「闘将」と呼ばれるプロ野球監督が亡くなった。選手たちに対しても、シビアで激しいことで知られていた。負け試合では、選手のほとんど全員が殴られ、中には口を切って血だらけになっている者もいた。が、人情味のある人柄で愛されていたという。関係者がインタビューで語っていた内容である。
どこかで聴いた話のようだ。あの日馬富士の暴行事件と本質はあまり変わらない。被害者とされる貴の岩は、日頃から日馬富士に可愛がられていた(相撲用語でなく、文字通り)という。負傷したのちに、両者は握手して、一件落着かと思われたらしい。
しかし、結果は、一方は「美談」、他方は「事件」である。こういうのをダブルスタンダードという。
一般に、運動系の集団では、暴力に対する警戒感が希薄のようである。いや、運動系と限定するわけにはいかない。文化系でも同じことが生じる。監督、先輩は、未熟な者もの弱い者を、物理的なああああああ「力」で導いて当然という空気が生まれがちである。時々、テレビに、鬼のような顔で怒鳴りつける監督が放映されて不愉快な思いをすることがある。その顔と態度は醜い。大抵は、好きで、自主的に参加して鍛錬している部員や生徒を怒鳴りつけたり、暴行を加えたりする権利を持つ人間が存在してよいのであろうか。恐怖や痛みで躾けるのは動物に対する行為以下である。高校野球などで、負けていてもニコニコしている監督がいることを知る。そして、チームは必ずしも弱くない。なんともさわやかではないか。
一般に、怒りを発する指導者は、スキルが未熟なのではなかろうか。教員が兼務する学校のクラブ活動の監督でも、低レベルの資質の指導者は、ついつい暴力的になるように思う。このような指導者の姿勢は、部員にも感染する。授業中には見せない真摯な態度の部員たちを、暴力的に支配する権利などは誰も有していない。時に部活での厳しい指導やいじめが原因で命を絶つ者が出る。さっさとそんな組織からは離れよう。
S県の研修会で、県教委の講師が、学校は何で動いていると思うか?と問うたという。毎日新聞コラムの投稿者である新任教頭は、「教職員か、児童・生徒か、情熱とかやる気か」と至極まともなことを考えた.しかし、講師の答えは、、「それは文書です」であったという。投稿者は、「確かにそうだ」と納得する。
この確かにそうだという納得の仕方が、いかにも教頭先生風で納得できない.「文書である」という答えは、受け狙いのようで、感じが悪い。コミュニケーションや伝達の手段として文書を利用するのは当然である。いかに伝達手段が発達したとしても、文書はなくならないであろうし、記録性のある手段として、極めて有効なのである。
国会で、文書による記録がないことがずいぶん問題になったことは記憶に新しい。「モリ・カケ」という蕎麦のような怪事件も、土地価格決定の記録が文書として残っていないことが分かり紛糾した。また自衛隊の月報が廃棄されて残っていないことも大問題で、大臣辞任につながっている。
主として言葉で書かれる文書は、内容の正確な伝達の面でも、記録性の面でも有効であり、貴重であることはいうまでもないが、文書が有効であるか否かは、その内容によることも、またいうを俟たない。内容=情報が誤っていないかどうか、偏っていないかどうか、良識的であるか、的確であるか、緊急性があるか、有用性があるのか等が問われなくてはならない。これらの基準に照らして、納得したりしなかったりすべきものである。表面的に「納得した」ということでは、組織の一員としても、独立した一人の教育者としても問題があろう。
教育は、その方向性や政策が、「文書」の形でもたらされることはあっても、結局は、教員一人一人の見識やスキル、組織のありよう、情熱、そして何よりも、重要な存在である児童・生徒との関係を築き上げることによって可能になる。文書は、連絡、意思疎通の一媒体に過ぎない。教育研究、研修の場では、しばしば、講師や指導主事、さらには来賓などによって、意表を突くような発言がある。個性表現のためのよくないテクニックであろうが、いたずらに混乱を招くような発言をすべきではない。またもって回ったり、斜に構えた発言に惑わされることも避けたい。
最後に、もう一度、「教育は文書で動いているのではない。良識と責任を有する組織、情熱と高い専門性のある教員、児童・生徒を人間として尊重する覚悟によって動いている」のである。