私の住む団地は、規模が大きく、公園も7つあり、多種多様な樹木が公園を始め、多くの通りに彩りを与え、住民は、四季折々楽しんでいる。珍しい樹木には、名札が付けられていることも多く、丹念にみれば、植物の知識も豊かになるはずであるが、時に間違ったものもある。
上の写真は、いずれも名前と植物が対応していない例である。植えた当初は、当然、「もの」と「なまえ」は対応していたはずであるが、時の経過とともに、「もの」が消滅してしまい。「なまえ」を示す立て札のみが残ってしまったのであろう
そもそも人間は、身の回りの物事に名前を付けなくてはならないという性癖をもっているようだ。確かに、名前も分からないものが家の中や身の回りにあると不安である。そこで、なにはともあれ、その正体不明のものに名称を与えて、安心するのである。心理学者が様々な症例に、芸のない名称を付けて、不安を抱える人だけでなく、自分も安心するのも似たようなものであろう。無数に輝く星にも名付けをしたがるというのも人間なればこその性(さが)であろう。
『徒然草』の第60段に、一人の高僧がある坊さんに、「しろうるり」というあだ名をつけ、人から、それはどのようなものかと尋ねられて。「そういうものは知らないが、あるとすればきっとこの坊さんの顔のようなものだろう」と言ったという話が書かれている。これは、者と名前関係、人間の名付けの衝動を示していておもしろい。名前は、ものの代替物やレッテルであると同時に、名前の方が実体を規定する力を持つものでもある。「名前負けする」などは、後者に関係する場合であろう。
人間の名前は、親や親族、関係者の名付けにかかる創造力の上限を示すものである。昨今はやりの「キラキラ・ネーム」だけでなく、すべての名前に名付けた者の願いが込められているはずである。