない.一方で知識中心、記憶型能力が批判されながら、クイズ番組がもてはやされるのはなぜだろう.単に、量的に多くのことを溜め込んでいること自体は、善いとも悪いともいえない。多くを知っているものがよりよい生き方をしていることの保障にはならないということである。
 が、知識(何かを知っていること、想起できること)は、金銭になぞらえて言えば、「預貯金」のようなものであり、人間の活動の基本的な部分で貢献していると考えたい。私たちが知的活動のみならず、情動的な反応をする場合にも、何らかの基準、基本、タイプというものがある。その基準等を形成しているのが知識と言えなくはない。気ままに、その場に応じて、直感的に行動、反応することもあろうが、それだけで人生を歩むことは危険である。
 外国語を学習する場合には、文法知識がある方がよい。通販の宣伝文句に、「文法は必要ない。ただ聴くだけ」などというものもあるが、安易に真に受けることはできない。私たちが母国語を習得する時には文法など必要としないことを根拠にすることが多いが、それは獲得語の自由が許されている母国語(第一言語)の場合であって、外国語学習には適用できないのではないか。母国語の知識、学習している外国語の文法知識などが障害になるはずはない。母国語についても、「ラ抜き」言葉の何が、どのように問題があって違和感を覚えるのか走っておいた方がよい。飛躍を承知で言えば、スポーツ観戦においても、当該スポーツのルール等についての知識がある方がより深く、正確に、楽しいのではなかろうか。

 わが国では、二者択一という単純な思考方法が強固である。すっきりして、いいことはいい。しかし、ものによりけりで、教育のように複雑な事象について、二者択一は危険であり、不合理でもある。
 AかBかではなく、AもBもであり、AとBがどのような関係で同居することが望ましいのかを考えるべきである。
 必要な知識は、臆せずに要求しよう。不要な分野や良の知識は排除しよう。知識は、積極的に、より高次の思考活動や創造的、批判的な行為に活かしていこう。預貯金は、溜め込むこと自体ではなく、どう有効に活用するかが必要であるのと同じである。