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引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「単元」について考える(「単元」とは何か、今日の「単元」観の問題)

2017-07-17 16:11:27 | 教育

  (やや時期遅れの合歓の花)

 教科書は、原則的に、「単元」によって構成されているが、ややもすると、「単元」という意識は希薄になりがちである。
 そもそも単元とは何か。19世紀に出現したという「単元」は、わが国には第二次大戦後にアメリカによってもたらされた「Unit」という語によって、一般化し、戦後のわが国の教科書構成の単位となっている。
 現行教科書を参照してみよう。
 例えば、光村図書第5学年用は、以下のような単元から始まっている。
  ①人物のかかわり合いを読み、感想を書こう(読む)
       のどがかわいた(ウーリー= オルレブ作 母袋夏生訳)  この一群の語句のうち、単元名は、「人物のかかわり合いを読み、感想を書こう」である。しかし、一般に、指導者側の意識としては、「のどがかわいた」という作品名の方を意識することが多い。つまり、「単元」は、その存在が形骸化してしまっているのである。 ちなみに、この単元は、種類としては、「技能単元」といわれるものである。

 Unitという英語が示すように、それは何かのまとまり、単位、組み合わせを意味しsている。「何か」とは、学習内容・指導内容のまとまり、単位である。
 戦後にもたらされた単元は、もっぱら「経験単元」であり、アメリカの経験主義教育の成果であった.知識や技能を指導するという過去のあり方に大して、経験を教えるということの曖昧さ、難しさのために、指導内容が不明確になり、系統性も欠くという欠点が露わになり、「這い回るわ経験主義」などと呼ばれた。
 アメリカには、経験主知教育の蓄積の元に、例えば『国語の経験カリキュラム』(An Experience Curriculum in English 1935)というような優れた報告書、カリキュラムの原型が存在するが、そのような基準を持たないわが国においては、行き当たりばったりで、それこそ行政や指導者の経験に頼るしかない経験主義的な指導が展開され、学力の低下を招くことになった。
 一つの生活経験をさせるためには、1群の知識・技能が必要になる。つまり、経験とその経験を支え・実現するための能力群が明確になっていなくてはならないのであるが、わが国の場合、まったく対応できなかった。教育学、教育実践の積み上げの差と言うしかない。このような「経験」に係る成果の乏しさは、その後も災いを及ぼし続け、経験重視の「ゆとり教育」、「生活科」等による教科内容の不明確化、低学力化を招くことになった。わが国の教育政策は、「人間は歴史に学ばないということを歴史から学んだ」という皮肉な言い方が当てはまる状況下にある。

 ところで、前掲の単元①は、技能単元であると言った。児童は決して喜ばないであろう、「技能単元」が、指導者に喜ばれる理由は、学力の中で比較的明確に提示されるのは知識・や技能であり、特に、技能は、学習指導要領の「指導事項」として提示されており、何を指導すべきかがつかみやすいということによる。しかし、これは、教科内容を原理とする単元であり、児童の経験や活動を原理とする経験単元の対極に位置するものである。


  今日の実践現場では、、「単元」を意識しない実践が多い。単元を意識するのは、せいぜい目標設定の段階であり、その後の単元の展開などは、さして単元意識が要求される訳でもない。要するに、教材を単位にした「教材単元」風になるのである。しかも、その教材は、技能指導という枠組みの中にある。教材中心、技能中心で学習者の論理から離れた教育は、主体的な学習者を育成することにならないであろうが、逆に、曖昧な学習者中心、経験尊重の教育も学習者の学力を保障することにならない。

 例えば、「読む」という読者の主体的な働きかけを前提とする活動の指導は、教材中心、技能中心、知識中心の指導によっては実現不可能なことが多い.何が、どう書いてある化をなぞるような教育は、指導者にとっては便利であろうが、児童の多様な読み、読解を超える反応を活かすことになりにくい。児童の多様性を踏まえ、多様な児童の反応を深め、広げ、人間としての自立を実現するような読みの指導は、国語科の主要な指導になりにくい。現行の教科書では、「読解」と「読書」は、別の存在であるという前提があるようである。これにも苦い歴史があり、学習指導要領に「読書指導事項」が独立して設定され、「読解中心主義」を克服しようとしていた。ところが、例によって、AかBかの二者択一の発想をしたために、その後の学習指導要領改定の結果、元も木阿弥になり、読解主義に長勝り、読書は、補助、補足的な単元扱い(正式な単元ではない)となってしまった。「読む」という行為は、すべて「読書」であるという立場からすれば、教室の読みから読みの楽しみを得られず、本質を求め、見定める能力をもつ主体的な人間も生まれない。国民の教育として本質的な欠陥を持つ教育になっているのではないかという心配がある。
  望ましい読書の単元としては、例えば、能力、学力のうち、ものの見方・考え方を軸に、単元を創造して見る必要はないかというのが筆者の提案である。
  前掲の光村図書に、以下の単元がある。
 ①筆者の考えをとらえ、自分の考えを発表しよう。
        見立てる   野口廣
        生き物は円柱形 本川達雄  一見して、望ましい読書単元風であるが、これは技能単元として構造化されている。
  教材に不満があるが、せっかく「見立てる」という認識方法を軸にする教材二つであるから、「見立てる力」「見立てるということ」などの枠組みで、二教材を関連的に指導すると、従来の単元にはない、新しい視野が開けるのではなかろうか。